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書物で解き明かす歴史ミステリーですね。
「書楼弔堂」シリーズ二冊目ですね。
短篇連作の六話の物語です。
明治の三十年代初頭の歴史ミステリーです。
京極さんの作品としては、妖怪も魑魅魍魎も出てきません。
むしろ、京極さんの作品の原点回帰とも言えるかも知れません。人はなぜ「怪奇」を模索するのか。理路整然と語ります。また、関わりの有る人物を中心に物語が綴られています。
今回は、全編に天馬塔子(架空の人物)と松岡國男(後の柳田國男)が物語の牽引役になっています。
塔子は、女学校を卒業するが、祖父の男尊女卑に反発しながら、明治の旧弊に悩みながら「弔堂」を避難場所にします。
松岡國男も、自分は何を目指せばよいか、試行錯誤で、「弔堂」を灯台のように訪れます。
明治の三十年代初頭、魅力有る作家達や、歴史人物が登場しますから、興味はつきません。
田山花袋、平塚らいてう、乃木希典、勝海舟等々、書物も外国の作品も登場します。
時代を語り、事変を語り、この時代の魅力と京極さんの想いもうかがい知れます。
とにかく興味の尽きない、ページを捲る手が止まりません。
三冊目も出ていますので、読んでみたいですね。
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シリーズ2冊目と言うことで、今回もその人に必要な一冊を提供する不思議な本屋の話。
明治時代の文豪、文化人が登場し、ほぼ最後に正体を説明してくれるので誰であったのかワクワクしながら読めたのだが、勉強不足により半分はわからなかった。
後でネットで検索。知らなかった人を調べるのも楽しい。
「事件」では田山花袋がメイン。自分は殆ど古典などは読んでないのだけど、「蒲団」は既読であり、田山花袋の顔も知っていたので紹介されているシーンから興味深く読めた。
「無常」で登場した、乃木希典将軍。
中将になっても決断を間違え、卑怯者であると自分を卑下する。泣き虫で迷ってばかりの人物像に弱さを感じるが当時五十歳近くと自分と同年代であったので立場は違い過ぎるが迷いながら生きているところには共感できた。
最後は自決という道を選んでしまったが、店主の言葉や気持ちが届かなかったのか、何か強い思いがあったのかわからないが、やりきれない気持ちに。
しかしこの方自身にも更に興味が湧き、もっと知りたくなった。
四部作らしいので、次巻にはどんな偉人が登場するのか楽しみ。
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少し前に読んだ『破曉』の続編『炎昼』。
時代の変わり目。
そんな時であるからこそ、人は、これまで自分が信じてきた道を疑ったり、新たな扉を開くために踠いたりするのだろうな。
今回も、迷える人々が弔堂へ足を踏み入れる。
語り手は"天馬塔子"。
「探書 漆 事件」
芙蓉の花がお化けに見えるという塔子。
「人は時に、ないものを見たりするのですよ」
という松岡の台詞。
それらを前振りにして、言葉は"まじない"のようなものだという弔堂の話へと移行してゆく。
「語るも記すも、呪術にございます」
印象深かった台詞。
「文字は言葉を封じ込めるための記号でございます。」
「何もせずともあるがままで足りている世界を、私達は、文で、言葉で、音で割って理解しているのです。」
「言葉は、実は何も表せていない。でも、言葉なくして私達は世界を識ることができない」
そして、書かれた文字・言葉(すなわち呪文)が完成するのは、読み手があってこそ。
読むという呪法が不可欠だと弔堂は言う。
但し、その呪文が読み手にとって有り難く聴こえ、尚且つ読み手が理解出来た時に効力を発揮する。
「傍観者がいなければ、ものごと事件という輪郭を作ることもできないのですーーーよ」
☆礼記
儒教の最も古典的な経典の一つ
「探書 捌 普遍」
塔子の、厳格な祖父との確執。
時代も時代、かなり高圧的なお祖父様と思われる。
塔子は理不尽な叱りを受ける度に、小説を"読んでやろう"と思う。
松岡と再び出会った塔子は、松岡に促され弔堂へと向かう。
すると先客が。
添田平吉だ。
時代を見失ってやって来たというのだ。
演劇師になったはずであったのに、気が付くと、自由とも民権とも関係の無い"芸人"になっていたと。
さて弔堂は…。
作品として優れていれば後世にも残っていくものだと、
芸術的価値、普遍的価値、時代的な価値について説く。
「普遍の器に時代という料理を盛る」という喩えは、私にもイメージしやすかった。
そして添田は本ではなく絵(歌川国芳作 源頼光公舘土蜘作妖怪圖)を買う。
印象深かったというより、いい台詞だなぁと思った箇所。
「このなあ、蜘蛛。このようになろう。まあ拙は蜘蛛でなく蟬、しかも鳴けぬ蟬のようなものですが、世の中の外側からこう、かっと覗き込み、為政者どもの頭の上でずっと鬱陶しく歌い続けることに致しましょう。平民として。」
☆川上音二郎…オッペケペー節で一世を風靡した人物。歴史で習ったなぁ懐かしい。
☆添田平吉…添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)という号で活躍した演劇師。
自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来している。
唖蝉(おしぜみ)とはメスの蝉の事。求愛のために鳴くのはオスの蝉だけで、メスは鳴かないらしい。
「探書 玖 隠秘」
嬉しいびっくりが。
「甘月庵」(P196)て何処かで見た?読んだ?ような…と思ったら、なんと『姑獲鳥の夏』にも登場(文庫版P62)していた!��ネットで知る。
宝物を見つけたような気分♪
この章の客人は、勝海舟、福来友吉。
転機となる1冊を手に入れたものの、オカルトを追い求めたがゆえに堕ちてしまった福来の、少し哀しく怖いお話。
印象に残った弔堂の台詞。
「ええ。ないけれど、ある。これは豊かさの証拠。その豊かさを何に使うのかは、その人次第なのでございますよ。恭しさ、懐かしさ、嬉しさ、優しさ、楽しさ、時に哀しさーーー一番芸のない使い道が、怖さでございましょうかねえ。」
「しかし多くの人はそれに気づきません。気づかないからこそ、それは隠されていると考えるのです。隠されているなら暴こうとする。しかし隠されている真理など、実はないのでございます。隠すのは、何もないからでございますよ。ならば暴いても詮方なきこと」
☆元良勇次郎…日本初の心理学者
☆福来友吉…心理学者・超心理学者。念写の発見者とされている。(『リング』に登場する貞子の母親のモデル、御船千鶴子での実験を行った人物)
「探書 拾壱 無情」
印象深かった台詞
「諸行は無情でございますよ、塔子様。花は枯れ人は老い、死ぬ。移ろうこと、変わることは世の習い。当然のことにございます。ですから、変わることを畏れてはーーーいけません」
☆乃木希典…陸軍軍人、乃木坂などで名を残している
「探書 拾弐 常世」
とても良い章だった。
大切な人を亡くした松岡に、祖父を亡くした塔子に、弔堂はあえて幽霊を見せて説く。
印象深かった台詞。
「私が死ねば、私の識る私は消えてなくなりましょう。しかし私以外の私を識る皆様の中の私は、残りましょうよ」
「………しかしそれを死者の姿と解釈してしまうなら、そしてそう解釈する者が多いというであれば、それはひとつの文化と考えるべきでございましょう。」
「判らないからこそ人は死を畏れ、忌み、隠す。そして祀り上げ、祈り、供養致します。それでも不安は拭えない。」
「人を生き易くするための嘘。信仰は、人を生き易くするためにあるのでございます。嘘だろうが間違いだろうが、信じることで生き易くなるのであれば、それで良いのでございます。信心というのは生きている者のためにあるのです。死人のためにあるのではない」
☆魂と魄(こんとはく)…"魄"も訓読みで"たましい"と読む。魂魄とは、道教における霊の概念。
すべての章は紹介しきれないが、今回は三段構えの構図だった。
①『書楼弔堂 破暁』に続き、各章ごとに様々な人物(現代に名を残す人物)が弔堂を訪れ人生の転記となる1冊と出会うお話。
②塔子が、薩摩武士であった厳格な祖父との確執の中、弔堂と客人の会話から学びとったり、本を読んだりしながら、成長してゆくお話。
③詩人であった松岡が、道に迷い、苦悩しながらも、柳田國男として生きてゆく決意をするまでのストーリー。
続編の『待宵』は文庫になるのを待って読もうと思う。