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本書は、端的に言えば、著者である柄谷行人が目指そうとしている「世界共和国」という在り方への道標を、丁寧なテクスト読解を通じて示したものである。世界共和国は、哲学者のイマヌエル・カントによる永遠平和の理念に基づいている(cf. イマヌエル・カント「永遠平和のために」)。つまり、世界共和国というのは、今の「国家」(著者の言葉でより厳密に言えば、「資本=ネーション=ステート」)という体制が抱えている問題を乗り越え、人類の永遠平和を目指すために考えられた体制なのだと言っていいだろう。
世界的な永遠平和は、「国家」間の敵対状態を解消しなければありえない。柄谷によれば、カントの理念を突き詰めていくと、究極的には各国が主権を放棄することで形成される「世界共和国」という枠組みに行き着く(cf. 柄谷行人『世界共和国へ』222ページ)。世界共和国は、一国のみが「国家」を捨て去るという形では成立できず、世界的かつ同時に改革を行わなければ成立しえない。そして、世界共和国の成立の鍵となるのが、後の方で述べる「交換」と「アソシエーション」である。
ところで、本書では、「世界共和国は達成可能だ」という断言はしていない。しかし、世界共和国を達成するための考え方を提示し、道標を示すことで、達成のために必要となる思考の土台を固めようと試みている。そして、土台固めの要として、本書では2人の思想家が大きく取り上げられている。1人は、先に挙げたイマヌエル・カントであり、もう1人は、資本主義の矛盾や問題点を鋭く突いたことで知られるカール・マルクスである。
■カントの著作の読解を通して
柄谷によるカントの著作の読解で、私が重要だと感じたのは、「普遍性」について触れている部分である。やや長くなるが、該当の箇所を引用しよう。「カントが『普遍性』を求めたとき、不可避的に、『他者』を導入しなければならなかったこと、その他者は共同主観性や共通感覚において私と同一化できるような相手ではないということである。それは超越的な他者(神)ではなくて、超越論的な他者である。そのような他者は『相対主義』をもたらすのではなく、それのみが普遍性を可能にするのだ」(80ページ)。引用した文章の中にある「超越論的な」というのは、徹底的な自己吟味のことである(75ページ)。私の理解の範囲内で説明すると、自己吟味というのは、自分自身の思考や行動などを批判的に見つめ直すことであるが、ただ主観的に見つめ直すだけではなく、他人からの視点も含んだ上で見つめ直すことをいう。
ここまでのことを私なりに言い直すと、次のように言えると思う。つまり、「普遍性」というものを述べるためには、ただ主観的に反省するだけのものではなく、他人からの視点も含んだ上での反省を促すような「他者」が必要である、と。
ところで、柄谷がカントを参照して述べるところによると、「普遍性」は「一般性」と区別されるものであるという(147、150、154ページ)。「一般性」は「個別性」と対になるものであり、これらは経験的なものである。一方、「普遍性」は「単独性」と対になるものであり、これらは超��論的である。そして、カントの思考の中において、「普遍性」というのは――同じ時間を生きる他者というよりはむしろ――未来の他者を前提にしている(147、187ページ)。そういう意味では、「普遍性」というのは歴史的なものである。
世界共和国の成立のためには、各人が他人を手段としてのみならず同時に目的として扱うような経済システムが実現される必要があると述べられている(192ページ)。世界共和国の背景にあるカントの理念は、道徳的な次元に留まらず、政治的、経済的なものとして、歴史的に実現されるべき理念を孕まずにはいられないのだという。ここから柄谷は、マルクスの著作の読解へと移っていく。
■マルクスの著作の読解を通して
ここで、最初のキーワードである「交換」が登場する。
マルクスは宗教研究を経て経済研究へと移行した人なのだが、彼は経済活動の中にも宗教的な部分があることを見出していた。「広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべての人間の行為を『経済的なもの』として考えることができる」(280ページ)。「貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである」(ibid.)。
ところで、マルクスの主著であり、彼が資本主義の矛盾や問題点を鋭く突いた本である『資本論』は、経済学の書であるが、柄谷はこの書にマルクスの哲学や革命論をも読み取る(ibid.)。ただし、柄谷は『資本論』を、マルクスの最終的な立場を表すものとしては見なしていない(243ページ)。柄谷がそう述べるのは、この書が断片的で未完成であることもあるのだが、マルクスが支配的な言説に対して自身の思考の「移動」と「展開」を繰り返しながら批判を行ってきたのであり、それが重要なのだと見なしているためである。
『資本論』が、マルクスのそれ以前の著作と異なる点は、価値形態論が出現することにある(292ページ)。これは、「貨幣」(cf. 282-283ページ)による交換、あるいは「交換の形態」と「価値」の結びつきを系譜学的にたどったものである。マルクスはここで4つの形態を挙げている。すなわち、1. 単純な価値形態(294-296ページ)、2. 拡大された価値形態(296ページ)、3. 一般的な価値形態(296-297ページ)、4. 貨幣形態(297-299ページ)、である。そして、これらの形式は、「1.」から「4.」へと発展していくものとして考えられた。それぞれの内容についての説明は省略するが、これらの形態を見ることで、柄谷は、マルクスが「物を貨幣たらしめる形式、あるいは、物を商品たらしめる形式」(303ページ)を発見したことを指摘する。マルクスが『資本論』で「価値形態」を導入したことは、「物」ではなく、「物が置かれる関係の場」を優位に置くことなのである(304ページ)。
ところで柄谷は、経済人類学者のカール・ポランニーが主著『大転換』において、市場経済以前の交換では贈与の互酬性と再分配が主要であったと述べている点について触れている。しかし、「『再分配』は本来強奪の一形態であり、継続的に強奪するためになされる」(308ページ)。一方で柄谷は、贈与の強制力について���触れている。「強奪は強制的であるが、贈与の互酬性にも別の強制力を強いる。この強制力は、(中略)心理的な債務感情である」(ibid.)。
ここで、もう1つのキーワードである「アソシエーション」が登場する。
マルクスやポランニーなどの読解から、柄谷は、3つの交換形態(贈与の互酬性、収奪と再分配、貨幣による商品交換)を見出してきたが、彼はさらにここから、「アソシエーション」と呼ばれる交換形態を見出す。「アソシエーション」とは、「国家や資本と違って非搾取的であり、また、農業共同体と違って、その互酬性は、自発的であり且つ非排他的(開放的)である」(310ページ)というものであり、それまでに挙げられた交換形態と異なった原理に基づく。
交換形態の類型を、近代の枠組みにあてはめると、資本制市場経済(貨幣による商品交換)、国家(収奪と再分配)、ネーション(贈与の互酬性)、アソシエーション、となる(415ページ)。資本制市場経済は、放っておくと必ず経済的格差を引き起こして対立に帰結する。ネーションは平等性を志向するため、格差の解決を要求する。国家は格差解決の要求を、規制や税の再配分によって実現する(柄谷行人『世界共和国へ』)。ところで、政治学者のベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートとは、本来異質なものであるネーションとステート(国家)の「結婚」であったと述べているが、柄谷はさらに踏み込んで、(やはり異質なもの同士である)国家と資本の「結婚」についても触れている(417ページ)。そして、ブルジョア革命によって、資本、国家、ネーションは、互いに切り離せないものとなった。柄谷が、近代国家は「資本=ネーション=ステート」と呼ばれるべきであると述べているのは、それゆえである(31-32ページ)。
現在の経済活動は、国家内で完結するシステムではなく、国家間の繋がりの中で営まれている。ゆえに、資本と国家の問題を越えるためには(そしてアソシエーションを成立させるためには)、トランスナショナルな改革、つまり、世界的かつ同時に改革が行われる必要がある。
では、どのようにしてアソシエーション成立のための道筋を導くのか。柄谷は、通貨と商品のやりとりを「交換」という大きな視点から考察することを通じて、「資本に転化しないような代替通貨、そしてそれにもとづく支払い決済システムや資金調達システムが不可欠である」(442ページ)という具体的な提案をする。代替通貨を考える際に、柄谷は、マイケル・リントンが1982年に考案したLETS(Local Exchange Trading System: 地域交換取引制度)を紹介している(445ページ。LETSの詳細については500ページを参照)。また、アソシエーションの「中心」に中央評議会を置き、代表選出の際は(古代ギリシャで行われていたような)くじ引きを導入することをも併せて提案している。
■アソシエーションの達成への課題
アソシエーションを達成するにおいて、私の中にひとつの疑問が湧いた。アソシエーション実現のためには、個々人が自身の行動に対して責任を持つことを強く自覚しなければならないだろう。なぜならば、アソシエーションは個々人の主体性に基づくものであるからだ。それでは、個々人が主体的に行動を起こすためには、個々人がど���ような動機づけを行えばよいのだろうか――これが、私の感じた疑問である。
経済活動のみならず、政治的な行動も含め、社会にコミットするための行動を起こそうとする意思は、個人差がどうしても生じてしまうだろう。このことは、教育によってある程度その差を縮めることはできるかもしれないが、個々人が育つ環境というのがそれぞれに異なる以上、行動意思の強い者もいれば弱い者もいるという状況が出てきてしまうことは避けられない。
私は、「本当に賢い人はそうそういない(と同時に、本当にバカな人もそうそういない)」という考えを持っているせいか、アソシエーションを執り行う際には、個々人が主体的な行動を起こせるような「アーキテクチャ」(cf. Lessig『Code 2.0』Chap. 7)を構築しなければ実現は難しいのではないかと考えてしまう。ただし、アーキテクチャは、構築がなされる際に、権力の制御を誰がどのように行うのかが問題となるため、非搾取性の実現を目指すアソシエーションとの相性はどうなのかが未知数であるように思われる。とはいえ、今までアソシエーションは国家に匹敵するレベルでは成立したことがない、つまり「やってみなければわからない」という状況であるのだから、「未知数」であるのは当たり前ではあるのだが。
先にも書いたように、アソシエーションはまだどこにおいても達成されていない。また、本書は世界共和国の成立に向けての「萌芽」でしかないことを著者自身が認めているように、本書で述べられてきたことはまだ議論の発展の余地がある。しかし、私は本書を読むことを通じて多くの刺激を得ることができたし、本書の続編として位置づけられている『世界史の構造』を読む際に、どのように議論が発展したのかを追うことができる地点にようやく立つことができた。一方で、私は本書の濃密な記述を完全に理解できたとは思っていない。ゆえに、機会を改めて、いずれまた本書の再読をしたいと思う。
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特にカントに関するところの考察が面白かった(というよりも繰り返し読んでとらえようとした)。マルクスのところはまた読んで整理したい。デカルトやフッサールとかを逆に読みたくなった。
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柄谷行人による、カントの超越論的な方法からマルクスを解釈し、マルクスの思考の実践性をカントに依拠しつつ明らかにしようとする試み、と言える。彼らのテキストに即しつつ、教条的解釈では見出し得ないような、ある意味でカントもマルクスも意図していなかったような思想をそこから引き出し、それを説得的に展開している。
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[ 内容 ]
カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む。
移動と視差による批評(トランスクリティーク)によって、社会主義の倫理的=経済的基礎を解明し、資本=ネーション=ステートを超えた社会への実践を構想する。
英語版に基づいて改訂した著者の主著の決定版。
[ 目次 ]
イントロダクション―トランスクリティークとは何か
第1部 カント(カント的転回;綜合的判断の問題;Transcritique)
第2部 マルクス(移動と批判;綜合の危機;価値形態と剰余価値;トランスクリティカルな対抗運動)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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2016年度、H大学にいたときに受けた授業のテキストだった。先生は柄谷行人の弟子だったらしく、ゴシップ満載だった。もっとも哲学科の専門科目ではなく、私含めて学生は哲学の知識がなかったから、中身を読み進めるのではなく序文の最初の30ページくらいをいったりきたりしつつ哲学史を総ざらいしていた。通年で30回の講義で、シラバスは全部読み切る予定で書いてあったのだが… のちに一応なんとか通読して、『世界史の構造』も読んだのだが、さっぱりだった。しかし、哲学とか思想の世界にグワーッと惹き込まれた、講義とともに思い出深い1冊。
まあ、各々の議論が学問的にOKなのかどうかは全然わからないのだが、知識をつけつつ折に触れて見返したい。
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クリティカルシンキングと一概に言っても、スタンスの型がいくつかあるのだと、思考を深めるきっかけになりそうな一冊でした。
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カントとマルクスの思想的基盤に独立小規模事業者の協同組合(アソシエーション)を見出し、資本主義を超えた世界としてアソシエーション論を提言する。これは自由のない旧ソ連的な計画経済も、格差と貧困を拡大する資本主義も否定する私達に新たな可能性を提示する。
本書は第一部でカント、第二部でマルクスを論じている。本書はカントの道徳律の基礎に自由を見出す。「道徳法則は、自由であれということ、同時に、他者をも自由として扱えということにつきる」。これはオーソドックスなカント理解ではないかと考える。ところが、本書によると世のカント理解は「共同体や国家の課す義務に従うことと混同されてしまいがち」とする。そのような世のカント理解(誤解)があるならば、本書の指摘は重要である。
日本の左翼左派には新自由主義への嫌悪感が強いが、本来の新自由主義は国家権力の横暴を否定する思想であった。一方で所謂ネオリベラルには自由に対して他者を踏みにじる自由、他者を搾取する自由と勘違いする風潮がある。現実にブラック企業・ブラック士業、貧困ビジネス、半グレ・ヤンキーなどが社会問題になっている。市民運動の世界でも自己への攻撃はヘイトスピーチ、「安倍死ね」は表現の自由という勘違いがある。
そのようなものが自由であるならば、良識派が自由より規制強化という考えに至ることも理解できないものではない。一方で「自由より規制」の行き着く先がソ連のような社会であり、その失敗を目の当たりにしている立場としては「自由より規制」を無批判に賛美できない。故に自由に基礎を置くカントの道徳律という本書の主張に価値がある。
本書のマルクス論も教条的なマルクス主義とは一線を画している。国家集権的な社会ではなく、アナーキズム的な協同組合を志向していたとする。私的所有と個人的所有は区別される。私有財産の廃止を目指すが、それは国有化ではない。私的所有権は「それに対して租税を払うということを代償に、絶対主義的国家によって与えられたもの」と位置付けたとする。
この説明は国家が何故、企業寄りとなり、個々人を抑圧する側に回るかが理解できる。たとえば住環境を破壊するマンション建設も、固定資産税が納税されれば国家は保護する側に回る。貢納と保護という封建社会と変わらない構造である。さらに本書は消費者運動にも言及する。
「資本への対抗運動は、トランスナショナルな消費者=労働者の運動としてなされるほかはない。たとえば、環境問題やマイノリティ問題をふくめて、消費者の運動は「道徳的」である。だが、それが一定の成功を収めてきたのは、資本にとって不買運動が恐ろしいからだ。いいかえれば、道徳的な運動が成功するのは、たんに道徳性の力によってではなく、商品と貨幣という非対称的な関係そのものに裏づけられていることによってである。資本の運動に対抗するためには、労働運動と消費者運動との結合が模索されなければならない」
日本の生産者中心、労働運動中心の傾向に反省を迫るものである。たとえば三菱自動車不正などの企業不祥事が起きると、従業員や下請け企業の苦境を伝える報道が出てくるが、一番の被害者は消費者である。消費者から見れば従業員や下請け企業も加害者側の人間である。消費者に対して従業員や下請け企業の苦しみへの理解を求めることは産業の存続最優先で我慢しろというに等しい。
一方で消費者運動に対しても道徳性を基盤としながら、不買運動という力が効果を持つと主張する。東急リバブル東急不動産不買運動やFJネクスト不買運動を唱える立場として納得できる。
最後にマルクスの再評価について述べる。マルクス再評価の意義は認める。マルクスの思想はソ連型社会主義とは異なるという主張に肯定できる点は多い。戦後日本の所謂マルクス主義が本当のマルクスの主張と異なるという点ももっと知られてよい。
しかし、マルクスは良いことを言っているということと自分の思想のバックボーンをマルクス主義にすることには大きな差がある。もともとマルクス主義にどっぷりと漬かっていたが、ソ連崩壊で元気がなくなっていた世代にとっては、マルクス再評価はしっくりくるだろう。
これに対して、元々マルクスを評価しておらず、むしろ反面教師としていた世代にとってはマルクスも良いことを言っているというだけでは積極的にマルクスを選択する理由にはならない。良いことを言っている、学ぶことがあるという点では新自由主義思想にも大いにある。マルクスを特別視する理由はない。何故マルクスかという理由がもう一つ必要になるだろう。
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従来、農村共同体の中では互酬が、封建国家の中では強奪と再分配が、そして共同体と共同体の間では貨幣による交換がなされていた。資本主義の発展の中で農村共同体は解体され、封建国家は崩壊した。絶対君主制が出てくる中で王は商人階級と結託する。これを筆者は国家と資本の「結婚」という。フランス革命以後、国家とネーションの間でも「結婚」があり、国家=資本=ネーションは三位一体のものとして現われるようになる。
筆者が否定するのは、国家が上部構造で、資本が下部構造という従来のマルクス的な見方である。国家=資本=ネーションが三位一体である以上、資本に対抗すれば国家とネーションに回収されてしまう。このことは、経済が圧迫されれば国家が再配分を強めるとともにナショナリズムが高揚することに表れている。したがって、筆者が提唱するのは資本と国家への対抗運動である。
では、そのためにはどうすれば良いのか。筆者が注意するのは以下の2つである。一つは、剰余価値は生産過程だけでなく、流通過程を含めて始めて生まれるということ。剰余価値が生まれることを抑えたければ、生産過程では労働者である消費者が、商品を買い戻さなければよい。もう一つは、剰余価値はグローバルなレベルで生まれるということ。好況期には多くの労働者が雇われ、利潤率は低下する。信用の加熱を経て恐慌が起こる。それでも世界レベルでは、平均的な利潤率が保たれる。それは、技術革新を行うことで新たな利益を生み出している国に剰余価値が集まってくるからだ(この辺り、あまり理解できていない)。したがって、一企業や一国家に対する闘争ではなく、トランスナショナルな運動を起こさなければならない。
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カントとマルクスの思想を横断的に批判、すなわちトランスクリティークに読み込むことで、資本主義社会を乗り越える、言い換えれば、アソシエーションを実現するためにはどうすればいいのかを考察する。
『資本論』を宇野弘蔵の解釈をもとに、資本主義社会は、恐慌や革命が自壊することなく、あたかも永続するかのように続くと著者は見なす。そのため、現状の資本主義を変えるためには、流通過程に注目するべきだと説く。そこで、対抗ガンのような運動を作り出すことで、資本制経済を打破できると仮説する。
ちなみに、この運動は、消費者としての労働者が、非資本的な生産(消費協同組合、代替通貨)、労働力を売らない、資本制生産物を購入しないといった運動で、資本主義社会の内側から変えようと試みる。このように、単に資本や国家を真っ向から否定するだけでは不十分で、労働者が消費者として現れる場において、しかも、個々人が主体的に活動することでのみ実現可能である。
以上から、資本主義経済がどれほど強固で、恐慌や革命等では簡単に終わらないことが分かる。それと同時に、資本主義経済の内側に風穴を開けるために、個々人(労働者かつ消費者である人々)がいかに対抗して、新しい社会へと移行できるのかを本書から読み取れる。