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カラマーゾフの兄弟
物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。
カラマーゾフの兄弟(下)(新潮文庫)
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カラマーゾフの兄弟 改版 上巻
2004/05/17 04:02
ドミートリイ、イワン、アリョーシャ。彼らカラマーゾフの兄弟が、それぞれに苦悩する姿に胸打たれる。
11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:風(kaze) - この投稿者のレビュー一覧を見る
昔、途中で挫折したこの大作。今回は読み通そうと、思い切って挑むことにした。名作あるいは問題作として多くの人に衝撃と感動を与えてきたドストエフスキーの大作。ヒマラヤの高峰を登攀するような気持ち。
本書を読み、登場人物たちと出会い、作品の世界にどっぷり浸かってみたいと思ったのは、高野文子さんの漫画『黄色い本』の表題作を読んだのがきっかけ。数日前に、ゴーゴリの作品を読んだのも大きかった。
ある作品を手にするきっかけは、どこに転がっているか分からない。本書とは直接関係はないけれど、この大作を手にする後押しをしてくれた「黄色い本」に感謝したい。
さて、新潮文庫の上巻。作品第二部の「大審問官」の章まで読んだところである。
フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフと、彼の三人の息子、長男のドミートリイ、次男のイワン、三男のアリョーシャ。彼らカラマーゾフ家の人間が、それぞれに苦悩し、反発し合いながら、滅びに向かって突き進んでいるように見えてならない。
「快楽に生きるために金をけちって何が悪い。俺は俗物。道化でもあるのさあ」とうそぶき、無遠慮にふるまう父親フョードル。
徹底して父親と敵対する情熱の人、ドミートリイ。
誰からも距離を置き、独立独歩を貫く孤独の人、イワン。
父と兄たちが和解することを願い、行動する愛の人、アリョーシャ。
彼らカラマーゾフの者たちが、自己の心の求めるままに行動し、それぞれに苦悩する姿に、胸を揺さぶられる。
本書はまた、キリスト教の神の思想と信仰に深くメスを入れ、切り込んでいる。それが端的に示されるのが、上巻の最後に置かれた「大審問官」の章。イワンがアリョーシャに、「大審問官」と名づけた自分の作品を聞かせる形で、人類と神の問題が語られていく。理解しづらいところが多々あったとはいえ、非常に啓示的、予言的な深遠さを、イワンの「大審問官」に感じた。
上巻を読み進めながら、しばしば、ベートーヴェンの「交響曲第九番」、その第一楽章の音楽が頭の中で鳴っていた。
混沌の闇の中から何かが生まれ、ぶつかり合いながら形を成していくベートーヴェンの第九、第一楽章。無から有が生じ、荘厳な大伽藍が築かれていく音楽。
様々なエピソードを積み上げながら、対位法的に話を進行させていくドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。その計り知れない遠大さと、苦悩する登場人物たち。
ふたつの作品に、響き合う何かがあった。
原 卓也の訳文。読みやすい。少なくとも、日本語の問題で頭を悩ませるといったことはなかった。名訳だと思う。
今回はきっと、最後までたどり着けるのではないか。
続いて、中巻に行く。
◇『カラマーゾフの兄弟 中巻』
◇『カラマーゾフの兄弟 下巻』
カラマーゾフの兄弟 改版 上巻
2019/09/18 12:06
若い人たちにぜひ勧めたい
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:koyarin - この投稿者のレビュー一覧を見る
やはり、ドストエフスキーはすごい。別格である。人生で、何か本を5作品まで推薦しろと言われたら、必ずこの作品が上がるでしょう。これを読まないで、人生を送るのは、人生を考える機会の半分を失うも同然です。なるべく若いうちから読ませるべき本です。スマホでも読めるかもしれないけど,ボーっとスマホで遊んでるくらいなら,こういうのを読む時間を取ってほしい。
カラマーゾフの兄弟 改版 上巻
2004/04/27 02:33
MATRIX
8人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
マトリックスって、まんま『カラマーゾフの兄弟』の世界やんか、ついでに言えば、マトリックスの元になったらしい(?)AKIRAもそうなのかもしれないし、さらに言っちゃえば、第二次大戦中の日本とアメリカのあり方っていうのが、そのまま裏返しになって表現されているような感じがしてしまうのは、自分が日本人であるということを差し引いても、たぶん、ある種の人々はそういう部分というのを感じ取っていて、それを表現しようという衝動に突き動かされているっていうことなのではなかろうか。「大審問官」の、あの解決不可能に思える絶望という「死に至る病」を、なんとか解決してしまおうという、壮大な映像叙事詩であるのではないのか、これは。99年の映画だけど。
「大審問官」というのが、たとえばオーウェルの『1984』みたいなディストピア小説の系譜の親玉である、ということは、何かで読みかじって知識としては持っていたりするけれど、で、そんなことを言い出せばSF作品っていうのは、ブラッドベリの『華氏451℃』(だったかな、確か本が燃えちゃう温度だったと記憶しているが)にしろディック『アンドロ羊』にしろ、多かれ少なかれ「大審問官・解決編(の試み)」しちゃってるのかもしれない。(やっぱり、「こども」だけで解決しようとしても……)
「大審問官」の根っこには、聖書(福音書、つまり新約のほう)に出てくる「荒野における悪魔によるキリストの誘惑」があるわけだけれど、パンと奇跡と権力、この三つの誘惑を断ち切ることで、キリストは「(人間の)自由」を守ろうとしたのだ、というのが一般的解釈である(と思う……たしか教会学校とかでそんなふうに習った覚えがある)。「こういうのって日本人にはわかりにくいんだよね」という思いは、かなり痛い記憶とない交ぜになって僕の中に残っていたりするけれど(宗教を持ってない人って宗教を持ってる人間をどこかバカにしてる所があって、これってどっちもどっちな所もあるし、もちろん皆が皆そうではないんだけど、宗教持ってるってのも結構辛いんよ)、やっぱり聖書に限らず宗教的な経典は「信じる」っていうことを巡って捉えないと、ときに猛毒をもってしまうものだし、「信じる」っていうことは、ものすごく個人的なところがあるから、というか「自由」でなくてはいけないものだから、それを表現にまで高めて(?)しまったドストエフスキイは、とてつもなく強い人間なのである。小説家として。
心して読んで欲しい。たとえば、「人生のピンチやなあ、今の自分」って、言葉にすることもできずにいるような、そんなときに。
僕は何度も道を踏み誤っている。やっと、生半可な、自己憐憫的状況から、頭一つ分だけ抜け出られたような気がする。たとえ錯覚にせよ、である。
カラマーゾフとマトリックスと半藤さんの『昭和史』に感謝。
さて、ナポレオンとヒトラー、この二人と取り組んでみるかな。
(勝手にしろ! はい……ごめんなさい……Smile / by Chaplin)
◇『カラマーゾフの兄弟 中巻』
◇『カラマーゾフの兄弟 下巻』