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いやぁ〜びっくりしたね。これ。こんだけ俺と似たような体験をしたひとがいるのかと恐怖さえ感じました。いわゆるいい人の内面が深く描写されてます。スタイルも独特。転落の原因なんて”ささいなこと”である、ってのも俺の哲学と見事に一致。
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カミュは短命の作家であり、この短編集は最晩年の作品です。世に不条理を問い続けたノーベル賞作家の唯一の短編集を収録。
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俺はカミュのファンである。でもこれはなんか読みにくいというか入りにくかった。よく分からん。
またいつか読み直したいと思う。
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中編『転落』と、六つの短編からなる『追放と王国』。
転落:カミュの作品の中では異質な暗さ。じっとりとしたような。しかしそれでいてスッと入ってくるカミュの思想。
追放と王国:舞台もそれぞれな話の中、様々な形で描かれている「追放」のさまと「王国」の姿。「王国」が現れるならそれでいい、というわけではもちろんないのだが、それを拠り所にして生に立ち向かうような力強さを感じる。
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短編集だけどどれもストーリーが続いてるのかなと思えるところがあって面白い。大して読んでない中カミュで一番好き
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ヨナのエピソード。
solitaire(孤独)とsolidaire(連帯)。
一人の時間は他者と時間を共有するために
とても大切なもの。
カミュは好きな作家です。
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カミュの短編集です。
どの作品も見劣りしない素晴らしい作品です。短編なのに読み応えがあり、心に残るものばかりです。
中にはグロテスクな表現の多いものもありますので、苦手な方は読まないほうがいいかもしれません。
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酒飲んだ後に橋を渡るくだりのとこが好き。カミュは基本小難しいので、これくらい適度に断片的な方がいいでしょう。「異邦人」に感動したので、別テイストのこちらに触れられたのも良かったです。ポップ哲学に合掌!
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大学生のときにゼミで扱った短編集。どれも文学的に工夫がこらされた作品ばかり。カミュがこの短編すべてを書ききるのに10年以上かかった。というのも異邦人、ペストでの成功後、自分の才能の枯渇を覚えたからだ。タイトル通り追放から王国までを綴ってある。この後ノーベル賞を受賞し、遺作となる「最初の人間」を書いたまま交通事故で他界してしまう。なんとも哲学的で悲しくも美しい作品集。
難解だが歴史や哲学を知っていると読み解くことが出来る。「背教者」は、キリスト教の伝道者が未開の地に赴くが、逆にその地にある宗教に暴力によって改宗させられてしまう。伝道師はすっかり心を奪われ次に訪ねてくる伝道者を叩き潰すように待ち構えるという話である。
この伝道者はカミュが当時論争をしていたサルトルをモチーフに描かれている。サルトルは当時、目的のためなら暴力も止むを得ないという思想を持った共産党員となった。そのことをカミュは風刺したのである。伝道者は、現地の未開人に舌を引き抜かれてしまうのだが、舌はフランス語でラングと言い、また言葉という意味も持っている。つまりカミュはサルトルが言葉を失い、暴力に染まったことを描いたのである。
また未開人たちが崇めている金属の偶像があるのだが、この偶像は当時鋼鉄の男と言われていたスターリンを表している。このように歴史的な文脈を知っているとまた違う読みの楽しみが味わえる。
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『ある者は「ぼくを愛して!」と叫ぶし、他の者は「ぼくを愛さないで!」とくる。しかし最悪で、もっとも不幸な人種は「ぼくを愛さないで、でもぼくに忠実でいてくれ!」というんです。(p.71)』
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カミュを読むのは『異邦人』以来ですが、『転落』『追放と王国』は高校の頃一度読んで挫折してしまいました。それだけ『異邦人』よりも難解だった記憶があります。ですが、余韻のある難解さだからこそ今読み直したのかなと思います。
実存主義文学はテーマが重過ぎて読むのを無意識的に避けていましたが、カミュはテーマの取り扱い方が慎重な作家で、それさえ汲み取れればさほど買ってすぐ本棚にしまってしまうような内容ではない気がします。特に『転落』『追放と王国』は全体的に宗教色を帯びた作風で、聖書の引用と思わしき文もあります。
それにしても、カミュは感受性が鋭い作家ですね。
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p.180迄(7/1)
p.156迄(6/29)
p.110迄(6/28)
p.50迄(6/27)
p.26迄(6/26)
読み始め(6/26)
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今まで読んできたカミュ作品のなかで断トツ読みにくい。しんどい。聖書の知識がないと歯が立たない。『転落』はまだ話し言葉で書かれているのでテンポがあって読めるけど、『追放〜』は読める短編読めない短編差がありすぎた。それでも読めた短編の中では「客」「ヨナ」が好き。
ブクログ見たらこの本2013年くらいに読み終わったことになってるんだけど全く記憶がない絶対なにかと勘違いしてる。学生時代に読んだ誰かのカミュ論で「不貞」が取り上げられてたことだけなんとなく覚えてる。私が読むカミュ論なら野崎歓先生とかそのへんの人しか思い浮かばないけど…
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<転落>
虚栄心 自己愛 いずれ恐れに飲み込まれてしまう
最後について 誰かに裁かれることは避けられないので、先に裁かれてしまう、改悛してしまう、改悛する際に罪の主体を「私」から「我々」に変えてしまう、そうすれば自分は罪を持つ者の中で唯一の識る者となって、あとは専横に振る舞える
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「この男のばかげた罪は彼を憤慨させる。しかし、この男を引き渡すのは信義にもとる振る舞いだ。それを考えただけでも恥ずかしさに気が狂いそうだった。そして、同時に、このアラビア人を自分のところに送りつけた仲間たちと、あえて殺人を犯しながら逃げることもできなかった男との両方を呪っていた」(新潮社文庫、pp.262-262)
いきなりですが、映画が三度の飯よりも好きな自分が2015年に選んだ「最も良かった映画」は、ヴィゴ・モーテンセン主演『涙するまで、生きる』でした。
この映画の原作が、カミュによる『客』なんですね。
実際に読んでみると、分量も短いですが、お話自体もシンプルです。
冬のアルジェリア、辺境の地で小学校教師をやっているダリュは、やってきた友人の憲兵から、1人のアラビア人を預かるよう頼まれる。しかも、一晩預かるだけではなく、彼がとある街まで連れて行かなければならないという。アラビア人は、殺害容疑で捕まっていたのだ。目的地の街で、彼は裁判にかけられることになっている。
どこかしら超然とした小学校教師ダリュが、ひょんなことからアラビア人を預かり、彼を遠くの街に送り届けるだけの話です。
でもこの短いお話に見られる寓話性の深度は、かなり深いところまで続いているような気がします。
ダリュはアルジェリア系フランス人かと思いますが、それは同じくアルジェリア生まれのカミュ自身と重なります。
1954年から1962年にかけては、アルジェリア戦争の時代でした。フランス本土と、フランス植民地であったアルジェリアが繰り広げた内戦です。フランス植民者の父を持つアルジェリア生まれのカミュは対立する二つの世界の中にあり、まさに引き裂かれる思いだったと言われています。
二つの世界の狭間でカミュが取った行動は、停戦への可能性を見出すことでした。1956年、カミュはフランス側のリベラル派とイスラム穏健派と協力して市民休戦委員会を組織し、停戦を呼びかけてアルジェリアを訪れます。
ところが、これを自分たちに対する挑戦だと捉えた極右植民地主義勢力は強い抗議を示し、独立主張側でも、テロを辞さない強硬派が主導権を握ってカミュに非難を浴びせたのです。
つまり、「両方とも殺し合うのはやめて話し合うんだ」と訴えたカミュは両方の側から憎まれることになってしまったのです。以後、カミュはアルジェリア問題について語ることをやめてしまいます。
『客』におけるカミュ的精神の真髄は、アルジェリア問題に巻き込まれる自身の運命を預言しながらも、それに引き裂かれてある様態を、そのまま受けいれる覚悟を示している点に見出せそうです。
争いとは関わりたくない小学校教師は、アラビア人を死刑台へと導く仕事を唐突に任ぜられてしまう。アラビア人を逃がせばフランス側は許さない、反対に、アラビア人を街に引き渡せばアラビア側から報復されてしまう。
この究極の選択を迫られる男が小学校の教師ということは、その職業が、なによりも現代人の精神を広く長く次世代へと継承させていく象徴的な存在であるという意味で、事態の深刻さはいや増します。彼が身を以て示す選択が、彼の次の世代へと受け継がれていってしまう恐れがそこには込められている。彼の選択が汚点であったとしても、それは次世代に引き継がれてしまう。
そこでカミュが大事にするのは、信義や人情といった人間らしい判断であって、政治的イデオロギーとはまた違う次元の価値観なのです。冒頭の引用にあるように、「この男を引き渡すのは信義にもとる振る舞いだ」とダリュは人知れず述懐します。
もちろん、「フランスの仲間たち」にも「アラビア人」にも、彼は呪いの念を思わず抱いてします。なんでこんなことをおれがやらなきゃいけないんだ、といわんばかりのダリュの腹立ちが伝わってきます。
けれども、彼はそこから逃げない。
引き裂かれてあるなら、そのまま受け入れてやる。不条理がなんだ、おれはそれを生きてみせる。
説明過多に陥らないカミュの筆によるためか、ダリュ自身の口数は決して多くはありませんが、背中で語り行動で示す男の覚悟がそこに自然と立ち上がってくるのです。そしてそれは、アルジェリア戦争において、リスクがあると心底理解していながらも「争いをやめよう」と言い切ったカミュの背中に重なるのです。
そして2015年、フランスは、まさにこのカミュ的な問題を突きつけてくる事件に直面したのでした。https://www.youtube.com/watch?v=77G5AmsL9xQ