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公共哲学とは何か
著者 山脇直司 (著)
シニシズムや無力感、モラルなき政治家や経済人、軍事力を行使したがる大国-こうした事態に直面して、いま「公共性」の回復が希求されている。本書は「個人を活かしつつ公共性を開花させる道筋」を根源から問う、公共哲学の世界に読者をいざなう試みである。「知の実践」への入門書決定版。
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2020/02/21 22:04
公共哲学とは何か
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Totto - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は、東京大学総合文化研究科の山脇直司教授。
「公共哲学」と聞くと、なんだか身近には感じられず、遠い概念に感じられますが、
その実態は、公と民間という二元論を超えて、「公共」を加えた三元論で社会の
諸問題を見ていくことだと理解しました。
歴史的考察(プラトンやアリストテレスなど)も復習になります。
公共哲学とは何か
2004/05/16 14:42
「私」とこの社会をつなぐ
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:野崎泰伸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「私」という存在は、何であろうか? とりわけ、この社会において、
「私」が生きているとは、どういうことであろうか?
これは、古来から哲学が問題にしていたことである。そのうち、「私」
とはこの社会でどのような存在であるかということを、(1)「私」は
この社会でどのようにあることができ、(2)「私」はこの社会でどの
ようにあるべきか、を考察するのが、公共哲学である。すなわち、公共
哲学は、「私」とこの社会を切り結ぶべき規範について考察するもので
ある。
規範というと、どうも堅苦しい、「またオヤジの説教かよ」お思われ
る方もいるだろう。実は、そうではない。公共哲学は、そのような「説
教」の押し付けをしない。むしろ、公共哲学は、私たちがこの社会でで
きるだけ自由であれるように、そのための約束事を決めるための議論の
場を提供するものだと考えることができる。
別の面から言えば、このように言うこともできる。「この社会に、ル
ールは必要であるのか?」という問いに、どのように答えるべきか、と
いうことである。すなわち、「ルールがない社会が、自由な社会である
のか?」という問いである。
ここで、公共哲学なら、「何のためのルールか、誰のためのルールか
?」と、逆に問い返すだろう。
法哲学者の井上達夫氏は、『共生への冒険』(毎日新聞社)の中で、
小学生が遠足に持っていくお金の決め方の例を挙げているが、これが最
もわかりやすい例であると思われる。すなわち、先生が上限を決めるの
がよいか、そもそも上限などないほうがよいのか、それとも、上限が決
められるべきかどうかも含めて、上限の設定を児童が決めればいいのか、
そういう例である。
公共哲学は、まさに「そのルールは何のためにあるべきか」を、ある
ほうがよい、ないほうがよいという選択も含めて、議論に加わる人たち
が決めるのである。すなわち、公共哲学とは、「この社会に住む私たち
すべてが、できるだけ自由であれるようなあり方を求めて行う議論の場
の提供」なのである。決してそれは、ルール自体の押し付けではない。
そのルール自体が、目的を達するために社会の構成員に義務を課すこと
はあるが、それはそのルール自体の押し付けを意味しない。
公共哲学における主題は、以下の通りである。すなわち、正義、自由、
平等、人権、平和、共同体、疎外、福祉、科学、教育などである。その
性格上、学問横断的であらざるを得ないと同時に、従来の学問の垣根す
ら取り払わなければならないのである。
実は、古来アリストテレスの時代から、こうした議論はあった。日本
でもやっとここ10年ほどで議論が沸きあがっているところである。山
脇氏のこの著書は、そうした歴史の整理と、自ら議論への介入を試みる、
「出るべくして出た」格好の入門書なのである。
「私」とこの社会とを切り結ぶとは、「私」と「他者」との関係性を
必然的に問わざるを得ないのである。