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著者の障害者と向き合った、体験記をまとめた本。
障害者は本当に不要なのだろか。
人はひとであり、存在しているだけで価値があるのではないだろうか。
障害者がいることで、私たちも恩恵を受けているし、知らないことを教えてくれる。
障害者との関係を考える良いきっかけとなる本だった。
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この星に生を受けたモノの1つとして、同じようにこの星に生きているたくさんのいろいろなモノ達と、どんな時もニュートラルな関係でつながりたいと思いました.......。
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「こんな夜更けにバナナかよ」の作者だとは知らずに手に取りました。そもそも前述の作品読んでいないのですが。
「こんな夜更けにバナナかよ」のモデルになった男性は既にお亡くなりになっていますが、言いたいことを言い、したいことをするという強烈な人物であったそうです。
介助される側が一方的に恐縮するのではない関係性というのは想像もしなかったし、想像できなかった自分はやはり介助される側は恐縮するべきと思っていたのかもしれません。
読んでいると後ろめたい気持ちになってくる本でもあります。
障害者の皆さんが戦って得た、介護、介助、バリアフリーを我々が高齢者になったときにもその恩恵を享受出来るという話には、まさにその通りだなあと思いました。
わずか10数年前には駅で車いすを何人もの有志で運んでいましたね。危険だし、運ばれる方の精神的苦痛もありますし。今は小さな駅にもエレベータが必ずありますから、僕らも旅行に行くときには当然のように使います。本当にありがたいです。
この本の中で「障害者は必要無いのか」という事を何度も何度も問いかけています。記憶に新しい、相模原のやまゆり園での大量殺人が日本中に投げかけた、障害者への意識というものを忘れないように自分の中に問いかけていく事が必要だと思います。
僕の祖母もまた殆ど動けない障害者として長い年月を過ごしていました。しかし、友人も多く、進んで手助けしてくれる人も非常に多かったので、実り豊かな人生だったと思います。人に色々な事を分け与えていて、一方的に介護されるだけの人生ではなかったことは確かです。
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福祉が芽生える瞬間とは、思わず誰かを支えたいと思って行動してしまう時のことだ。
つまり福祉の定義は「誰かを支えようとした行動」と言い換えることができる。
1章には2020年3月末に死刑判決を受けたやまゆり園事件の植松死刑囚の話が出てくる。
意思疎通のできない人間は「人間」ではない。だから殺した、という植松死刑囚の主張はメディアでも連日取り上げられた。
高い生産性を発揮する人間にこそ価値があるという近代資本主義の考え方に染まっていると、この主張にすぐさま反論することは難しいと思う。自分もそうだった。
だが、この本を通じて、
・障碍者の存在理由は?
・なぜ障碍者に手を差し伸べるべきなのか?
・障碍者の存在が社会をよりよくした事実
・障害を通じて考える本当の「自立」とは
・他者を支えることで感じる生きがい
・サービスを仕組化(サービス提供者と対価を支払う人の関係)することによる当事者同士の思いやりや本音でのぶつかり合いの欠落
・多様性を認め、気が付かなかった価値を発見しようとする姿勢
などと今まで考えてこなかったことを考えさせられた。
良い本だった。
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人と人が支え合うこと。それによって人は変わりうるのだということの不思議さに、人が生きていくことの本日もまた凝縮しているのだと。
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購入後に、こんな夜更けにバナナかよ、の著者の著書ということに気づいた。ケアがわかる本として映画を勧められて観たが、さらに理解が深まった。
障がい者のために税金を負担することの考え方など、ライター経験の長い方だからこそ書ける親近感を持てる内容と思う。
長い人生のなか、一度は読んでおきたいと思えた。子どもよりも、むしろ大人に読んで欲しい。
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「税金を重くしてまで、障害者を助けなければいけないのか」という書き込みネットでみられるとのこと。徴税は社会の支え合いの仕組みの一つ。ただ、誰かの払った税金を誰かに恵んでいるという単純なものではない。ここでもお金に対する無知が誤解を招いている。最早お金の仕組みを考えないのは罪である。
第5章に登場する海老原さんの言葉。「困ってる人がいなければ役に立つこともできない。」障害者という存在がなければこの本も書かれなかった。一時の読書、そして考えるという有意義な時間も持てなかったろう。
国の借金がなければ、我々の預金もない。徴税は国の借金を返すためにするものでもない。その答えがわかれば、最初の疑問も解けるはず。
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筋ジストロフィーを患った重度の身体障害者と彼を支えるボランティアの生活を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』で2003年にノンフィクション作家としてデビューした著者の3作目(20年弱に渡る活動の中で著者が3作しかないというのも凄いが、それは著者の過去2作がどれだけ凄い作品であるかということの証明でもある)。
大泉洋の主演による2018年の映画化を受けて、改めて障害者について考えたいという著者の思いをベースに、2016年に発生した相模原での障害者施設の大量殺人事件で犯人が問うた「障害者の存在価値とは何か?(価値など存在しないのではないか?)」という命題が考え抜かれている。
本書の最終章ではこの命題に対するあざやかな回答として、「価値がないと考える人には、価値を見出す能力がないだけではないか」という考え方が示される。我々は単なる地形の隆起に過ぎない富士山に対して、勝手に価値を見出している。自然現象に限らず、芸術もその典型例であろう。価値とは先験的に存在するものではなく、それを解釈して見出す側がいて初めて存在する。物事から価値を見出すというのは人間存在における重要な思考の役割の1つであり、価値を見出せないのならば、自らの思考の浅はかさを呪った方が良いということだろう。
いたずらに結論を急ぐことなく、『こんな夜更けにバナナかよ』以降に著者が考え続けてきたことが、ゆっくりとした筆で語られることで、こちらの内面にも著者の思考が浸透してくる良書。
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素晴らしい新書だった。いろんな人に配りたい。
障害者の話?と倦厭している人にも「人間のコミュニケーションの話だよ」と強くすすめたい。
福祉とか介護とかの話題には、なぜか偽善的な思い込みがつきまとう。しかし、なぜそう思うのか? なぜ私たちは(本音は)障害者を避けようとしてしまう、あるいは深く考えまいとしてしまうのか?
著者はそんな「普通」の感覚にひとつひとつ向き合い、障害者のリアルを紹介していく。そして、「障害」は障害者自身にあると考えるのではなく、それを受け入れる能力のない社会にこそあるのかもしれない、という考え方があることを鮮やかに教えてくれる。
「障害者は高齢社会の水先案内人」など、社会が障害者と向き合い制度を改善していくことのメリットも多く書かれている。
具体的で豊富なエピソード、データに基づく客観的な意見など、とても建設的な内容となっているのも素晴らしい。そしてまさに「出会いによって人生が変わる」ことが描かれており、読み物としても大変胸が熱くなる本だった。
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知的障害者のお子さんを持つ友人がいるのだが、傍から見ると大変だろうなと思うけど、彼女は全然大変そうにしていない。いつも穏やかで、そのお子さんの成長をとても楽しみにしている。お子さんは意味のある言葉をしゃべることはないけど、感情表現が豊かで、悲しい曲が流れると声を上げて泣く。楽しい曲が流れると全身を使って喜びを表現する。友人とお子さんを身近に感じて、この本を読むことでより深く考えさせられた。
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『こんな夜更けにバナナかよ』の渡辺一史さんの著書。3章までは夜バナにもあった記載の要約的な側面も強いが、相模原の事件を踏まえて書かれているし4章障害・障がい表記問題や5章の海老原さんの話は面白かった。
何よりこの本がちくまプリマーにあることが大切な本。
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メモ→ https://twitter.com/nobushiromasaki/status/1498130911086342144?s=21
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筆者の渡辺一史さんは、「こんな夜更けにバナナかよ」の作者である。「こんな夜更けにバナナかよ」は、筋ジストロフィーを患う鹿野靖明さんと、彼が亡くなるまで、彼の介護者として関わった多くのボランティアの物語だ。私は、つい先月に読み、大いに心を動かされた本だ。
「こんな夜更けにバナナかよ」は2003年の発行。本書「なぜ人と人は支え合うのか」は、2018年の発行であり、"バナナ"から15年間が経過している。本書を書いた理由を、渡辺さんは、「それから15年の歳月が流れ、あらためて当時の体験を、もっと広い視野でとらえ返してみたいと思って取り組んだのが本書です。」という説明をしている。
第1章は、神奈川県相模原市で起きた「やまゆり園障害者殺傷事件」を取り上げ、植松被告の主張を実際の障害者の例をひきながら、丁寧に考察している。
第2章は、上記の鹿野さんおよび鹿野さんボランティアの人たちとの出会いを振り返っている。
第3章では、「"障害者が生きやすい社会"は誰のトクか?」と題して、障害者福祉の進展の歴史をさかのぼっている。
第4章では、障害者の表記の問題、「障害者」なのか「障がい者」なのか「障碍者」なのか、ということを、これも丁寧に検討している。
第5章は、総括として「なぜ人と人は支え合うのか」ということについての渡辺さんの現時点での考えが述べられている。それは、支え合うことによって(というか、もう少しシンプルに触れ合うことによって)、人は、また、人と人との関係は変り得るし、成長し合えるからということだと理解した。
渡辺さんは寡作の作家だ。
私の知っている渡辺さんの著作は、「こんな夜更けにバナナかよ」の後は、「北の無人駅から」と本書「人と人はなぜ支え合うのか」だけである。"バナナ"が2003年の発行なので、約20年間に3冊である。書いておられるものを読むと、決して多作にはなれない作家ということは分かるが、もう少し書いて欲しいな。
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P.34 闘争の言語としての足文字
介護するまでが長い
P.76 依存の逆照射
P.82 介護と介助のちがい
P.106 paternalism
P.165 1970 自立生活運動@アメリカ
P.182 障害と障がいという表記問題
P.246 福祉が芽生える瞬間
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今日、インターネット上に渦巻く次のような「問い」にあなたならどう答えますか?
「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を救おうとするのですか?」
気鋭のノンフィクションライター渡辺一史が、豊富な取材経験をもとにキレイゴトではない「答え」を真摯に探究! あらためて障害や福祉の意味を問い直す。
障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。
福祉というのは、年をとったり病気になる可能性を秘めた将来の自分自身や家族のための保険であり、不安のない安定した社会を作るための社会投資で、能力差を補い合う支え合いという社会の柱になるもの。
相模原障害者殺傷事件の植松聖被告は、「重度障害者は意思の疎通が出来ない」と断言しているが、筋萎縮側索硬化症の橋本みきおさんは「唇の形から文字を読み取りコミュニケーションする」口文字、植物状態から生還した天畠大輔さんは「あかさたな話法」、障害者は障害を逆手に取って自分に摘したコミュニケーション法で意思疎通している。
介護とは、単純にお世話するされるという関係ではなく、介護される側が自分の意思を介助者に伝えて、介助者と話し合いながら介護内容を決めてより良い人生の過ごし方を模索し実行していくこと。また人生経験豊富な介護される側が、介助者の相談に乗ったり介助について知らないことを教えたりなど、介助される側が介助する側を支えたり教えたりする相互が影響し合う関係でもある。
障害者と健常者の間に明確な線引き出来る境界線が、あるわけじゃない。医療の発展により病気を抱えた状態で何年も生きていられる人が増えている。職場環境に馴染めずストレスを上手く解消出来ず内科の病気やうつ病などになったり、身体的に健康的でも精神的に不安定で生きずらさを引き摺ったりしてうつ病などになり学校や会社を辞めたりして人生が上手くいかないで苦しんだり、植松被告のように「健常者だから生きている価値がある。障害者にはない」というのは一面的で現実的ではなく存在価値というのは簡単に答えが出せるものではない。
その他にも、障害者の絶えない要求と運動によって前進してきた福祉制度と障害者運動の歴史を、駅にエレベーターをつける「交通アクセス運動」や脳性麻痺者の人権や生存権を訴えた「青い芝の会」などを通して描く章や何故世間はかわいそうで健気な障害者には優しく自己主張する障害者に冷たい「あわれみの福祉観」から自由になれないか考察した章など、きれいごと抜きであらためて障害者福祉の意味を問い直すノンフィクション。
「障害者のために駅につけたエレベーターが、老人や大きい荷物を持った人にも役立てているように、障害や老いや病気を個人の問題ではなく社会全体の問題として受け止めて、やがてお世話になる保険として福祉や社会保障を考えることが大事では���いか」