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チッソは私であった
著者 緒方正人
水俣病患者認定運動の最前線で闘った緒方は、なぜ、認定申請を取り下げ、加害者を赦したのか? 水俣病を「文明の罪」として背負い直した先に浮かび上がる真の救済を描いた伝説的名著。
チッソは私であった
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チッソは私であった 水俣病の思想
2021/03/23 17:03
どうにもできない現実に対し
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:かわも - この投稿者のレビュー一覧を見る
憎むべき対象がいれば、殴ったり罵ったりすれば済む。しかし、『それじゃすまんところに実は大事なものがあって、生きるということの意味をつくづく考えさせられたわけです。』(同P80)という言葉には計り知れない歯がゆさを感じざるを得ない。
「チッソは私である」とは、水俣病の直接的な加害者はチッソであるわけですが、被害を招いたのは近代化を喜ぶ自分であり、都会のような暮らしがしたいと思ったいた自分であったということ。だからと言って文明を一切拒否して生きることはできない。他の生き物のいのちを奪うことで生きている自分たち人間の罪を自覚しながら生ききることが大切だと緒方氏はいう。しかし、現代社会はそのような負の部分には蓋をし、見えないように覆い隠している。
「生ききる」とは「死にきる」ことでもある。生そのものが今まさに問われている。現代のあらゆる場面にある閉塞感は「生きる」ことを考えざるを得ないということの示唆ではあるまいか。生命そのものが問うているのだ。
戦争や貧困・格差などあらゆる問題の根本原因も同じ。生きることを考えない/考えられなくなっていることが問題なのだと深く考えさせられます。