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オレ様化とポストゆとり世代の持つ反社会性や鬱傾向は切っても切れない関係、というのが持論。解決策にはあまり言及されていないらしいが、とりあえず一読したい。
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「プロ教師の会」代表が「子どものオレ様化」を軸に、教育を論じているのが本書。
「オレ様化」とは? ただ生徒がエラソーになったというだけのことではない。かつて「生徒」というものは、人格的にも知識的にも半人前で、教師から一方的に「贈与」を受け取る存在だった。しかし社会の近代化にともなって、子どもは変わった。大人と対等の存在、教師と対等の1人の「個」として現れてきた。教師-生徒関係が、「贈与」から「商品交換・等価交換」になってきたのが、教師の権力の失墜→学級崩壊→不登校・いじめ・援助交際・ひきこもり、へとつながっていくのだ……と本書は説く。
いつの時代も子どもは変わらないとか、子ども1人1人に合った教育をしなければならないとか、子どもが自ら学ぶ姿勢を大事にとか……そういう考え方を著者は教壇に立ち続けた経験から「甘い」と切って捨てる。子どもたちにまず必要なのは「個性化」ではなく「社会化」であると。
「子ども」と「学校」の関係だけでなく、「子ども」と「社会」との関係を織り込んで展開される論理は、教師としての実感に支えられているぶんだけ、他の教育論者に比べうわすべりしていない。第1章の論理に従って、第2章で宮台信司、和田秀樹、上野千鶴子、尾木直樹などの教育論が批判されるが、一理あるなぁと思う。
しかし、本著に従えば、「子ども」の変化に対応するには、「学校」を変えるだけでは足りない。「社会」が子どもに注ぐ視線も変えなくてはいけない。それをどうするかまではさすがに荷が重いようで、明確に言及はされていない。それは読者1人1人の課題となるだろう。
また、本著で展開されているのは、しょせんは「精神論」であり、学校のカリキュラムをどうするか、入試をどうするかという現実的な施策を超えたところに成立していることを忘れてはならない。難しいのは、「そっから先」なんである。
先生や親が子どもと友だちのような関係を結びたがったり、小学生のうちから「個性を伸ばす」教育を施したり、学校に「市場原理」を持ち込もうとしたり……つーのは、この本をあてにすると、かなりヤヴァイことのように思える。「ゆとり教育」か「詰め込み&反復」か、「生きる力」か「学力」か。そういう二項対立の図式からすこし視点をずらして考えるために、悪くない本だと思う。
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水無月新月の候におすすめする一冊は、諏訪哲二著『オレ様化する
子どもたち』です。著者は1941年生まれで、01年に定年で引退した
元高校教師。教師として教育現場の荒廃と格闘し続けてきた方です。
タイトルはちょっとキワモノっぽい本書ですが、中身は至って真剣。
教師ならではの視点での極めて真面目な教育論が展開されていて、
のっけからぐいぐいと引き込まれます。教育の考察を通じて、近代
とは何か、個性とは何か、というところまでが問い直されているの
で、子どもの教育に特に関心がないという方にも、十分な読みごた
えのある内容となっています。
「オレ様化」とは、80年代中葉以後の学校現場で出現してきた「新
しい生徒たち」を形容する言葉です。この「新しい生徒たち」に特
徴的なのは、すでに完成した人格を有しているかのようにふるまい、
学ぼうとも、自分を変えようともしないことだそうです。だからと
言って「強い自己」が確立されているわけでもなく、むしろ対人関
係や社会的適応性の面で問題を抱えやすく、自己の殻の中に閉じこ
もりがちな「弱い自己」であることが特徴だとも言います。教師に
は全く不可解な存在。それが「新しい生徒たち=オレ様」でした。
このようなオレ様が生まれてきた背景には、消費社会の進展がある
と著者は説明します。消費社会の中で、学校に入る前から消費の主
体として扱われるようになった子ども達は、教育される客体として
扱われることを拒むようになります。コンビニやファーストフード
店で一人前のお客様として扱われるのと同様に、学校でもお客様と
して扱われないと我慢ができないのです。そういう中で、教師と生
徒という上下関係は成立し得なくなり、教育も機能しなくなります。
管理教育批判の中で、学校を民主化せよ、市場化せよ、という要請
が高まったことが、この傾向に拍車をかけました。教育が市場経済
や商取引の論理=等価交換の原則で語られるようになったのです。
極め付けは、1984年の中曽根内閣の時に臨時教育審議会が打ち出し
た「個性重視」の方針でした。これに基づき、80年代後半には、学
習要領の全面的な改訂が行われ、「社会性」よりも「個性」の方を
重視する教育が行われるようになるのです。これは、幼児期の全能
感を抱えたままの子ども達を大量に出現させることになります。そ
の結果、「学級崩壊」という現象が生まれ始めるのです(学級崩壊
という言葉がメディアに登場するのは1998年のことです)。
このように、消費社会化の進展の中で、もはや学校は機能しなくな
っています。かと言って、教師の無能や学校システムの無効性を騒
ぎ立てても、ましてや子どものせいにしても、何も解決しません。
誰が学校を、子どもをこのようにしたかと言えば、結局のところ、
消費社会に安住する我々一人一人なのです。ですから、これからは、
親として、或いは、オレ様化した部下や後輩を抱える上司や先輩と
して、この問題と向���合っていくしかありません。それは、簡単に
解の出ない、とても困難な作業です。
賛否両論ある一冊のようですが、親としても、上司や先輩としても
一読しておく価値はありますので、是非、読んでみてください。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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いい教育とは「のびのびして厳しい教育」である。「のびのび」か
「厳しい」のどちらか一方になってしまってはいけない。そうなれ
ば学校ではなく、遊園地か収容所になってしまう。「のびのびして
厳しい」は、言い換えれば子どもに合わせないと教育は成り立たな
いが、すべて合わせてしまうと教育たりえないという意味である。
教育の営みには「従いなさい」と「自立しなさい」という矛盾した
要素が入っている。
子どもはつねに社会の状況の関数として語られるだけで、決して
「主体」としては論じられない。つまり、子どもについては論じら
れているが、子どもそのものは論じられていない。子どもはいつも
「聖なる存在」のように奉られている。
「不登校」や「いじめ」や「援助交際」や「引きこもり」は、日本
が近代化を達成して大量消費社会、高度情報化社会に突入し、その
変化が子ども・若者たちに受け取られて新しい<個人的な価値観の
創出>が始まった結果生じたものではないかと私は考えている。
問題は日本の子ども・若者たちのいまある姿が西欧的な意味での
「個」の「自立をしていない」から生じているのか、それとも「個」
として「自立した」(あるいは自立しようとしている)から生じて
いるのか、どちらかということである。
情報メディアとお金の発するメッセージによって子どもは社会的に
自立(一人前のおとな、生活者になる)するまえに、すでに「個」
を「消費主体」として自立させている。
子ども(生徒)たちはすべからく自分について「外」から批評され
ることを拒むようになった。
自分というものの価値は絶対に自分のものであり、他人の介入を許
そうとしない。異常なほどに「外」や他人(親も含む)からの評価
(比較)を恐れている。
クラスの集団性は日々弱まっている。集団性(共同性)が弱まって
生徒たちの「個」がそれぞれに自立(孤立)するようになった。
家も地域も学校も市民社会(経済社会)の侵蝕にあって共同体性を
喪失し、それぞれの「個」の利害だけが関心事となり空洞化しつつ
ある。「社会化」とは経済が支配的になるということであり、今問
題なのは「社会化された家庭」であり、「社会化された地域」であ
り、それによって「社会化された学校」なのである。
子ども(生徒)は自ら学ぼうとしなければ、どんなにたくさん授業
を受けても学べない。そして、「自ら学ぼうとする」生徒の姿勢は、
学びを始める前に形成されている必要がある。ここが「個」を基軸
とするリベラルな思想からすれば理不尽なところである。
自分の「個」に対するさまざまな抑圧や障害を乗り越えて、生きて
いく力を身につけさせることこそが教育なのである。そのとき、あ
まりに子どもたちの「個」のありのままを認めたり、救おうとする
こと自体が、逆に子どもの「個」の生命力を弱める結果になりかね
ない。
少年時代の「全能感」や「好奇心」は叩かれる必要がある。叩かれ
ないと「全能感」や「好奇心」のみが肥大化して成長し、社会性が
育たず、「オレ様化」する可能性があるからである。
自己を超えようとする者は、自己の欠如を覚知している者であろう。
自己の存在欠如(不完全さ)を知り、それを自らのものとして引き
受け、その欠如を埋めようとして走りだす者が、自己の変革、つま
り自己の実現に到達する可能性を持つ。
子どもたちにとって、「学ぶこと」が困難な時代に入ったのである。
極端に言うと、家庭(の親たち)に教養や文化力があって子どもを
「消費主体」の自信を持たせると危険であることを知っていて、な
おかつ、人が生きるということは単に経済的な自立を意味するわけ
ではないということを「教える」ことのできる家の子どもたちは、
「学び」に向かっていける。家にそういう「文化資本」のない子ど
も(若者)たちは、経済にただ翻弄されるだけである。
「個性」を大事にしないと「個性」が潰されてしまうと危惧する人
が日本には多いが、市民形成(「社会化」)のプロセスで潰されて
しまうような「個性」は潰されるべきである。そういうレベルの
「個性」を潰すために、「社会化」はなされるのである。
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●[2]編集後記
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先日、ボーイスカウトの体験入団をした娘は、すっかり気に入った
ようで、昨日、正式に入団しました。小1なので、カブスカウトの
下のビーバーという階級です。昨日から支給された制服を着て活動
しているのですが、制服を着た彼女はとても嬉しそうでした。
制服の力ってありますよね。
消防団に入って制服を着て出歩く機会が増えてから、制服の持つ力
について考えるようになったのですが、例えば、消防団の制服を着
ている時は、とにかく間違いは起こせないのです。信号無視も飲酒
をしての自転車の運転も、絶対禁止です。常にぴしっとした姿勢で
のメリハリある行動が求められます。
地域の人々からもそういう目で見られているなと思うから、制服を
着ると、なんかこう心身共にぴしっとしてくるんですよね。普段の
自分には考えられないことです。制服には、所属しているグループ
なりチームなりのルールや権威を守るべく、個人の中に責任の意識
を芽生えさせたり、居ずまいを正させたりする力があるのでしょう。
軍隊や宗教組織は、こういう制服の力を熟知していて、組織の規律
を守るために、制服の力を活用してきたのだと思います。
サラリーマンの制服はスーツだ、なんて��う人もいますが、スーツ
にはそういう制服的な力はないように感じます。むしろ個人を没人
称化し、無責任化させる側面のほうが強いかもしれません。
では、スーツで武装したサラリーマンに責任の意識を持たせたり、
居ずまいを正させたりするものは何でしょうか?
それって意外とないかも…、と思うのです。
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子どもが変わってきているのではないか、と言う視点から、現在の教育問題を捉え直そうとした本。まだまだ素人に毛が生えた程度の私にはとにかく難しい。読むのに骨が折れます。学生時代に一度諦めたのですが、再度チャレンジ。
結局のところ、筆者の主張は
子どもの個性を伸ばす教育が求められているが、その個性はあくまで社会性の上に成り立つ個性でなければならず、学校教育では社会性と基礎的な知識を身につけることから始めなければならない、ということでした。
社会性を身に着ける中で、自己を相対化したり、自己を生き延びさせる術を覚えていかなければならないが、幼稚で鍛えられない自己が生き延びてしまうことによって、オレ様化した生徒が生まれてしまう。
また、変化した生徒は自立した「個」として、「教師=生徒」という学校での関係を否定したがる。それが、学校という場の現在の難しさとなっている。
といったようなことが書かれていました。
社会性を身に着ける中で失われる個性など、本当の個性ではない。
どこかで聞いた話だと思ったら、
演劇の練習の中で聞いた話でした。
癖を直したら消えてしまう個性だったら、そんな個性は棄ててしまったほうがいい。
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2007年くらいに買って読んだんじゃないかなぁ…と思います。
小林よりのり氏推せん!!
ワシ様もオレ様が嫌いだ!!
と帯にイラスト付で描いてあります。
この本は、今パラパラ見ると、アクがない感じにすら、受けてしまう…。
その理由は簡単。
大筋が社会通念的にOK採用されているように感じるから。というより、次の段階へ行ったって感じ?
ただ、買って読んだころは、そうではない世の中の空気が流れていたと思う部分アリ。
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子どもは親(教師)の思い通りに行かないと思うのだが、それでも80年代90年代と子供たちは代わってしまったと感じることがある。
「プロ教師の会」というのがあるらしい。論争を煽り、批判する集団なのか?
2部構成になっており、第1部は子どもが悪い、といことの検証。第2部は教育論者の子ども観。
ゆとり教育はうまくいかなかった。変わる子ども、変わらない教師。
教育が贈与から商品交換となった。
子供たちは、個性=自分独自=他人と異なる、という比較を嫌う。大人と対等な関係を望む。
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フロイト好き?
10年ちょっと前の著作だが、SNSが普及した今の状況をどう見ているだろうか。
現場の意見なので、ああそうなのかとも思うが、教師を唯一神の補完するものとしてとらえているのは納得しかねる。
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前時代的な老害教員が書いた感じがする。
保健室に行く生徒を非難するくだりは人の心がないなと思った。
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初めて諏訪先生の本を読んだ。昭和臭い部分もあるので、諏訪先生は、まあ上司にしたくはないタイプの人かもしれませんね。なるほどって感じ。教育論者の比較・検証をする章は圧巻だった。変わる子ども変わらない教師も面白かったかな。すぐ一般化するから、単語を理解しながら読まないと苦しくなる。
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プロ教師としての教育論
戦後60年間でこどもがかなり変容をとげてしまったということを前提に教育論を語るべきという主張。
なんといっても、教育における共同体的要素=社会化の重要性を強く主張しているところが特徴。また実践者の感覚でもある。
・教育における共同体的要素の必要性:宮台の考え方の否定。共同体的対市民社会的
・生活指導の必要性:和田秀樹と上野千鶴子の(生活指導などではなく)授業に集中する学校への回帰論がいかに現実的でないか
・子供は聖域ではない:特に、いわゆる教育の内部(家庭、学校、地域)だけの影響を受けているわけではない。すでにメディアによる共同体的要素の破壊は大きい。尾木直樹はユートピアから課題指摘を学校だけに対してしている
・共同体的枠組みの重要性:村上龍のは好奇心に偏りすぎ
・かといって贈与にだけ偏る世界は教育はない。水谷修の「夜回り先生」は、聖者であって教師ではない
結論として、子供は「教育の外部」の影響を大きく受けており、子どもが教育現場に入ってくる前に大きく情報メディアの影響を受けている。また、農業社会、産業社会、消費社会と変化してきた中、消費者としてのこどもは、強い自己に固執。要するに教育の内部である地域、家庭、学校を超えた世界の影響によって子供は「オレ様化する」
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筆者は教師という立場から「オレ様化」した子供について、「畏れる」ものを何も持たず、自ら自己を主張して何ら憚るところがないと述べている。
また、子供たちの内面のその自信に比して、その表れの何たる貧弱なことよ、とも。
これについては、親の立場から子供と接する身としても非常に同感する。
筆者が本著でも述べているように、親は育児をする機会が一度きりであり、この子供の態度が近代化の結果なのかどうかは私にはわからないが、その根拠のない自信に満ちた態度にたじろぐことは度々経験したものである。
ただし、だからといって筆者の述べる従来の教育が子供の教育環境として今日望ましいのかどうかは、これもまた判断できなかった。
分かることは、この子供たちの相手をする教師たちの負荷はこれまでの教師たちのそれに比べて遥かに大きなものになっているであろうことぐらいだ。