紙の本
プロ教師を僭称する元左翼の「管理教育反対運動」をやっていた教師が書いた「難解」な自己満足自己従属本を読んでも得るところは全く無かった!
2007/04/10 11:07
11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
続けて諏訪哲二の本2冊を読了した。読んだ感想は「諏訪という男は頭が悪い」ということだ。頭が悪いくせに学生時代に身に着けたマルクス主義唯物史観の発展段階説で何とか学校の勉強を説明しきろうとするから話が難解になる(難解な話を得々と語って平然としていられるのが左翼の悪い癖)。彼はひたすら日本社会は「農業社会段階」「産業社会段階」を経て「消費社会段階」に突入したと決め付け続ける(異論は許さない。現場を知悉した諏訪の歴史解釈のみが正しいという揺ぎ無い信念)。グローバリズムが世界を覆う中、金銭万能の「消費社会化した日本」では、子供は礼儀をわきまえず、教師に逆らい、授業が成立しなくなるのは「歴史の必然」であり、親も教師も文部科学省も、この「事実」をまず「事実」として受け止めた上で教育を論議せよと諏訪は説教を垂れ続けるのである。しかし、少しでも教養がある人なら、諏訪の議論が「浮いている」ことはすぐにわかる。諏訪は社会が豊かになったから子供たちが「学校という共同体のルール」に拘束されるのを拒絶するようになった(学級崩壊は1980年代以降一般化した)と説くが、これは事実とは異なる。林望『帰らぬ日遠い昔』によれば武蔵野市立武蔵野第二中学校では1962年当時で既に学級が完全に崩壊しており、教室は「軍閥が割拠する現在のアフガニスタンのような理不尽な暴力が支配する地獄のような世界」で、無事、当時の全国トップクラスの名門進学校東京都立戸山高校に進学した林さんは先生から「この中学であったことはすべて忘れなさい」と暖かい忠告を受けていたのである。諏訪が必死になって話しをずらしているので、あえてこの場を借りて教えてやるが、学級が崩壊した理由は単純である。要するに「先生は俺たちが何をやっても俺たちに手出し出来ない」と足元を見透かされたから、子供たちは「うざったいセンコー」の指示に従わなくなった、ただそれだけのことである。なぜそうなったのか。それは1970年前後に全国の名門進学校を左翼が支配して展開した「管理教育つぶし」の成果なのである。校則廃止、制服廃止、あらゆる規則廃止、学生自治の確立。当時の左翼かぶれの「学生」が言ったことが全国に浸透した結果が学級崩壊をもたらしたのである。「管理教育廃止」を叫んでいたのは当時の秀才達である。秀才たちは頭が良く、目端も利いて、あんまり暴走するとせっかく手に入れた学歴切符が無効になってしまうので「ほどほど」ということをわきまえていた。ちゃっかりしていたのである。しかし、それを物まねしたのは「落ちこぼれ」のアホたちで、彼らは失うものをもっていないので、好き放題勝手放題したのである。ただ、それだけである。今学校(諏訪が思い描く馬鹿が集う底辺校)に必要なのは、新しい発想でも方法でもなんでもない。徹底した秩序の回復、規則の押し付け、管理教育の完全復活なのである。言っておくが高校は義務教育ではない。従わない生徒は問答無用で退学にせよ。それだけで秩序は復活する。第二部では宮台真司、上野千鶴子、尾木直樹といったサヨクを諏訪はなで斬りにしているが、なんか左翼同士の「路線論争」を読まされているようでピンとくるものが少なかった。ただひとつ同意出来たのはかねて私が徹底批判して来た村上龍『13歳のハローワーク』のみである。ついでながら批判対象として和田秀樹を入れたのは筋違いであろう。和田は子供全体に呼びかけていない。和田が呼びかけているのは受験勝ち組予備軍のみである。
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目の当たりにする状況にえらく一致するところが多く、ひざポン状態。しかし、しばらく考えて、自分を含めた世代も「オレ様化」しているなぁ、と反省。
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子どもが変わってきている事や、個別化の前に社会化が必要だという主張など、納得できる点は多いです。
ただ、全体として懐古的な印象を受けます。
「学校論」「教育論」が「変わらない」とか「学校の変容」は「可能か?」とか「変わらない教師」とか……。
全体としてやや保守的だともいえます。
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購入日不明。1日で読了。
ベテラン教師による教育論ということで、そこいらの学者とは違う視点で書かれた本なのだなと期待していたのだけれど、裏切られた感がある。本書は、著書が見てきた生徒、有識者への反駁、結論という3部構成なのだが、まず第1部。昔は良かったという感じの単なる回顧主義めいた文に終始している気がする。まあ団塊親父の酒の肴にはなるかもしれないけど。第2部は粘着質すぎ。どうせなら対談形式にして欲しかった。一方的な批判派やはりずるい。そして最後。現場教師ならではの示唆に富む提案が来るか、と期待したのだがそうはいかず。「個性」よりも「社会市民」としての常識や考え方を教え込むべきっていうのが著者の主張なんだろうけれど、そういう理論は学者に言わせておけばいいんじゃないだろうか。もっと現実的で建設的な提案がなされると思ったんだけれどな。斜め読みで良かった。
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やや難解な記述だが,非常に論理的で説得力がある。つまるところ,現代の子どもは消費者的で,対価的関係を求める・教育の責務は個別化の前提として協調性を育てるべきという主張。もっともだと思うが,途中の批判文は読んでいて疲れる。
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かなり間を置いて読んでしまったので、繋がらなくなってしまった。付箋を貼って読めば良かったと後悔。
これは再読の必要有り。
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教師生活を通じて子どもと触れ合ってきて、子どもが変わってきているから教育問題が起きているのだと断言する。教育制度がこどもにあっていないという現在主流の教育論について真っ向から反論し、子どもは根源的に間違っていないという考えに警鐘を鳴らす。
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この中に書かれている、オレ様化現象が現実だとすれば、
全てを学校の責任だと押し付け、解決法を追求するには無理があるのだろうと思った。
子ども達全般に、このような風潮が広まっているのは、いったい何が原因なのだろうか。
教える側と教えられる側は、誰が何と言おうと上下の関係でよいのではないのか。
今は、先生が注意する事も躊躇し、まずは“アイ・シンク”、私はこのように思うのだが、どうなのかな?などという、まどろっこしい言い方しかできなくなっているそうだ。
子ども達は子ども達で、自分だけの意見であろうことを自己主張するというのではなく、
自分が思うことはみんなも思っているに違いない。または、思うべきである。そう、考える子どもが多くなっているとの事。
何か悪い事をして、その場を押さえて注意しても、“やっていない”の一点張り。
そのような中で、教育していく教師達は、どれだけの苦労を強いられているのだろうか。
親と生徒の板ばさみで、精神的にもダメージを受けている教師が増えているというが、これでは、仕方がないと気の毒に思う。
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前半中々おもしろかった&興味深かったのですが
後半の色んな人(村上龍とか)の論文&著書等々を引用し、批判していくくだりは
読んでて若干しつこかったです。
でも「子供」自体を批評する本ってあまりないので
教育論的な事を語る本の中では好きです。
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子どもたちの変貌を教育の面からアプローチしています
第二部では著名な人がそれぞれ語っているけど、
少子化や時代の豊かさから子どものこと大切にしたいって思いが
裏目にでてこの結果になっちゃったのかな
どうしようもないなぁ
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p64『学校は成績評価、人物評価、規律や規範を提示することによって、子ども(生徒)たちに近代的な個人(市民)の「客観値」を示し、自己との距離を測らせようとする。距離が測れるようになるということは、(私そのもの)へのこだわりを少なくして、世の中に通用する大人になることだと表現してもいい。』
p68『勿論、10年前の学園闘争のときにも教師にその意味はわからなかった。しかし、何を主張(要求)しているかはわかった。当時は、まだ、教師と生徒は同じ文化性、コード、時代感覚にある、言葉は通じていたからである。』
p87『頭と身体が「商品交換」(人と人とは対等なやりとりをしなくてははならない)を求めている。いや、そう生きなければならないと「消費社会的」社会の倫理に脅迫されている。自分以外の誰かに判断を委ねたりしてはいけない。全て自分で決めなければいけないのである。だから、「共同体的な子ども」と違い、教師の話を一歩退いて聞こうとしていない。つまり、学ぼうとしていない。』
p98『子ども・若者たちは共同体による保護がなくなり、いつも自立(孤立)し「個」として「等価交換」に脅迫されているように見える。…「新しい学力観」にあるように、子ども(買い手)の望むものを、望むレベルとスピードで与えようとする「等価交換」の発想は、市民社会性に基づいて共同体的な教育を否定しようとしている点では進んでいるように見えるが、子どもの育つリアリティや現実に即していない。教育の必要性はまず子どものほうよりも、子どもを抱え込もうとする社会のほうにある。普通教育の前半において社会が必要とするものを、必要とするやり方で子どもたちに提示することに怯む必要は全くない。勿論、そうすることの痛みは感じなければならないが、そのことによって当座はあまり勉強をしたくない子どもも救っていけるのである。』
p115『太陽系の運行について教えられていながらあえて実感にこだわることや、生命体の死の復元可能性を信じることは、近代の「知」への離反ないしは違和を表していよう。近代社会と近代社会に生きる「個」の確かさが子どもたちに疑われてきている。学校教育を受けた近代的個人(市民、国民)とは、自分の目に見えないもの(こと)や、自分にわからないもの(こと)にも価値があることを知っているもののことである。もちろん、ひとりの「知」や検分で世界の全てを確かめることはとうていできないから、ほかの人たちの意見や認識や見聞を信じるということである。つまり、近代的な個人にとって必要なことは、何より「近代(社会)」というものを信じていることであり、近代社会に生きることが自己の実現につながると確信することであろう。』
p160『いずれにしても近代の世代は、全ての人との相互行為において「等価交換」を求めようとするから、相手に対しティ津用意上に厳しくなってしまう。・・・・・・みんな無限の「贈与」である『愛」から非常に隔たっている。この出来事は、そういう私たちの危機的な事態の一つの現れのように私には思える。』
p184文科省がこの十年ぐらい言ってきた「自分探し」
『私は、自分で自分を探しても自分は見つからなかろうと思う。本当の完璧な���分がどこかにあると設定されているからである。いつでも不満でもの足りない自分を発見して、さらに内部へ内部へと入り込もうとするのではなかろうか(オウムの若者たちのように)。自分は今の自分から「選んで」、自ら「つくり上げよう」とするものであり、自ら選んでつくり挙げたことの責任を取ろうとする営みの中で、ある程度確定されてくるものであろう。ある断念なしに自己とは出会えない。』
p189『幼児的全能感』が『社会(「外部」)』から『叩かれないと、「全能感」や「好奇心」のみが肥大化して成長し、社会性が育たず、「オレ様化」する可能性がある』『子どもが社会性を身に付けるということは、自己の「全能感」を挫折させることにほかならない。』『おとなとしての資格のひとつは、「全能感」を抑制できることであろう。そして、「全能感」がうまく志向性を持ち社会化されたものが「好奇心」であるとも考えられるのである。だから、「全能感」ではなく「好奇心」を持つとは、すでにその「個」がかなり「社会化」された人になっているということである。』
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いわゆる最近の若者論だか、長年教師をやってきた著者ならではの説得力と切迫感で書き上げている。良書です。
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学校の課題のために読んだ本。教師と対等になりたがる?オレがいいと思うことはみんないいと思ってる?オレ様化した子ども達、その原因は?「幼児期の全能感」をなくせ。学校の本来の目的ってなんだろう。オレ様化しないためにはどうすればいいんだろう、と考えさせられる本。
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内田樹の『下流志向』で取り上げられたので読んでみた。
“80年代以降の子供たち”である私にとって(生まれは79年だけどね)身につまされる話ばかり。
自分探しの罠に陥りがちなわが身を振り返り、
自分のためより人のために働かなければと思うこのごろ。
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僕の国語力が足りないせいだろうか。率直に言って読むに耐えないものだった。実際、途中で読むのをやめた。
著者は持論と自らの文章に酔いまくっているとしか思えない。造語の連発、同じ主張の繰り返し、くどすぎてだんだん何を言っているのかわからなくなってきた。
どうやら著者は教師らしいが、普段の話もこんなくどい教師なら、さぞかし子供たちには嫌われていることだろう。