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良き。すごく。
●芸術は、個が全責任を負って観ることができる
・観る人の心を動かすもの、が良い芸術であること。
・どんな絵に心が揺さぶられるかは、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。
・上手なだけの絵は、知識や技の痕跡は垣間見えても、直接、感性を呼び覚ます力、絵を観ることの喜びや哀しみ、怒りや晴れやかさがない作品も多くある。無残である。
・本当は、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのに、そのことに気づかないづかない。気づこうとしない。結局、怖いからだろう。誰でも、自分の心の中身を知るのは怖い。
●ストーリーと共感の罠
・感性の根拠が自分のなかではなく、作られた作品や、それを作った作者の側にあるように思い込んでしまう。しかし、芸術体験にとってこれほど不幸なことはない。
・作品を見るのに、オーディオガイドや、はなからストーリーを知りすぎる、なんてことは、本当に作品を観ていることになるのか。
・うまい絵、きれいな絵、ここちよい絵ほど、パッと観に判断しやすく、みなで価値を共有したって仕方がない。
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芸術における感性とは、あくまで見る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶められることもない。その人がその人であるということ、それだけが感性の根拠だからだ。(中略)結局、芸術作品は自分で見るしかない。それは誰にも肩代わりができない、あなただけの体験だ。言い換えれば、個が全責任を負って見ることができるのが芸術だ。そして、これがすべてなのである。(pp.6-7)
絵を鑑賞するのに大切なのは、なにかを学ぼうとしないことです。現代では美術は教育の一環として国の管理下に置かれています。だから、小学校のころから私たちは絵を学校の授業で習い、見方を教わります。でも、少し考えてみればわかりますが、これはちょっとおかしな考えです。(中略)私たちは、その絵がいま疑いようもなく自分の目の前にあり、それを否定することは絶対にできない、というところから出発しなければなりません。(pp.12-13)
どんなに人が連日行列を作って並んでいる展覧会でも、自分がつまらないと感じれば、それが正しい。逆に、どんなにガラガラで閑古鳥が鳴いており、ネットでもどこでも話題になっていなくても、自分がおもしろいと思えれば、批評家としてはそれが絶対的に正しいのです。(p.43)
正しいことは、正しいことによって守られているようではいけないのです。正しいことは、つねにまちがっているかもしれない可能性が残ることでしか検証できないのです。これは、「いい」と思うことはつねに無根拠であり、そのことの危うさに身をさらすことと表裏一体でなければならないという意味のことを書いたのと、まったく同じです。美術においてそれを知ることができる唯一の場所が、作品の前です。(p.45)
ものづくりを学ぶ学生が大学に籠って自分の技を磨くのはよいとして、日ごろから多くの展示に接していないと、どうしても体験が貧困会します。仲間どうしでいくら意識して見ても、それは結局学校という限られた内部だけの話にすぎません。コンビニ食ばかり食べていたら、フランス料理の判断はできっこありません。そして美術はどうしてもフランス料理のほうに近いので、美術家を目指すなら、美術体験の貧困は致命傷になりかねません。早め早めに機会をつくるしかありません。(p.50)
こういう見方を続けて半年くらい過ぎたころから、絵についての知識ではなく「体験」が、少しずつからだに刷り込まれてくるのが実地で感じられるようになりました。絵を見る、というよりも獲物をまるごと呑み込んで、やがて胃袋がそれを消化して、いつのまにか血となり肉となるような感覚です。決して、知識や勉強ではないのです。(p.58)
本から本を伝って、行けるところまで行く。いや、本だけではありません。映像のことだってあるし、音楽のことだってあります。とにかく、そうやってバラバラの断片を好奇心だけを頼りにつないでいく、縫い合わせていく。そのときふと、まったく未知の風景が見えてくることがあるのです。道に迷わなければ、絶対に出くわすことのできない風景です。(p.74)
歩きスマホがいやなのは、人���善意に頼っているという点もあります。自分はただ直進するわけだから、危ないと思うなら、気づいた人のほうがよければいいという暗黙の考えがある気がします。これは他者の存在という考えを根本的に欠いた態度です。そういう人は、自分とはまったく異なる価値観をもって、同じように行動しない人が世の中にはいるし、それが世界というものなのだ、という認識をもっていないことになります。(p.114)
これだけ情報が密に行き交うような世の中では、「ぼーっ」とするのはいわば無駄な時間です。しかしこれが無駄ではぜんぜんなかったのです。バスの座席に座って窓からどうでもいい風景を漫然と眺めている。こういう時間は、実は随所随所で頭を休め、それまでに取り入れた情報を咀嚼し、意味あるものへとゆっくり醸成するうえで、とても大きな役割を果たしているのではないでしょうか。(p.117)
よく考えてみれば奇跡のような出来事です。遺伝子を分けているとはいえ、まったく別の人間が、ある日を境に自分の家に登場するのです。見知らぬ宇宙からやってきたような感じさえします。母親にとって子供は、自分のからだから血や肉を分けてじかに出てくるわけですから、立場的に父親とはちょっと違うかもしれません。しかしそれにしても、命が現れる不思議に違いはありません。生まれ落ちたときには、子供はこれから自分で生命を維持するための複雑きわまりない臓器や生理をすでに身につけています。誰が設計したわけでもありません。(p.193)
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美術をいかに鑑賞するのか?美術批評家とはどんな人なのか?など知られざる部分をエッセイとして書いてくださっているので、非常に読みやすく、インデックスごとに読めるので気軽に自分の知らない世界を垣間見る楽しさがあります。
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タイトルから美術評論の話を期待していたが、タイトルに反して?大半は著者の自分語りなので、著者にそこまで関心がない初読者としてはあまり興味がもてない。他の本から再チャレンジしよう…
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日本語でない人の声の入った音楽が一番効率よく進むことについて「誰かと対話をしながら応答しているように感じるからかもしれません。」としたのは、私も多少の音楽や生活音がある環境でないと集中できない性質なので、なるほど!と思った。
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読書することは新たな視点を獲得することだ。
他人(著者)の視点を借りることができる体験なのだ。
そう改めて感じた1冊だった。
美術批評家の著者に芸術に関してのエッセイ。
芸術への接し方から、読書の際の本の選び方、著者の地元への想いや子育て観まで内容は多岐に渡る 。
個人的には芸術への接し方についての考察(見解)が目から鱗だった。
感性は磨くものではなく、うちに備わるものであり、芸術は作者の事情や付随する情報に捕らわれているうちは自由な見方を奪われた状態であるということ。
「感動」という便利で安易な言葉で片付けず、そのありかを探るのが批評であるということ。
そういう視点で見ると、自分に響く作品は多くなくていいし、また人と同じでなくていい。
自分の身体の動きに素直に芸術鑑賞をしたいと思った。
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美術館に行くことが多いのだが、
自分の受け止め方、鑑賞の仕方はこれでいいのだろうか、と自問することがある。
これは美術を愛好する人ならば、誰しも思うことなのではないだろうか。
よく言われることに、「感性を磨く」という言葉がある。
本書の著者は、岡本太郎の言葉を引いて、これを厳しく否定している。
見ることによって得られる体験は、あくまで見る側によるべきものであり、
それを作家側に委ねるべきではないと。
考えさせられることも多い書だった。
確かに最近、絵を観るのも惰性になっているなと思うところもあり。
でも、全般的には賛成はできないなとも思う。
美術作品の全部が全部、何かを感じさせるものでもなく、
そもそも明治期に輸入された「美術」という観念は、ごく最近のものであるということ。
人が作ったものである以上、まったく思いや思想がないとは言わないが、
すべてを自己表現の産物かのように受け止めるのはやりすぎな気もする。
そういう意味でいえば、自分は「美術」にはあまり興味がないことになるし、
どちらかといえば、そうした人々がどう営んできたかという歴史の方に関心が向いていることに気づかされた。
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冒頭の「感性は感動しない」は芸術を世間の評判に基づいたスタンプラリーのように捉えがちな普段の生活を顧みさせる。
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こういう本に時々出会えるから読書っていいんだよな.学生時代に著者のシミュレーショニズムを読んで以来,著者の本をあらためて読むのは20年ぶり.
現代美術の個別論はほとんどでてきませんが,著者がどうやって批評の世界,美術の世界に足を踏み入れることになったのか,自分のヴォイスで読者に語りかけているのがとても良かったです.
あと,椹木さんむかし美術手帖の編集のお仕事もされていたというので,さもありなんでもビックリ.
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率直というかなんというか、読んでいて心地の良い文章だなと思いました。喩えもとてもうまくて、こういう表現をする人はどんな風に育ってきたのかな、どんな学生時代を過ごしたのかなと、読み進むうちに興味が深まっていきました。
「眠りと執筆」や「憑依する音楽」など、感じてはいても普通は見逃してしまったり気づいたら見失ってしまっているような、感覚を言葉に留めているのがすごいなぁと思いました。自分の語彙が少ないのがもどかしいのですけれども。
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大学図書館で借りて読んだ
内容は忘れたけど、読みたいと思った理由は、自分が感性を大切にするタイプだけど、タイトルは「感性は感動しない」…、するもんじゃん?って思ったから。
ただ、展示会で感性をあまり使わなくなってしまったような気がする、キャプションとかの「情報」だけを頼りに作品を見るようになってきている。
例えば、絵を見ながら、〇〇技法とか〇〇主義があるのかな〜とか予想してからキャプションで答え合わせしたり…(最近これハマってる)
芸術の楽しみ方迷走中
そこが楽しいんですが。
再読希望
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美術批評家による随筆集。美術や音楽に関することから日常のくだらないことまで色々書いているけれど、特に印象に残ったのは次の2つ。
1つ目は、冒頭の「感性は感動しない」で書かれている、美術作品を「まとまり」として見るということ。絵や彫刻を見るとき、作品になにか始まりや終わりがあるんじゃなくて、目の前には当の作品という「かたまり」そのものだけがあって、それを総体として捉えるべきだとしている。そのときに感じるのはどんなくだらないことでもよいとのこと。作者がどういう背景で描いたものだとか、どういう技法を使っただとかは二の次であって、自分のそれまでの経験やそのときの感情(というこれらの総体もかたまり)が作品というかたまりをどう処理するかを感じよう、ということらしい。ただ、批評するときというのはこのかたまりとの出会いを言葉にする必要があるので、かたまりについて感じたことをじっくり醸成していく過程が必要だという。鑑賞する先にはその感動に集中し、アウトプットまでの間にそれらの感動を噛み砕け、という風にも受け取ることができる考え方で、面白いなと感じた。
2つ目は、音楽と美術の違いについて。上で書いたように、美術作品というのはモノとして存在するのであって、それは鑑賞者がいようがいまいが関係ない(だれかが作り終えた段階で既にモノになっている)。でも、音楽というのは「再生」されて初めて作品になるという。しかも、その再生のされ方は何でも良くて、プレイヤーで再生するとか、頭の中にメロディがこびりつくとかでも良く、鑑賞者が存在していて初めて成り立つようなアートであるという点で、美術との違いがあるということを強調している。
さらに、音楽そのものが「再生されたがっている」(そして音楽の中毒性というのもこの性質に根ざしている)という若干オカルトぽいことまで言っており、(音楽にそのような主体性があるかまでは確かめようがないけれど)言わんとしたいことはとてもわかる。とすると、本当のヒット曲というのは、ヒットチャートやYouTubeでの再生回数だけじゃ測れない気もする。仮に、曲がヒットする、ということが、如何に人をその曲の中毒症状に陥らせたかと同価とするのなら、もっと日常のどうでもいい場面で口ずさんでる意外な曲が、真のヒット曲の座を手に入れるのかもしれない。
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美術の見方なのかと思ったら、色々徒然なるままに書き綴った一冊。
でもタイトルの「感性は感動しない」という言葉の意味が腑に落ちた。