凡宰伝
著者 佐野真一 (著)
真空総理、冷めたピザと揶揄された小渕恵三は本当に無能だったのか。政治生命を失いかねぬ日の丸、君が代問題に手をつけ、通信傍受法=盗聴法を通し、サミットの沖縄開催に踏み切り世...
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商品説明
真空総理、冷めたピザと揶揄された小渕恵三は本当に無能だったのか。政治生命を失いかねぬ日の丸、君が代問題に手をつけ、通信傍受法=盗聴法を通し、サミットの沖縄開催に踏み切り世間の度肝を抜く。「庶民派」を自任し、小市民的側面を臆面なくさらす半面、権力闘争をしたたかに渡り歩く、余人をもってかえがたい不思議なパーソナリティは緻密な演出なのか、それとも……。突然の病に倒れた凡人宰相の実像をあますところなく描いた傑作ノンフィクション。
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おてんと様と、小渕恵三。
2005/11/11 23:31
13人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
文藝春秋12月号(2005年)が出ております。
その特集「消える日本語」が楽しかった。
ついつい26名の短文を読んじゃいました。
そこの出久根達郎氏は「おてんと様」という題。
こうはじまります。
島根県松江のラフカディオ・ハーンは、朝陽がのぼる頃に、
あちこちから拍手(かしわで)を打つ音がするのを聞くのでした。
「明治23年のことであった。『お天道(てんと)様』信仰は、この頃、松江だけでなく、全国で当り前に行なわれていたと思われる。一日の、最初の挨拶みたいなものだったろう。太陽に今日の無事を祈って、それぞれの稼業を始めるのであった」。
茨城県から上京した出久根さんは
「東京に住んだのは昭和34年だが、その当時、毎朝、陽を拝む人は、まだ見られた。老人が多かった。江戸のなごりをとどめる下町だったからか。拍手を鳴らす人はなく、静かに拝礼していた」
そして、年表を調べ、
昭和37年に『スモッグ』が流行語となり、この年の12月は、14日間も東京の空はスモッグにおおわれた。と確認した出久根さんは「おてんと様という言葉が、遣われなくなったのは、この頃からではあるまいか」としております。
印象深い箇所は上京する出久根さんに母親が
「『おてんと様に顔向けできないような真似だけは、しないでおくれ』と言った。おてんと様は何事もお見通しだからね、とも言った」
とあります。
それで思い出したのが、
今回紹介の本でした。
こういう箇所です。
「小渕さんはとにかく早起きなんです。六時くらいには起きてましたね。そして必ず太陽に向かって拝んでました。・・小渕は海外に行くといまでも、太陽を拝んでいる。太陽が出る東の方角がわからないときには四方八方に向かい拍手を打つ。」
そして
インタビューに答える小渕首相の言葉が続きます。
「太陽は親父が拝んでいたのを、見よう見まねで子どもの頃はじめた。自分の運命を考えてみても、天地宇宙、人知の及ばざることは多いと思う。べつに総理大臣になったから偉いなんて、おれは全然思ってないんだ。・・ただこれだけの重責を負った以上は果さなければならない。これまでを振り返ってもずいぶん転機があった。それは自分でこしらえたものじゃない。そう思って、毎日、太陽に向かって手を合わせるという素朴な気持ちなんだ。・・・」
なぜ、
小渕恵三氏のこの本が思い浮かんだのかなあ。
と思ったわけです。そういえば、 つい最近、
曽野綾子著「『受ける』より『与える』ほうが幸いである」(大和書房)
という本がでておりました。
最初の方をめくると2000年10月号の雑誌に掲載されたことのある
教育改革国民会議「第一分科会報告」が、あらためて掲載されております。
題して「学校で道徳を教えるのにためらう必要があろうか・・日本人へ」。
ちなみにこの教育改革国民会議を開催したのは小渕首相でした。
中央公論2000年3月号に「司馬さんに教わったこと」と題して、
司馬遼太郎の奥さん福田みどりさんと対談をしておりました。
そこでの小渕恵三氏の言葉。
「僕はいま、教育改革国民会議というのを開こうとしているんですよ。いままでのこういう会議では、政府が人を選んで、その人たちに案を出してもらっていました。僕は逆に、『野に遺賢なからしむべし』で、いろいろな百五十人余の人に手紙を出して意見を求め、そのうえで会議を進めようと思っている。しかし、最後にお願いしたい人となると、司馬さんなんだ。しかし、いらっしゃらない。」
あとは、よくご存じのように小渕首相は2000年4月2日緊急入院。
そして5月14日に亡くなっておられます。