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「実感の無い景気回復」と言われたのが数年前でしたが、それを実現させたのが所謂「泡銭」で、出資と経営の分離云々が叫ばれて、やがて至上資本主義が暴走を始めた…
これから先は経済成長に囚われることなく、「地に足をつけた社会にしましょう」と謳う著者。
それを敷衍して秋葉原の事件や人口減少の前途を「経営者」の視点から述べています。数々の偽造事件の主犯は、恐らくは家族想いで立派なお父さん。であっただろう。人間一人が善悪を持ち、どちらかに傾倒している人はいない云々ははっとさせられました。
あちらこちらに「なるほど」と思わせる箇所があり、その思考は瞠目に値します。
が!後半にある人口減少の節。
「今までが異常であるため、人口減少して落ち着いてくるのが妥当」「経済成長のために出生率を上げる等と言う政府のはいかがなものか」云々ありましたが、前者に対しては全体人口のバランスが肝要であり、人口ピラミッドが総崩れしている現状には触れていないこと。そして後者に対しては経済成長を主軸に据えて発しているが、一番考えなくてはいけないことは「生みたくても生めない経済力の現状」にその問題の根底があるように感じます。何の本だったか忘れましたが(笑)、現在日本の出生率と経済力には相関関係が見られるという統計もあるようです。その箇所が一番腑に落ちませんでしたが、総合的には良書と言えます。尚、この本は論題がやや漠然としているので、 それを詰めて具体論を展開している、広井良典著「定常型社会」を併せて読むと曙光が見えてくると思います。また山岸俊男著「安心社会から信頼社会へ」では 平川さんの「商倫理」節に関して深く鋭く入り込めるようになると!
思いますた!
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読み応えのある、とても、味わい深い本でした。
著者と全く同い年(青年から熟年まで、高度成長時代と低成長の時代を生きて、今や「成長の限界」を感じている世代)なのと、大学違えど工学部出身でありながら、エンジニアではなく、ビジネスの世界に身を置いて来たので、言葉に出来ない何かの共通項があるのか、本書の内容には深く共感できた。
私も一時期、ITハード系のビジネスで秋葉にしばしば通っていたのだが、著者と接点はなかったは残念。
目次
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序章 私たちもまた加担者であった
第一章 経済成長という神話の終焉
リーマンの破綻、擬制の終焉
宵越しの金は持たない 思想の立ち位置
専門家ほど見誤ったアメリカ・システムの余命
経済成長という病
グローバル化に逆行するグローバル思想
イスラムとは何でないかを証明する旅
「多様化の時代」という虚構 限りなく細分化される個人
第二章 溶解する商の倫理
グローバル時代の自由で傲慢な「市場」
何が商の倫理を蒸発させての火
私たちは自分たちが何を食べているか知らない
ギャンブラーの自己責任論
街場の名経営者との会話
寒い夏を生きる経営者
ホスピタリティは日本が誇る文化である
第三章 経済成長という病が創り出した風景
利便性の向こうに見える風景
暴走する正義
人自由主義と銃社会
教育をビジネスの言葉で語るな
テレビが映し出した異常な世界の断片
雇用問題と自己責任論
砂上の国際社会
直接的にか、間接的にか、あるいは何かを迂回して「かれ」と出会う
終章 本末転倒の未来図
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現代は少子化が進んでいるのではなく、むしろ今までの人口増加が異常で、今は正常な出生率に戻りつつあるんだ、という意見がおもしろい。そして納得!
震災があった今、この本を読むと、いろいろと考えさせられます。
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エマニュエル・トッドら人口学者らの調査の中で、民主化の進展と識字率の上昇によって女性の社会進出が旺盛となり、同時に出生率が低下していくことが指摘されている。即ち際限なく人口が減り続けるということはなく、必ずどこかで止まる。社会の適正人口で均衡するということである。また、出生率が低下し人口が減少していく社会は決して暗いものではなく、寧ろ社会の適正人口に向かい出生率が自然回帰するプロセスであるともいう。経済もその社会に応じた適正規模というものがあるのであって、必ずいつかはその右肩上がりが止まる時が到来する。今こそ我々は経済成長という呪縛を解き放ち、右肩上がりが止まった後の社会の作り方を冷静かつ具体的に考想しておくべき。経済成長を至上命題とし飽食した市場に商品を投入し、その結果として、人々が過剰消費、過剰摂取に明け暮れる光景は滑稽を通り越して悲惨なものがある。経済成長が社会の発展プロセスのひとつの様相であれば、経済均衡もまた社会の発展プロセスのひとつである。均衡段階において無理やり経済成長を作りだそうとするその様は珍妙奇天烈以外のなにものでもない。
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副題として 「退化に生きる、我ら」とある。
著者は、2000年あたり を境に 価値観が変わったと指摘する。
なぜかわったのか よく見えない という。
それを探る作業が この本のようだ。
言葉使いは 巧みで まるで 全共闘の闘士のようである。
ヒラカワ氏は言う
『果たして 私たちは、揺れ動く時代の表層に浮遊することから
自らを解き放つことができるのだろうか』(6ページ)
20世紀は 政治の時代とするならば、
21世紀は 経済の時代といえる。
ヒラカワ氏は言う
『経済の時代とは 卑近な言い方をすれば、金持ちが、
ただ 金持ちだけであるという理由だけで威張っていられる時代
だともいえる』
イデオロギーの正当性から
経済差異という数値的な指標がクローズアップされるようになった。
言葉(思想)よりは 財力
観念(イデオロギー)よりは 実質
質より量・・・
『何よりも 経済成長が重要であると考えるようになった』
経済重視の成長というのが 金融工学を生み出し、
欲望を限りなく 拡大していった。
それが リーマンショック で挫折して
あらたな 座標軸が 見えなくなっている時代といえそうである。
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一読するとわかるが本書はけして経済学についての表面的な戦略や批判の書ではない.
継続的な経済成長を目指すことを日本全体が当たり前と考えていることに疑義を唱える.著者の言うとおり数値的に無限の成長などありえないのである.
今の社会は成長期ではなく,成熟期に達した社会であると著者は言う.自然の流れとして社会もこれから老いていく時期が来ているが,若さと引き換えに得たこれらのものを成熟した私達が成熟した未来として生きていくのであると希望を持った締めくくりにしている.
社会も人間も生まれてから成長、退行していくことはいむべきことではなく自然の必然なのである.
一流の哲学書であった.
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http://kumamoto-pharmacist.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ff20.html
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あまりにも哲学的な経営者・平川克己が、経済成長という神話に取りつかれた現代の問題を論じています。
著者は、経済、医療、教育など、あらゆる分野が、ビジネスのフレームワークの中で語られるようになり、そのフレームワークからこぼれ落ちたものに目が向けられなくなりつつある現状を批判します。こうしたフレームワークの中で、人びとはあらゆる問題について喧しく論じていますが、それは「考える」というよりも、経済を持続的に成長させることが何よりも正しくそれによってあらゆる問題が解決されるという「神話」によって「考えさせられている」という側面があります。著者は、盟友である内田樹と同様、こうした問題に対する鋭敏な感覚を示しています。
著者のめざすところはそれなりに理解できるのですが、話題が多岐に渡っている割には具体性に乏しく、けっきょくどのように考え方を変えればいいのか分からないまま放り出されてしまったという読後感を持ってしまいました。
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著者の「事実に対する解釈」が非常に参考になるとともに、反省させられる。
大切なのは問いを持つこと、持ち続け、答えを模索することだ。
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経済の話ではなかった。我々の世界を考える時に、本当によく考えよう、という話。専門家的ジャーゴンの外で、一枚うがち、かつ一歩引いて見ることが必要。「多様性/ダイバーシティ」ともてはやされているものは、実は既にある欲望を細分化しただけではないか、という指摘は痛烈。
経済成長についてのアプローチは「わからないが、どうわからないかをわかりたい」という迂遠なものなので、なかなか頭がひねられるが、広井良典さんの著作と合わせて読むと理解の助けになると思う。
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日頃世の中に感じてる違和感を、見事に文章化してくれていました。「ほんとそうだよな〜」という箇所がたくさんあって本が付箋だらけになりました。
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エッセーみたいな語り口なので、スラスラ読むことができます。
特に印象的だったのは、P179の「教育をビジネスで語るな」という内容です。
自分達の言葉遣いには、時代の影響が色濃く反映されています。
最近だとコスパという言葉が、時代を象徴していると感じます。
コスパは、コストパフォーマンスの略語ですが、今、社会のいたる所で、
この表現を見聞きします。
コスパは、ある商品が、その価格に見合うだけの価値が「自分にとって」あるORないかという判断基準のことです。
自分にとって、価値があるのか、ないのかをシビアに判断することが、当たり前になりました。
教育の世界にも、
投資、リターン、効率といった言葉が氾濫するようになりました。
母親の学歴が相対的に高く、
そして、一家の年収が高く、子供へ投資できる教育費が多ければ、多いほど、
子どもの学歴は高くなり、年収も高くなる。こういった知識を、
誰もが知るようになりました。
良いか悪いかは、別として、なぜ、そういった言葉が氾濫するようになったのか、
平川氏は、こう語っています。
教育の問題を経営の問題として、語っている。
(以下引用)
経営の問題、すなわち、ビジネス上の問題とは、利潤の確保という現実的、
即物的な目標達成のための処方箋を書き、それをひとつひとつ着実に実行してゆくことで解決されるべき問題である。
例えば、ある生徒の、数学のテストが悪い。テストの点数を30点上げるためには、どうすればいいか。
①毎日、問題集をやる、②わからない問題を先生に聞く、③間違った問題を繰り返し行う。
①~③を継続すれば、高い確率でテストの点数が上がります。
日本では、今、これを「教育」といっています。果たして、これが教育なのか?
私は、ビジネスの論理として、問題を考えることは、非常に大切なことだと思いますが、
それをやってはいけないという領域は、やはりあると思います。
教育にビジネス用語が氾濫しているということは、自分達を、商品として考えるということです。
つまり需給バランスで商品価格が決まる。それは、学歴、年齢、経験、知識、所属先を考慮して、
労働市場が個人に値札をつけている社会です。ここ20年で、日本社会は、人を見る基準が、かなり商品化していると思います。
つまり年収300万円の人は、年収600万円の人よりも、価値が劣るということです。
今の日本社会がまさにそうなっている感じがします。
ここ20年で、かなり、日本社会は階級的になったと感じます。
平川氏は、さまざまな著作で、警告していますが、
あまり効果は上がっていません。
多くの人が、今の社会に違和感を持っていると思いますが、
どうにも、ならないというのが、今の現状です。
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経済成長ありき、だけでは今後日本は行き詰るだろうという、著者の言いたいことの芯はぶれてないと思うが、どうにも煮え切らないようにも思える。では日本人はこれからどう生きていけばよいのか、対策や処方箋といったものが欠如しているせいかもしれないが、エッセイのように感じたことを述べて終わっている。著者もそれを承知で書いているし、読み手も承知しないといけないのだろう。ものの思考の方法として読むぶんには面白い。
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☆☆☆2019年9月☆☆☆
最近、平川氏の著作を読むことが多い。
共感できることが多いのだ。
ここのところ、日本は「お金」こそが人の価値を決めるかのような風潮が強い。貧しいことを恥と考える。
その根底には、経済成長至上主義や市場至上主義があるという。もっと人々の生活やヒューマンスケールを意識した「定常モデル」を確立することが大事だと筆者は説く、と僕は解釈している。