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15件
神様
著者 川上弘美 著
くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである――四季おりおりに現れる、不思議な〈生き物〉たちとのふれあいと別れ。心がぽかぽかとあたたまり、なぜだか少し泣けてくる、うららでせつない九つの物語。デビュー作「神様」収録。ドゥ マゴ文学賞、紫式部文学賞受賞短篇集。
〈目次〉
神様
夏休み
花野
河童玉
クリスマス
星の光は昔の光
春立つ
離さない
草上の昼食
あとがき
神様
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神様
2011/02/17 18:50
魂が浮き上がるような不思議な読後感、川上弘美「神様」。
11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オクー - この投稿者のレビュー一覧を見る
かなり前、たぶんこの本が単行本で出た頃、評論家の小谷野敦が「理
性がまひする面白さ」とこの小説のことを誉めていた。ふ〜〜〜〜ん、
と思ったが、なぜか読めないままでいたのだが、文庫化された時に読ん
でみたら、ぶっ飛んだ。実はこの小説が僕にとっての初川上だった。
9つの短編。物語はくまにさそわれて散歩に出たり、梨畑で見つけた
変な生き物を部屋で飼ったり、死んだ叔父さんが遊びに来たり、河童に
恋の相談を受けたり、壺をこすると若い女が出てきたり、えび男くんと
焚き火を見たり、カナエさんが愛した物の怪?の話を聞いたり、エノモ
トさんが拾ってきた人魚に取り憑かれたり、またまたくまにさそわれて
散歩に出たり、そんなこんなの話だ。といっても綺譚集とか、そういう
類いの話ではない。くまも河童も壺の女も、ただただある感情、せつな
いとか寂しいとか愛しいとか、そういうことを表現するための大切な道
具だてなのだ。人間と散歩に行くよりくまと行った方がそこに醸し出さ
れる気分が違うからそうするわけだ。だから、これを読むと、なんだか
魂がふわ〜っと浮き上がっていくような不思議な読後感があるのだ。
文体もよく、これ誰かの何かを読んだ時に感じたのと同じだ、としば
らく考えて浮かんだのが高野文子の漫画だった。高野さんもすごい人だ
が、川上弘美も何だかすごい。初川上で思い知らされた私なのでした。
ブログ「声が聞こえたら、きっと探しに行くから」より
神様
2009/03/15 17:38
『神様』 のおかげか、今日も悪くない一日、でした
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐々木 なおこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
読書の大波小波があるとすれば、
間違いなく、昨日から大波『神様』状態です。
川上弘美さんの生まれて初めて活字になった小説。
「くまにさそわれて散歩に出る。」
この一文から始まります。
幾度となく手にして、幾度となく読んでいるこの一冊。
今回の大波は、はたして何回目でしょうか?
初めて読んだときの気持ちが忘れられません。
ほんの数ページの小説なのですが、これほど引き込まれた小説はかつてないのです。
この思いのたけを伝えようにも、
どこがどれだけいいと伝えようにも、
言葉にすればするほど、その思いが遠くなるといういうか、なんと言うか、おろおろ泣き出してしまうかもしれないほど、私にとってはたまらない小説です。
大波の今は、しばらくこの一冊を鞄に入れて持ち歩きます。『神様』のおかげか、今日も悪くない一日、でした。
神様
2008/03/19 15:11
コミュニケーションを、ちゃんと、ふかく、考える
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
高校の「国語」教材とも成っている「神様」は、「美神(ミューズ)」とまで讃えられた川上弘美のデビュー作だが、いわゆる(作者の)意図や主題のような「解」を求める読み方にはおよそ不向きな小説である。しかしそれは「神様」の評価を貶めるものでは全くなく、むしろその短さとそれゆえの凝縮度と相まって、「現代文学」としての魅力に他ならない。こうした「神様」のポジティヴな諸々は、端的にその「文体」によって決定されている。それは、すでに述べたように意味に収斂していくのではなく、小説総体としても個々の細部としても、輪郭をあらわにすることなく曖昧な描法ながら、それでいて確かなリアリティをあっけらかんと達成していく、実に奥行きのある「文体」である。従ってこの「文体」が指し示すのは、何かしらの「解」とは対極にある、「問い」である。
「神様」における「問い」とは、もちろんコミュニケーションに関わるものである。ただしそれは、このくまと人との交流や抱擁を、単に異類同士のコミュニケーションとみなすだけでは、「文体」の奥行きをとりこぼしてしまう。そもそも、主人公格の「わたし」は性別未詳のままであるし、くまにしても、優しいのか凶暴なのか、実際の所はよくわからない暗部を抱えたままストーリーは続いていく。しかも、一見親和的な二人の「散歩」は、それでいて「わたし」はくまを確かに異類とみているし、くまも自らの名を明かすことなく、心の底からほぼのぼとした心の交流が描かれているわけでは全くなく、事態はむしろ逆である。一見、穏やかに楽しい「散歩」が展開されていくのだが、それを氷山の一角だと思わせる「奥行き」が、「神様」の「文体」にはあるのだ。そうした「文体」が差し出す「問い」とは、端的に、「コミュニケーションとは、他者とコミュニケイトするとは、そもそもどのようなことなのか?」といったものである。そうした「問い」を浮上させるのが、独自の「文体」で描き出されていく、「わたし」とくまの関係の諸相であり、それは「文体」ゆえの多面性を保持しながら、それでいて、ごくごくシンプルな1つのストーリーに収められている。まさに「美神」の仕事といえるだろう。ライト・ノベルズがひたすらに長く(薄く)なっていく現代を思うにつけ、この短編の秀逸さは顕著である。