紙の本
新興宗教
2022/07/09 20:17
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
そういうものかも知れません。周囲からは、何故、新興宗教なんかにーと白い目でみられても、親は子供を救いたい一心ですから。
自分が原因で、新興宗教にのめり込んだ親と子供……。特に10代は……。
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自分の病気(幼かったので本人には記憶がない)がもとでカルトにはまってしまった両親と暮らすちひろ.
姉が家を出て行ってしまったり,十分な食事がとれないほど貧乏になるなど,はたから見るとすごく不幸な境遇なのだけれども,本人は結構楽しく暮らしていて,不満もあまり感じていない.
両親がはたから見るとおかしいことや,そんな両親を恥ずかしく感じるようになるのだけれども,両親はやっぱり好きだし,別に教団を嫌いになったりもしない.
(カルトの中には友達もいっぱいいてかえって楽しそう.
ただ,世間とのずれに気が付き始めたちひろが今後どうなるのかは,気になるところではある.)
カルトにどっぷりとつかって「平和」に暮らしている家族は確かに不穏で不気味.
でも,普通と信じているものがカルトでないって言いきれるのだろうか?
やっぱり,今村夏子先生の作品は心をざわつかせる.
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今村夏子の長編が文庫化。
『むらさきのスカートの女』で芥川賞を受賞したが、本書で受賞していても不思議ではなかったと思う。読者の『興味』ではなく、妙な『不安』、一種の不穏さをかき立てて引っ張って行く作風は独特のもので、今村夏子以外に書けるとは思えない。
巻末には小川洋子との対談を収録。単行本を持っているのに文庫まで買ったのは、純粋に読み返したかったからだけではなく、これが収録されていたからでもある……。
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子供の目線から始まる普通の家族の話かと
思えば、だんだん不穏な空気が家族を包む。
両親が少しずつ信仰宗教にのめり込む姿と
歪み始める家族と語り手のちーちゃんの
無邪気さが尚更家族の軋みを感じさせて
恐ろしい。
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病弱だった娘を救うため、「生命の水」を信仰する「あやしい宗教」に傾倒していく家族を描く。
かつて病弱だった娘、ちひろの一人称で話は進む。
じわじわと宗教に傾倒していく両親と止めようとする親戚、遠巻きにする周囲の人々、同じ信者の人。
子供のちひろ目線は、見たままを綴られるが、じんわりとした嫌な不穏さを感じる。
嫌な空気は物語が進むにつれ少しずつ大きくなっていき、でも決定的に大きな事件が起こるわけではない。
ちひろにとって両親は大好きで、その愛情に偽りはないのだ。ちひろの視点からは宗教や両親を一切否定するような言葉は出てこない。
でも次第にその環境が普通として育ったちひろも、世界が広がるにつれ「周りと違うそれ」の違和感を隠しきれなくなってくる。
ぎりぎりのところを留まっていたちひろを決定的に打ちのめしたのは、やはり南先生の全面否定だろう。
ある意味、南先生は社会の擬人化にも感じた。
初回読んだ時は、もう一決着するかと思ったが、あっさりと終わってえっ?終わり??となった。
しかし、前後を振り返ってみると、この常にぎりぎりをせめぎ合う不穏さ、不安を残して終わるのはまさしくこの作品に相応しいようにも感じた。
このラストを救いと感じるか不安と感じるかは人によって分かれそう。
巻末には小川洋子と作者との対談も収録されている。
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特に事件が起こるわけでもなく
淡々と物語が流れる。
なのに、読み終わるとなぜか心に残る。
そんな作品でした。
で、これ映画化!?
なんで!?
ってなる、そんな作品でした 笑
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著者の本は、いつも 怖ぇ〜〜〜と身をよじりながら読む。
今回もそうだった。怖い、怖い〜。不穏なこと、怖い事が淡々と描かれる。
時には非常にユーモラスで、それが物悲しいし、
巻末の小川さんの言葉を借りるなら「暴力的」で「報われない」。
なべちゃんのちょっと棘のある優しさがすきだった。
ほかのクラスメイトが過度に干渉してくるわけでもないけどやさしいのが印象的。
「南先生の似顔絵じゃありません」
ラストシーンの流れ星を見る家族のさみしさが、美しくてずるいと思った。
最初は子どもへの愛情から、家族の健康のために始まった宗教。
どんどん健康を欠いていく両親の姿や、その弱さがせつない。
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雄三おじさんお水いれかえ事件 笑
これは面白かった。クスリと笑える。
宗教にのめり込む親、親戚とも縁を切られるくらいだからよっぽどだよね。
南先生は、先生としてどうなんだろう?よくないよね。
ちひろのことをどれだけ傷つけたら気が済むのか?
読んでるとイライラするほどだった。
まあちひろも悪いんだけど。
エドワードファーロングっていう単語がちょこちょこ出てきてそこでフッと笑えたりした。
あとがきでの小川洋子との対談で、ラストの事が書いてあったけど、それで自分もラストに納得できた感じ。
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『こちらあみ子』はそれなりに楽しめた。そして本屋大賞入賞の本作。当たり前だけど、方向性は同一。最後の小川洋子との対談で語られている、救いのないエンディングバージョンも読んでみたかった。
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ちひろはあみ子に似ているところがあるけれど、初読のあみ子が気持ち悪く思えたのに対し、ちひろはもっとがらんどうで不気味に感じた。
あのエンドに希望は見出せなかったのだけど、小川洋子との対談でそう語られていてちょっと驚いた。ちひろと家族のこの先の未来はどうなっていくのだろう。
今村夏子は本当に、どこか狂って壊れた家族の形と人間の悪意が発露する瞬間を書かせたらすごいなと思う。それから暴力の生々しさ。
あとは主人公が子供で、本当にその子の「見たまま」「聞いたまま」だけで物語を進めるのが本当に上手いと思う。(あみ子はまだ彼女の感情の発露が多く見られたけど)
個人的には、まーちゃんが最後までちひろのことを気にかけていたのが切なくて、そのまーちゃんにもたくさんの傷があったのが辛かった。彼女の家族への絶望を思うと苦しい。だけど両親へのちひろの愛もまた別の形で深いのだろう。いつまでもこの家族のことを考えてしまうような、引力のある本だった。
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父と母がのめりこむ宗教に違和感を感じながらも、きっと両親のことが好きで、大切で、
家出なんて考えた事ないんです。と言い切ってしまう主人公の様子に胸が痛くなりました。。
仲の良かった姉は早々に見切りをつけ家出。
学校の先生には両親を不審者呼ばわりされ。
きっと辛いはずなのに、なべちゃんや新村くんのようないわゆる「普通の」友達もいる。ましてやなべちゃんなんて宗教の事をネタにしてくれる。
普通に生きていけるはずのちーちゃんだからこそ、置かれている状況が気の毒でした。
最後、両親と一緒に流れ星を探すシーン。
どうやって終わるのか気になっていたけど、はっきりとは明記されず。読者に委ねられてます。
私は、多分この先も、両親のことをやっぱり嫌いになれず裏切れず、そばにいる事になるんじゃないかな…と哀しくなりました。
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面白くてサクサク読めた
まだまだ続きがあると思ってたら
えっ終わり?!、、、って感じで
ラスト20頁くらい対談ががっつり書かれてた笑
宗教と家族の話
周りの人もいろんな人がいて救われる場面も救われない場面もあった
この家族はどうなるんやろ〜、、、
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一度目は図書館利用、二度目は文庫で。
色々な解釈の仕方があると思う。
説明が少ない小説と感じる。そこが良さの一つ。
主人公が成長するにつれ、不安な気持ちが高まる。
この子はどう大人になるのだろう。
それを抱えたまま、ラストを迎える。
この物語が続いていくことを感じる。
小川洋子さんとの対談で、著者への理解が深まったのも、良かった。
文庫版で買って良かった。
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芦田愛菜さん主演映画化で注目!
野間文芸新人賞を受賞し、本屋大賞にもノミネートされた著者のもうひとつの代表作。
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第157回芥川賞候補作。第39回野間文芸新人賞受賞作。2018年本屋大賞7位。
今村さん初の中長編。
巷間よくある話なので筋だけ追えばどうということはない。
しかし細部が光る。
エドワード・ファーロングを見てから周囲が全員醜く見えてしまうとか、法事のお弁当が美味しかったのでこだわるところとか、水を掛け合う父母を恥ずかしく思う語り手に対して「おれてっきりかっぱかなにかだと思った」とか。
呑気というかユーモラスというか。
状況はひどいのにこののほほんって何よ、と。
んでネットで検索して鴻巣友季子の書評に「知らざる人の目」という記述があって、なるほどなー、と。
読み手は、明らかに新興宗教のヤバい話だと感づく。
なのに語り手は、そのヤバさに気付いているんだか気づいていないんだか、のほほんと現状を楽しんだり、違和を感じても、ほのか。
ただ淡々と周囲の普通の人々を少女視点で見ているだけ。
そのズレにユーモアが生まれるのだ。
(語り手は、自分の病気を治すために父母が、という負い目を感じているため、あえて目を瞑っているのだ、というネット上の感想を見たが、うーんそこまでの思慮深さを、あえて地の文に表さないように、語り手≒作者は努めているように思える。だから語り手ののほほんをあえて尊重したい。)
さらに突っ込んでいえば、読み手はつい、新興宗教だからもっと変であってほしい、事件が起きてほしい、と望んでしまう。
それに作者は決しておもねらず、語り手の視点に寄り添えば、少女はきっと家族や教会を断罪しないだろうと、その枠だけは固守する。
読者が宗教の話になだれ込んでほしいと無意識に願うのに、家族の話だという枠を守っているのだ。
だというのに、果たして、語り手の現在ははっきりしない。
語り手が、いつ、どこにいて、当時のことをどういうスタンスで記述しているのか、わからない。
なのに、というか、だからこそ、ラストのあの夜を、慈しんでいる……その効果が読者に、強烈に飛び込んでくるのだ。
書かずに書くという手法を突き詰めれば、読者の期待をあえてなぞらないことで読者の想像に火をつける、という高等テクニックへと至る。
おそらく作者は企まずして企んでいる。凄い。
中長編ゆえかやや説明的なので、中編「あひる」のほうが不気味度・不穏度は高い。「あひる」のほうが好きだ。
しかしラストの父母娘が抱き合って流れ星を待つ(のに親と子で同時には決して見えない)夜だけは、忘れがたいし、忘れないように反芻したいのだ。感傷的になるときは、思い出してしまうだろう。
(……連想……佐藤泰志「海炭市叙景」の映画版に、似た場面があった。)
芦田愛菜主演で映画化するのだとか。楽しみ。