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ビューティフル・ネーム
著者 鷺沢萠 (著)
「Yes, I am. I am a Japanese.(えーっと、ホントは違うんですけど)」。在日韓国人三世の崔奈蘭は、中学高校の6年間だけ「前川奈緒」だった……。国と名前をめぐって編まれた三つの物語と、パソコンから見つかった未完の遺稿を含む鷺沢萠の絶筆。35歳の若さで世を去るまで、きりりと明るく、人間を深く肯定する物語を届け続けた希有な才能が、いま作品のなかに永遠の生を得て、光り輝く。
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紙の本ビューティフル・ネーム
2011/05/05 00:19
同時代の作家の最後の作品を読む
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:拾得 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私が書評らしきものを書きはじめた頃から、著者の作品を紹介してきた。一番最初には、才能ある同時代の作家と伴走できる同時代の読者の喜び、みたいに書き出した記憶がある。その時には、彼女の「最後の作品」について書く時がこようとは思いもしなかった。「残念」とも「無念」とも言いがたい、複雑な心境である。できれば「読みたくなかった」。
本書は、作家のPCから発見された未完の作品を含む、4編から構成されている。そのうち著者の生前に発表されたのは「眼鏡越しの空」「故郷の春」の2つである。「ビューティフルネーム」という表題作があるわけではなく、この2つに未完の「ぴょんきち/チュン子」をくわえた一連の作品につけられる予定だった作品集名である。いずれも、在日朝鮮人の「本名」や「通名」をめぐる物語である。
在日朝鮮人における「通名」の問題などというと、「差別の問題が・・・」と想像されてしまうかもしれない。しかし、著者はそうした展開になるのは慎重に避けているように見受けられる。現在の日本において、在日朝鮮人に対する差別がないとはいわないし、かといって、日々「即物的な差別」だけにかこまれて生活しているわけでもない。それぞれの年代で、たいていの日本人もかかえるであろう、それぞれの問題にも出会うはずだ。
「眼鏡越しの空」では、小学校で「本名」で通学していたのが、名前をからかわれたばかりに親にあたり、かといって「通名」で私立の中学高校に通うようになれば、どこか違和感を感じ過ごさざるをえない。小学生などのときに名前でからかわれるなどということは、在日か日本人かにかかわらず「よくあること」ですらある。そんなこんなで一喜一憂してしまう年頃の在日の物語である。「在日問題」という括りから言えば、それぞれは些細なことかもしれない。しかし、作者は、そうしたものをこそなんとかすくいとろうとしている。おそらく、この感覚は「在日」だけに限るものではないだろう。読者それぞれのテーマにひきつけることで、共感をもって読めるのではないだろうか。
作者は、自らが在日の血を受け継ぐクォーターであることを知ってから、『君はこの国を好きか』など、在日を主人公にする作品を多く扱うようになった。それまで、『帰れぬ人々』『少年たちの終わらない夜』などからはじまって『スタイリッシュキッズ』など、「今どきの若者」をとらえたものが中心だっただけに、その変わりように違和感をおぼえた読者も少なくなかったのではないか。ましてや彼女自身は、本名/通名をもっているわけでも、在日としてなんらかの差別を受けてきたわけでもない。
ただ、改めて本作品集を通してみると、作者自身もこうした読者からの違和感に対し自覚的であったように見受けられる。この作品集の4つめ「春の居場所」を読んでいて、ふと合点がいった。自分の高校時代を投影したとおぼしき未完の作品で、他の三作とはまとまりを異にする。本作では「頭のよろしい子」のいる中学校から「まあまあ」の高校へ、偶然にも進学してしまった高校生の回想が中心だ。彼女の今までの随筆を読んでいれば、ある程度彼女の人生との符合もつく設定である(もちろん「そのまま」ではない)。
高校生時代に好感をもっていた同級生への回想を軸としつつも、作品全体に流れているのは、「今いる場所」と同時に、「さっきまでいた場所」にも向けられる違和感である。この違和感はかたちを多少変えつつ、彼女の作品に繰り返し現れてくる。高校時代から思い感じてきたのであろう、彼女が作品を初めて世に問うたのも高校の卒業間際だった。ただし、彼女がしよとしたのは、その違和感を克服したり、抗議をしようとするものではなかった。「書く」ということで、丁寧にすくいとろうとしてきたのみだった。実は、その姿勢は、初期の作品群でも在日にかかわる作品群でも変わらなかった。
誰がいったか、作家は「処女作に向かって成長する」というが、その通りを示す作品集である。作家は、「すくいとること」の先に何を見たのだろう。もはやその答えはわからないのだけれど。