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韓国のフェミニズム小説が翻訳されて話題になっている中、アイドルグループを取り上げたアンサーソングを日本の作家が書いたかのようだ。冒頭と最後の部分はSFのように奇抜だけど蠱惑的な創造世界ではある。
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なんと爽快な物語なのだろう。なんて甘美なカタルシス。私たちの経験を言語化して物語に昇華してくれた青子さんに感謝です。
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借りたのは6月だったんですが、図書館から来た本とか『ハリポタ』とかを優先していたら今ごろに(ごめんよー)。タイミング的には欅坂の終焉でちょうどよかったかと思います。
「おじさん」の世界から少女たちが消え、少女たちの世界から「おじさん」が消えた国の話。
欅坂がモデルになっているとは聞いていたのですが、モデルとかモチーフというよりあからさまに欅坂で、欅坂というグループと平手友梨奈が存在しないと成り立たない物語だということに戸惑いました。
いくらヒットしてるからと言って、これ読む人って欅坂の歌とか世界観とかどれくらい知っているの? 知らない人にはなんの話だかわからない部分もたくさんあり。
むしろ全編、欅坂というアイドル論であり、ファンレターもしくは二次創作だと思って読んだ方が納得できる。
それから「おじさん」ディスが強すぎてひるみます。(ここでいう「おじさん」とはかならずしも中年男性ではなく、中学生でも女性でも、女性たちを性的に精神的に搾取しようとする存在であれば「おじさん」となります。)
彼女たちの怒りは共感できるんですが、毒が強すぎて気持ち悪いというか、「おじさん」が消えればいいのかというモヤモヤが最後まで残りました。(最終的に物語として解決してないしね。)
あと、物語と現実を一緒にするなって感じではありますが、自分たちの内部崩壊さえ解決できない少女たちに世界が革命できるのかと。
以下、引用。
少女たちは、見られる、ということから解放された。
セーラー服も体操着も、「おじさん」に見られることがないなら、別の意味を持つこともなかった。
世の中では、女性は男性がいると安全とされていた。女性は男性に守ってもらうものだと。
けれど、敬子が普段から築いている防御の壁が、男性といるからこそ崩れ、弱まると感じられることがあった。敬子が感じる危険を感じない相手に、敬子を守ることがはたして可能なのだろうか。
買う側と売る側が対等な関係で、日常会話の延長に過ぎないやりとりを交わすことに一度慣れた身には、店員と客とを上下に分断する過剰な接客は、どちらにとっても不幸せに感じられた。何か大切な、明るいものが失われているように思えた。
男性にとってかわいくあることを、男性にとって従順であることを強制されている女の子たちの姿がテレビで流され続ける毎日に。
この黒魔術みたいな踊りで、もしかしたら、普段彼女たちを操っている男たちを殺せるんじゃないか、このダンスでいつか本当に殺すんじゃないか、と信じられるほどの気迫を感じるからだ。
後ろにいる男たちになにか別の意図があるのだとしても、××たちのこのかっこいいパフォーマンスを見た若い世代は、後ろに誰がいるかなんて考えずに、歌の意味をそのまま受け取る可能性のほうが高いんじゃないだろうか。
「それじゃ若い女の子に鼻の下を伸ばしてる日本の男たちと一緒じゃないかな。アイドルになる女の子たちも女の子たちだよね。わざわざ自分から性的搾取されにいくようなもんだよ」
反抗しろ、と男たちが書いた楽曲を反抗せずに言われるまま歌っている、従順な彼女たちの歌に、こんなに惹きつけられるのはなぜだろう。
社会という搾取と消費の構造の中で生きている敬子たち市民だからこそ、惹きつけられるのかもしれなかった。その構造の中で生き抜くことが、どれだけ大変で、難しいことかわかっているからこそ。
毎日がレジスタンス
××の系列のアイドルグループは脈々と、学校の制服を衣装として取り入れてきた。
もともと、この国の男たちは、女性の制服姿に異常に敏感だった。
もしかしたら、普段の彼女たちの声の小ささは、防御壁なのかもしれなかった。大人たちに、男たちに見つからないように、付け入る隙を与えないように、小さな声で自分自身を、自分たちの世界を守っているのだ。女性が大きな声を出すと、必要以上に周囲の目に留まり、苦々しい表情で注意されることも少なくない。そんなこと、女なら誰でも知っている。女が楽しんでいると、釘を刺されることを。
少女は永遠に少女のままじゃない
強い女性に成長し、あなたの世界を破壊しに戻ってくる
ーラリー・ナサール性的虐待事件の裁判における被害者女性の証言
歌わせるだけ歌わせて、女の子が歌から一切の影響を受けないと思っていたのなら、彼女たちをナメすぎというものでしょう。
そして、以上のことからわたしたちがもう一つ確信したのは、日本の女性アイドルは、長きにわたり、日本人男性のために存在していたという、動かしがたい事実です。
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生きづらい要因の一つを教えてくれた本であった。これまで、自分の中に違和感があったが、それが分からないままであったが、それを明確にしてくれた。どんなに制度や仕組みが整っても人の考え方、行動が変わらない限り何も変わらないと常々思う。その一つに男女差別である。女性や男性の役割が昔から固定されているように感じ、それは特に家庭内では差別がなくならず、生きづらい世の中になっているように感じる。最後の部分は展開が大きく変わりびっくりするが、読むと元気が出る本であった。
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作者の、現代日本のオヤジ社会への怒りには共感する。この本を読んで、こういうこと、感じたことも経験したことも一度もないという女性はほとんどいないだろう。
女が「負の感情」を出すと、「感情的」の箱にすぽっとシュートを決めればいいからと、なぜか安心し、勝った気になる男(P191)
日本の中高年男性にとって、女の子は、自分たちを安心させてくれる、どんな意味でも脅威にならない存在だった(P206)
女が大統領になるくらいだったらあらゆる面で醜悪な「おじさん」を大国の大統領に据えて世界を危険に晒す方を選ぶように、急病人の命を救うことよりも男の聖域である相撲の土俵に女が上がることの方が許せないように、深刻な環境破壊よりもそのことを訴える三つ編みの女の子の口調が気に入らないように、このままきっと「おじさん」によって国が滅び、世界が滅びる。(P235)
高齢の男が政治も経済も法も握って、しかし女も働かせねばやっていけないから、表面だけは平等だと言いながら、家事も育児もさせ、性的欲求の捌け口とし、決して自分たちの中には入れない。どころかちょっとでも権利を主張しようものなら、押し潰す。
読んでいて本当にそうだそうだと、ふつふつと怒りがわいた。
しかし、某アイドルグループとそのセンターをモデルにした部分が乗れない。私個人としては、あまりよく知らないということもあるし、果たしてその女の子が、作者の言うように今までのアイドルとは全く違うのかも、ちょっとわからない。だから、そこまで彼女を推す気持ちというところには共感できなかった。
それと、純粋に小説としては、弱いかなと感じた。言いたい事が先にあって、それに沿って物語を作ってるような感じがした。
でも、松田青子さんには期待してるので、次も読むと思う。
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凄い 凄い 凄い
えらい えらい えらい えらい
凄い小説が日本にもちゃんとあって嬉しくなりました。文学って良い!
松田青子さんは去年くらいから読むようになって、まだ全部は追えてないけど新刊が楽しみな作家さん。『持続可能な魂の利用』は"いま"が詰まっているので、"いま"読めて良かったです。タイトルと装丁も毎回ハッとさせられる。
#持続可能な魂の利用 #松田青子 #河出書房新社
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なんだかわからないうちにうねりに飲み込まれて止まらなくなって読み終わった。
「おじさん」への怒りに満ちた小説。
私自身が三十代になって、母親になって、「男性からの何らかの対象」から外れていく事に、安心した気持ちになっていたんだけど、安心ではなくて、そもそもそれまでの搾取されていたのが日常だったのはなんだったんだと怒ることまで考えが及ばなかった。と、読んでから気づいた。
途中で、著者のインタビューをネットで見たんだけど、それに対するコメントが「おじさん」で溢れていて、その時が一番現実と虚構が混ざって境界がわからなくなった。言語の通じない、憐れで弱くて、もう守ってもらえない「おじさん」たち。さようなら。と言いたい(のに現実は続く)。
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社会で若い頃から"おじさん"と対峙してきた私からしたら、これはとってもファンタジーだ。今の世の中を限定的にディスっていて面白い。なかなか辛辣。
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無職になった30代の敬子。男社会の闇を味わうも、心は裏腹に男が演出する女性アイドルにはまっていく。新米ママ、同性愛者、会社員、多くの人が魂をすり減らす中、敬子は思いがけずこの国の“地獄”を変える“賭け”に挑むことに―。「おじさん」から自由になる世界へ。(e-honより)
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2020冬の文芸書フェア
所蔵状況の確認はこちらから↓
https://libopac.akibi.ac.jp/opac/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=2001011719
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『「おじさん」には、少女の姿が見えなくなったらしい。それは確かに不思議なことで、どうにかしなくてはならない状況ではあった』
描かれている社会が作家にとっての理想であるかどうかは定かではないが、読者にそう思わせてしまうことを回避するための設定なのだろうか。作家は、空想科学小説的な設定(それは「マトリックス」に出て来る仮想現実を連想させる)を採用することで、余りにも現在進行形の内容から多少の距離を置く。そのことによって生々しい題材に対して作家が提示する視座への追求(そして、それに対する読者の過剰な反応)から逃れようとする予防線が張られているようにも思える。それにしては、一人称で語る登場人物たちの声に、作家本人の思いが強く滲んでいるように思えてしまうのは、やはり避けられないことのように思ってしまうけれど。
この小説で扱われているテーマは議論を呼ぶ(切実な)もの。しかし、敢えて入れ子の外側を「未来」に設定したことで、そこにたった一つの正しい考え方があることを暗示することになる。登場人物たちの憤りのようなものの果てに描かれる極端な「理想」が未来像となって晶出し、現在進行形の問題は単純化(矮小化)されてしまう。それに喝采を送る人々がいるであろう一方で、切り捨てられた人々の屍は「不可視」となる。そのことがどうしても引っ掛かりとなって、ざらざらとした印象を残す。
『かつてのわたし、××という記号の中にはどんな言葉でも入る気がする。けれど、思い出せない』
そう言いながらそこには漢字二文字のアイドルグループの名前がぴたりと収まる。提示された状況、文脈は様々な状況に当て嵌め可能だと言いつつ、「72時間」のように極めて実写的。固定された(既成概念上の)視座から見える現実と、その反対側の視点から見える現実。見るものと見られるものの交錯とすれ違い。そして置かれた立場の置換。あらゆる暗喩が現代社会の問題を当て擦りながら投げ込まれている。小説の体裁を採りつつ現在進行形の問題が鋭く指摘されるルポルタージュ。当然、その喩えを敏感に嗅ぎ取り共感する読者も多いだろう。
しかし問題が現在進行形であればある程その文脈が継続する時間は短く、時を越えて作家の問い掛けが意味を持ち続ける可能性は低くなる。例えば空想科学小説が投げ込まれたガジェットの陳腐化(アトムが黒電話でお茶の水博士と会話するような)によって色褪せてしまうように、判り易く見えている出来事に問題を収斂させると深層に潜む問題を読者に語り問い続けることは難しくなる。それ故に、作家が取り上げた問題は本質的な社会構造の問題であるにも関わらず、10年後にこの小説がその問題を鋭く抉り出しているとは読まれないような気がしてしまう。例えば、既に漢字二文字のアイドルグループは、今現在少なくともこの作品の中で描かれているセンターを中心としたグループとしては存在しないし、名前も変更された。その隠喩が生み出した文脈は早くも失われつつある。
「スタッキング可能」の読後でも似たようなことを思ったが、この作家にとって「含意」とはどんな意味を持つのだろうか。
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旧態依然とした女性観が根付く社会に苦しむ女性達の逆襲。このまま私達への接し方が変わらなかったらどうなるか分かっているのかという脅しが聞こえてきた。
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最後は予想もしなかった場所まで話題が広がったが政治家の先生たちに対して「あぁ、そういうことしかねないな」と思った。どこに向かって仕事してるのかわかんない人いるもんな(会社もそうだけど)と妙に納得してしまった。
日本型アイドルの魅力のひとつが「未熟さ」であることの特異性は(決して否定するわけではないが)もう少し考えてみたいなとポジティブな意味で思った
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全体的に共感を感じながらも、この本で描かれるほど女は弱くないと思う。しかし女というだけで当たり前のように蔑ろにする「おじさん」はそこかしこに存在しているし、男に限らず女にも「おじさん」がいるというのもよく分かる。
話の最後の方はいきなりファンタジーになるけど、結局は「おじさん」がトップにいる限り、この世界は変わらないんだろうなぁというゆるい諦めを感じる。だからと言って、それは立ち向かわない理由にはならないが。
女性向けの本だからこそ、ぜひ男性にも読んで欲しい。
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2020年12月
「おじさん」(カギカッコ付きの「おじさん」)は既得権益を振りかざし、自分よりも弱い立場の人間の尊厳を踏みにじる存在の象徴なのだろうと思う。
出だしの不思議な世界についての記述はすぐにひっこみ、リアルな社会の描写、そしてまた不思議な文章が重なる。
鋭く、無駄のない言葉。媚びが徹底的に排除されている。
映像とかに起こしにくそうな複雑な世界観で、文章表現っていうのは独特だなぁと改めて思う。
異世界の物語のようでいて、読者には現実がビシビシと突き刺さってくる。やっぱり松田青子ってすごい。