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【なぜひとは勉強するのか】勉強とはかつての自分を失うことであり、恐るべき変身に身を投じる「快楽」である――。これまでの勉強の概念を覆す、革命的勉強論!
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親類を亡くす、病気になる等、人生の価値観がガラリと変わるようなライフイベントも、勉強と同じで、ノリが悪くなることに繋がるなぁと実体験から思った。
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中々特殊な言い回しが多かったですが、勉強することとはつまりなんぞや?ということがよくわかる本です。人によっては途中読みにくいと思いますが、最後にまとめがありますので、そこで理解できるかと思います。
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タイトルに惹かれて購入。「深く」勉強するにはどうしたらいいのか?独学で勉強するための技術を解りやすく解説した本。とても面白く読みました。第4章の「勉強を有限化する技術」は実践編として大いに役立ちそう。巻末にある補章「意味から形へ――楽しい暮らしのために」は読んでいて創作活動において目から鱗か落ちたような気分です。私の中にあった上手く言語化できない部分を語っていてストンと腑に落ちました。
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これを機に、自分の中の無意味・雑念をきらめかせるために勉強ノートをつけ始めました。
【メモ】
酒井敏著『京大的アホがなぜ必要か』のアホなこと・無駄なこと に関する記述と、分野は違えどどこか似た主張だなと思い、これが本書で言う "きらめき"なのかと目から鱗でした。
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うう、そんなに分かりにくくはなかったと思うのに、言葉のリアリティをとらえるとはどういうことなのかよくわからない。これができれば、仕事に対する態度も変化するのだと解説の佐藤優さんは言う。究極のビジネス書だとも言えるらしい。結局のところそこまで深く、いやそれはアイロニーなんで深く行きすぎてはいけないのだ。でもやっぱり、まだまだ理解が浅いのだろう。
この千葉さんと国分さんが対談している言語が消滅する前にという本も結局何をいってるかよくわからなかったもんな。それに比べればまだこの本の方が読みやすいようには思えたのだけど…
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勉強の哲学
勉強とは自己破壊であり、勉強をするとまずキモくなるという一節は面白かった。
キャッチ―なフレーズで誘い込み、勉強の本質に迫る面白い本。
勉強の方法論としては、物事を徹底的に疑うアイロニーと可能性の地平を広げるユーモアがある。これらを行っていくと、周囲のノリから解放されると共に、勉強している人特有の「キモさ」が出てくる。
芸能人の不倫について話している時に「そもそも、不倫というのは悪なのか」「悪とはなんなのか」という際限ない疑問を提示してしまうのことをアイロニーを本書では呼んでいるが、簡単に言うとこれは結構キモい。周囲からすると、こいつめんどくさいと一瞬で敬遠されるような発言であろう。会話のコードを越えて、脱してしまうことで、コード進行を妨害する所謂「KY発言」(死語?)はアイロニーである。そして、ユーモアはというと、「不倫ってアートだよね?」というような事を言って、議論を全く別の地平に飛ばしてしまう、コードの複線化・拡張の役割をする。これ一種のKY発言であり、キモい。
キモいという表現は、筆者が良く使っているが、物事を深く考える時、このキモさ無しでは不可能な要素であり、やはり勉強するためには不可欠な過程であるゆえに、肯定されるべきものではある。
私の好きなオードリーの若林さんは、結構アイロニカルなことをラジオやエッセイに書いてあるが、個人的にはかなり好きだし、大半の人が意識しているコードについて一段異なる目線は新鮮でかつ面白い。また、千鳥のノブさんのツッコミ(本書でユーモア=ボケとしているが、ノブさんのツッコミは面白すぎるのである種ボケカウントもできるはず、、)も、一種のユーモアを感じる。
脱線したが、勉強を始めることは、まず物事をアイロニーとユーモアで捉え、コードの絶対性を客観視することから始まる。アイロニーとユーモアは無限であり、際限がない。そうして、そのきりのなさに対して、一旦「中断」しつつ、続ける。そうしていると、勉強は享楽になり、言葉や思考を自己目的的に使うフェーズが来る。これを筆者はダンス的になると表現しているが、個人的なイメージとしてはジャズだ。コードから逸脱し、即興的に音を連ねていく、これは音楽の出来ない私には想像できないが、ジャズアーティストの悦に浸った表情を見るに、夢見心地の悦楽なのだろう。
こうした、周囲のノリに同調するバカ⇒コードに疑念を持ち、それを発言してしまう小賢しいキモい奴⇒即興的・ダンス的・自己目的的に思考を愉しむ「来るべきバカ」という経緯をたどり、人は勉強の際限なきミステリーに螺旋的にめり込んでいく。この様子を、筋トレに例えて、増量期に筋肉(知)と脂肪(キモさ)を同時進行で増やし、減量期に脂肪(キモさ)を落としていくというプロセスに似ているとしていたのは個人的には非常に解り易かった。
この一連のバカ⇒キモ⇒来るべきバカという流れはいささかニーチェっぽさがある。ニーチェは周囲のノリに同調しかできない人間を畜群と呼び、自ら価値観というフレームワークを生み出せる人間を超人と呼ぶ。人間とは一本の綱渡りの綱のようなも���で、この畜群と超人の間にいて、「さあ、キミはどっちになりたいんだい?」とニーチェは呼び掛けるのだが、このニーチェのフレームワークに今回の勉強の話は似ている。ただ、筆者が異なるのは、「超人」とか「畜群をバカにする態度」は「キモい」という客観的というか平常の感覚を導入したことにあると思う。敢えて超人などと言わず、来るべき「バカ」と表現しているのは、学問という際限のない奥行きに対するリスペクトなのだろう。
(この「来るべき」という言葉もいささかニーチェっぽさがあるのだが)
しかし、人間が成長するにあたり、「ダンシング☆超人」を目指さなければないということはよくわかった。
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私が頭が悪すぎるせいか難しい内容だった。
佐藤優さんの解説がこの本の要点をまとめていて
とても分かりやすかった。
本文を読む前に解説を読むといいかも?
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社会問題を知れば知るほど、他の問題にも絡み合ってる複雑な状況を知って、情報の刺激を受けすぎて、何からやればいいのか、何がしたいのかわからなくなってしまった時に出会った本。
深く勉強する=ノリが悪くなる
その逆=周りに合わせて動く生き方
これにすごく共感していて、一年前の自分が読んでも分からなかったかもしれない。でも「ノリが悪くなる段階を通って新しいノリに変身するという時間がかかる勉強法」を経て、①みんなでワイワイやれる自分、から、②昔の自分がいなくなるという試練を経験した。驚くほどに辛かったけど、③その先で来たるべきバカに変身する。まだしてないけど
この本いわく、勉強≠同じままの自分+新しいスキル。むしろ、勉強=自分の破壊=自由になるため、今までのノリから解放すること
「日本社会は同調圧力が強くて、ノリが悪い者は排除され、出る杭は打たれる。その上限界を破って自分の新しい可能性を開くため、今までできてたことができなくなる=能力の損失が起こるかもしれない。それでも勉強するのか?」といったような問いに対して、わたしはどう考えるのかなあ
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補章が日常生活に当てはめられていて、分かりやすかった。まさに勉強の哲学の本であった。哲学的なところは少々難しく感じたが、読み進めるにつれてつながってきて、なるほどなと思った。具体的な勉強法も書かれていて良かった。別途ポイントをまとめておきたいと思う。
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ポストモダン思想の成果と今の私たちが使っているリアルな言語に基づき、私たちが内面化している価値観(著者は「ノリ」と表現)を相対化した上で、新しい価値観に出会い、深く知るための勉強の考え方とその考え方に基づく具体的指南書。
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抽象的な表現や独特の比喩が多用されており、理解が難しかったです。一度読んだだけではよくわからなかったので、また後日読み直してみようと思います。
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無理して周りのノリに合わせない。その根拠は?の問いを繰り返すと非合理に行き着く。それではきりがないので、視点を横にずらして、別の見方で考える。ずらし続けてもきりがないので、しっくりくるところで仮固定する。つまり常に変化可能な状態を保っておくこと。いつも相対的に物事をみて、変化し続けられる状態であることなのかと思いました。
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2021.2.14. 古書汽水社にて購入。
学校の勉強に限らず、知識の習得に必要な、意識の持ち方から実践に使えるツールまで述べられている。学習意欲のある人や、社会人としての教養を身に付けたいという人向けではあるのかも知れないが、実は今の世の中で全般的に感じ取れる「勉強不足」に対する警鐘も込められている気がする。
先ずは自分の所属する環境のノリにあえて乗らない。逆に言えば環境のノリに乗っていると「勉強モード」にはならないという事だろう。ネット・ニュースやSNSなどに絶えず流れる情報に乗ってしまうのも悪例として上げられている。
環境のノリに乗らず立ち止まる姿勢をアイロニー(ツッコミ)と名付け、環境から大きくずらす姿勢をユーモア(ボケ)と名付けて「ノリの悪い人」を目指すのが深い勉強の始まりであると。
更に、言葉の意味や使い方を正確に行う「言語偏重の人」になる事。自分自身が無意識に拘っている「享楽的こだわり」をあぶり出す為に「欲望年表」を作成してみる事。自分の感覚だけで取捨選択しないよう、小説的な描写を心がけた日記の作成。入門書や専門書の選び方からノート術など、多岐に渡り、徹底して論じられている。
私個人としては、年表作成をスタートしてみたが、まだまだ。手書きのメモ活用や日記に至っては中々進まない。取り敢えずは「言語偏重」を意識した読書等試みている。
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勉強することは、自己破壊である。これまでのノリ;コードから自由になる。
勉強することは、獲得することではなく、喪失することだ。昔の自分でなくなる。
そして、勉強することで、「来るべきバカ」になるのだという。
著者は、へそ曲がりなのだろう。「来るべき賢者」というのが恥ずかしいのだろう。
まぁ。あとがきに、バカには、特異性という意味が残響していると言っているのは、照れ隠しか。
よく私は、「あーぁ。今日も勉弱した。なかなか勉強できない」などと言っていた。
著者が言うように「変身するような勉強」と言った意味で勉強はしていない。変身も自己破壊も起きていない。そんなに簡単には、変われないのだ。
「勉強によって自由になるとは、キモい人になることである」と言う。
要するにノリが悪くなるのだ。ノリが悪くなって、さらに突き進んでいく。
情報刺激が多い現代、わかりやすく、質がいい情報がたくさんあり、基本は本にあるというのは納得だ。インターネット上では、やはりフェイクも多いし、軽い情報も多い。
その中で、勉強を有限化することが大切だという。深追いのしすぎと目移りの誘惑に負ける。
環境概念は、「ある範囲において、他者との関係に入った状態」
環境に依存して生きており、こうするもんだという暗黙の了承がある。
環境には、目標があり、目的地と共同的な方向性がある。
他者とは、自分自身でないもの全てであり、生とは、他者に関わることだという。
そして、自分とは、他者によって構築されたものである。
言葉は、使われて初めて意味を持ち、辞典とは人々が言葉をどう使ってきたかの歴史書。
言語を通して、私たちは他者に乗っ取られている。言葉偏重の人という言葉があり、納得した。
言語は、人間のリモコンであり、言語と現実を結びつけて、思考し行動する。
道具的な言語の使い方と、玩具的言語の使い方がある。玩具的で自己目的な言葉の使い方に習熟する。言語は、架空の世界を作ることができる。例えば、りんごはクジラだ。
例として、不倫は悪い。から、良い不倫があるという論議を積み重ねること自体、「不倫」という言葉自体が、もう悪いのだから、無理があるなぁ。昔は不倫と言わず、浮気と言ったり、芸人や歌舞伎の世界みたいに、芸の肥やしと言っちゃったりするわけで、閉じられた言葉の空間で論議しているのがちょっとこの男は、切ないなぁ。
ツッコミとは、ちゃぶ台返し。ボケとは、論点ずらし。
それをツッコミ=アイロニー。ボケ=ユーモアという風に置き換えるけど、だいぶちゃうだろうと思う。やはり、状況というか環境が違いすぎる。論理的に論理飛躍させる。ちょっと無理やり感があって、なんとなく、若いなぁと感じてしまう。なんか、自分の行きたいところに、無理やり行かせようとする。結局「我田引水」哲学の類なのだろうか。ツッコミとアイロニーを一緒にすることで、最初からアイロニーを論じたかったのだというあざとささえも見せる。
アイロニーは根拠を疑うこと。ユーモアは見方を変えることだという。
ツッコミは根拠を疑うこと、ボケは見方を変えることと言い換えると随分と違和感があるなぁ。
著者は「ユーモアの過剰とは、コード変換による脱コード化である。この帰結は、意味飽和と呼ぶ。
意味飽和は、あらゆる言葉が無意味になる。ユーモアの極限は、意味飽和のナンセンスである。」という。もう言っていることが、よくわからない。アタマが飽和状態で受け入れられない。
どうも著者は、空気が読めず、知識をひけらかすことで、嫌われるタイプなので、それを反転させようと努力しているようだ。無駄なあがきだ。とにかく、これまでの要約してきたことが、「原理論」らしい。
言語偏重になり、自分の享楽を活用し、有限性を意識する勉強。
本を読んでも、完璧に読むことはできない。一字一字全て読んでいるかは確かではないし、通読しても覚えていない。読書とは、不完全なものである。読書において本質的なのは、本の位置付けをすることです。自分に引きつけて理解しようとしないことも大切。というが、自分に引き寄せなければ、面白くない。自分の感覚を拡張するとか。難しい本を読もうとするのは、無理に納得しようとするからであるというのは、賛成。わからなければ、飛ばしてもいい。いつかわかる時が来るかもしれない。
現状把握をメタ認識で行う。大きな構造的問題の中にある。
著者の興味があったのが「多様性、複数性、マイナー性」にあったという。どう時代と欲望論的に結びつけるかというのも必要だ。享楽的こだわりが、自分らしさを発揮できる。
難しかったけど、最後まで読めたというのは、著者がえらいのかもしれない。
何れにしても、人間は死ぬまで勉強するわけだから、常に勉強だね。