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生命観を問いなおす ――エコロジーから脳死まで
著者 森岡正博
環境破壊から脳死問題まで、現代社会は深刻な事態に直面している。このような現代の危機を生み出したのは、近代テクロジーと高度資本主義のシステムである。生命と自然にかかわる諸問題に鋭いメスを入れ、欲望の充足を追求する現代に生きる私たちの生命観を問いなおす。生命と現代文明を考えるためのやさしいガイドブック。
生命観を問いなおす ――エコロジーから脳死まで
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生命観を問いなおす エコロジーから脳死まで
2003/12/19 20:18
正しい人間理解
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
拍手喝采の一大名著である。本書から考えを改めさせられるいろいろな教えを得た。まず、緒言から大上段に論理を展開する。現在の環境問題を人類の「農耕の始り」まで言及するのである。すなわち、環境問題は、人類の性として起こるべくして起こっているのである。この論理から発して、本書は深い人間性理解へ通じる論理を展開する。
環境問題を叫び始めたのは、先進国である。その論理を著者はこう展開する。「アフリカやアジアで飢餓が多発し、砂漠化が進行しても、それはあくまで対岸の火事にしか過ぎなかった。遠くから、ほんの少しだけ、政略的な援助を行なっていればよかった。ところが、国境を超えた環境破壊が、自分たちの生活をおびやかしはじめたとき、はじめて先進国の人々は本格的に立ちあがるのです。そして、「地球」と「人類」の危機が迫っていると、大声で叫びはじめるのです。」
本当の意味での「環境問題の解決」には、今の人間の「世界観」「価値観」「自然観」を変えないといけないと解きます。具体的に書くと、当然と簡単に受け流されると思うので、ここでは書きませんが、私もその通りだと思います。以前から私が思っている「足るを知る」というのがここで浮上してくると思います。無いものねだりをするので無く、有るもので満足する。人類はここに気づくべきだと私は思います。これは、続いて展開される臓器移植、不妊治療に関しても言えることだと思います。
「脳死者からの臓器移植」本書を読むまで、私は完全に賛成派でした。それは、脳死とは機械で生かされた状態であるので、本質的に「死」である事を認めた上で、死体にある有効な臓器を必要な人に与えるのは良い事と理解していました。しかし、現代医学の実体を本書で知ることになり、考えを改めさせられました。脳死者の別の利用方法を知ったのです。それは、人体実験であり、血液製造機械として使用であり、とても想像のつかなかった目的での利用です。一般常識的には、考えられない事が最先端の医療現場では、「人命を救う医学の進歩」の美名の元に行なわれるのです。はっきり言って愕然としました。
また、脳死を死と認めるのは、デカルトの哲学が影響していると述べます。すなわち、思考することに人間の本性を求めるデカルト哲学に依れば、思考が無くなった脳死患者は、すでに人間では無いという理屈が成り立ちます。だから、利用出来るべきは何でも利用すべきという根拠となっているのです。これはこれで分からないでは無い。しかし、現代医療の実体を理解することは出来ません。
著者は梅原猛という思想家の論述を批判します。梅原は、「脳死は死とは認められない。しかし、「菩薩行」として脳死者からの臓器移植には賛成出来る」という立場を取ります。これも分からないではありません。しかし、「菩薩行」と言う仏教的な思考を取り上げるならば、本来の仏教の意味を考えるべきであると解きます。すなわち、仏教の本質とは、「執着を捨てる」という事です。臓器移植を是とする思考は、考える以前に「生」への執着が見られます。他人の臓器を貰ってでも長く生きたい。そういう意図がありのです。これは、「生」への執着です。本来の仏教の教えから学べば、「仏から与えられた時間」を他人の臓器を貰うことまでして長らえようという思考は生まれないはずだと言うのです。しかして、「生」への執着は、人間の本性でしょう。
著者は深い人間理解として、生命に対する矛盾を理解した上で論を進めるべきだと言います。全く人間の本性を現すものだと思うので原文をそのまま掲載します。「どうして生命は、他の生命を犠牲にしようとするのだろうか」「それにもかかわらずどうして生命は、他の生命や自然と調和したいと願うのだろうか」この矛盾を矛盾として理解して、初めて著者は、論理のスタート点に立つのです。
生命観を問いなおす エコロジーから脳死まで
2001/11/24 23:51
問い直されるリサイクル。問い直される自らの生き方。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちひ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ホームページで氏本人が紹介するところによると、生命観を考えるテキストとして最適である。ちくま新書ということで、かなり薄く、語り口もさわやかで平易につき、かなり読みやすい。
読者は氏の論に誘(いざな)われ、「脳死」臓器移植その他さまざまな生命倫理学系の問題について考えているうち、氏独自の壮大な文明論的な観点(「生命学」)をも知ることとなるだろう。そしてリサイクルや環境問題などについても新たな視点を得て、大袈裟に言えば、今までの自分が携えていた視点や、もっと極端なことを言えば今までの自身の生き方そのものを検証する必要性に迫られることさえあるだろう。
具体的には、第六章で行われる梅原猛の「臓器移植=菩薩行」論の検証が圧倒的であった。梅原が提唱する論の問題点をここまで明確に浮き彫りにし得た書籍をわたしは他に知らない。「菩薩行」であれなんであれ、他人との関わりを除外したところで語り、実践するのはあまりに拙い生き方である(あるいは京都学派と全く変わらない、と言うべきか)。
個人でちくちく研究して精神世界の深みにはまっていくだけであるのならそれで全然構わないが、しかし、わたしたち人間は他人との関わりの中に生きているのである。そのことを再認識させてくれる好著である。
巻末には氏のHPのアドレスが紹介されている。どうぞ行ってみてください。 ここです。
生命観を問いなおす エコロジーから脳死まで
2002/12/03 20:12
「生命学」という新しい学問の、たいへんわかりやすく挑発的な入門書
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:pipi姫 - この投稿者のレビュー一覧を見る
森岡氏は生命倫理学の研究者なのだが、この生命倫理学という言葉から連想するような倫理学者とはちょっと違うようだ。彼は「生命学」という学問を提唱していて、「脳死は人の死かどうか」「臓器移植は是か非か」という問題を、単なる技術論や死生観を超えた文明論にまで発展させて論じている。
本書では、生命倫理学と環境倫理学という学問を概観した後、エコロジー思想を紹介しつつ、その根幹にある「ロマン主義」を批判し、ディープエコロジーや生命主義が自然に還れと叫ぶのは本質を見誤っていると指摘する。「自然」や「生命」こそが悪の根源であり、「生命として生きていくということは、他の生命を抑圧し、それに暴力をふるい、それを支配しながら生きていくことなのだ。生命を抑圧する原理は、生命の内部にこそ巣食っている」と喝破する。
この論にわたしは大いに賛同する。しかし、一方、ご本人はロマン主義に反対すると言いつつ、そのロマン主義に陥ってはいないかと危惧する。生命を抑圧する権力装置は人間の外側(社会システム)にあるのではなく、人の内部にあると言い切ったときから、<気持ちのもちようで環境問題や生命倫理の問題はクリアできる>と言ったことにならないか。社会システムは人の外部にあると同時に人の内部にある。世界は自己の内部に存在する。
問題は、その内部でもあり外部でもある社会システムをいかように変革するかということではないのかと、わたしは単純に考えてしまうのだが。森岡氏が提唱されていること、追究せねばならないという「生命学」の思想が教えることは魅力的で示唆に富むのだが、ついつい処方箋を求めてしまうわたしは、
「で、そんでどうなるの? どうすればいいの?」と政策論を迫ってしまう。
が、これは今はひとまず禁欲すべきことがらなのだろう。
本書の後半部分で、脳死をめぐって森岡氏は当時の上司であった梅原猛を批判している。梅原猛の反脳死論がデカルトの二元論に端を発する近代哲学批判にまで論及されていることを大いに評価しながら、そのデカルト批判の中途半端さを指摘し、『「臓器移植が、臓器をもらう人間のエゴイズムをサポートするシステムである」ということに対するまなざしが、希薄だ』と批判する。臓器を移植してでも生きようとする人間のエゴイズムを見つめる必要がある、その「生」への執着をこそ問題にすべきだというのが森岡氏の主張である。いわく、環境破壊は生命を忘れた近代哲学が生み出したのではなく、生命の欲望そのものがもたらしたのだと。
おそらく近著『生命学に何ができるか』ではそのあたりが全面展開されていることと思うので、次は大いにこれに期待したいと思う。