紙の本
毅然たる入門書
2002/04/15 20:44
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
かつて『存在と時間』を読んで、そこに出てくる「根本感情」や「不安」や「良心の声」等々のハイデガー語が煩わしくて仕方なかった。いっそ「X」や「φ」や「#」といった記号で表現してもらえればすっきりするだろうと思った。この書物は何か名状しがたい根源的なものを立ち上げ読者すなわち私を揺り動かす不気味な力を漲らせているのだが、それがどこから来てどこへ導こうとするのか皆目見当がつかなかったのだ。
古東哲明氏は『ハイデガー=存在神秘の哲学』で、『存在と時間』に出てくる「世界」や「実存」や「死」や「歴史」といったキータームは「形式的指標」であって、直接それを規定したり定義できる概念ではないと指摘している。そう聞くと何となく腑に落ちるところがある。これは誤解かもしれないが、たとえていえば料理のレシピ、あるいはゲームのルール書か裏技暴露本のようなもので、要所要所で参照すれば確実にある行為(もしくは実存変容)を遂行できる手引書として『存在と時間』を読むことができるということだ。
このことと関係するのかしないのか私には判然としないのだが、細川氏は本書で、ハイデガーの「存在」テーゼ(存在は「存在者がそのつどすでにそれへ向けて理解されているそれ(woraufhin)である」)に出てくる Woraufhin という言葉に注目している。
《Woraufhin という語は英訳では(略)「それを基礎とするそれ」と訳されている。そして日本語でも「基盤」などの訳が一般的に使われている。しかしこれは基本的な誤訳・誤解である。Woraufhin という言葉は、auf...hin という前置詞句と関係詞 wo からつくられ、Woraufhin という語は、auf eywas hin の etwas を指す。auf...hin は「……へ向けて」という方向を原義としており、評価や行為を導く視点を言い表す。》(64頁)
細川氏は本書で一貫して Woraufhin を「それへ向けてのそれ」と理解し、これを『存在と時間』における最も基本的で重要な術語の一つであると指摘している。そして Woraufhin からプラトンのイデア論へ、そしてアリストテレス存在論の核心的なテーゼ「存在者は多様に語られる、しかし一へ向けて(プロス・ヘン)」に出てくるプロス・ヘン(一へ向けて)へと遡及していくのである。
本書の魅力は「はじめに」で予告されている三つのプログラム──すなわち『存在の時間』をプラトンとアリストテレスの存在への問いを新たに立てる試みとして解釈すること、ウィトゲンシュタインとハイデガーとの出会いに形而上学の視点から光をあてること、そしてハイデガーが哲学者としてナチズムのうちに見たものを神の死と形而上学から考察すること──が相互の有機的連関のもとに整然と叙述され、さらに「ハイデガーを通して」そして「ハイデガーに抗して」のハイデガーからの解放への道(たとえばアリストテレス『デ・アニマ』の思想史への着目や新たなニーチェ像の提示の可能性)が展望されることにある。つまり、自らが不要とされる領域まで読者を案内する潔さにある。
そして本書の真骨頂は、ハイデガーはドイツ語での表現を大切に考える哲学者だから『存在と時間』を翻訳で読んでわかった気にならないでぜひドイツ語で読んでほしいと読者に要請し、子供が知らない漢字を読み飛ばして平仮名だけを読むような読み方や「おとぎ話(作り話)」による理解を峻拒する著者の態度にある。その意味で、本書は毅然たる入門書なのである。
投稿元:
レビューを見る
僕の学生時代、中央公論社から「世界の名著」シリーズが出て、今年5月に逝去された、辻村公一先生が、ハイデガー(Martin Heidegger)のそれまでは通常「存在と時間」と和訳されていた「Sein und Zeit」を「有と時」(うととき)という刺激的なタイトルで訳されて、僕も古本屋で買った。結局正直難しくて読み終えられなかった。大学一年先輩のYさんが確か、卒論を書かれたと思う。息子が大学へ入った時にプレゼントした。今、アマゾンでみると結構プレミアムがついている。(笑)
そこで、死ぬまでに読めなかったトラウマ解消のためにも、少しチャレンジしてみるべく、入門書から読むことにした。「ハイデガー入門はそれが必要とされなくなることをめざしている。」と著者がおっしゃる通り、僕にとって、正直、素晴らしくよくできた入門書であった。ハイデガー哲学は実存哲学でない。「存在への問いを新たに立てること」だということから始まって、プラトンとアリストテレスの存在への問いを取り返すことだという。キーワードWoraufhin「それへ向けてのそれ」、「存在者ー存在ー存在の意味=時間」から「形而上学の二重性」を神を「範例的存在者」とする解決策、ニーチェ、ウィトゲンシュタインとの関わりなど興味深く、哲学への思いがますます強くなった。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
二〇世紀哲学における最大の巨人ハイデガー。
半世紀以上にわたり、彼の思想があらゆる知の領域に及ぼしてきた圧倒的な影響はいうまでもない。
大いなる成功と絶望的な無理解の断層に屹立する今世紀最も重要な哲学書『存在と時間』。
その本当の狙いとは何か?本書は、難解といわれるハイデガーの思考の核心を読み解き、プラトン、アリストテレス以来西洋哲学が探究しつづけた「存在への問い」に迫るとともに、彼が哲学者としてナチズムのなかに見たものの深層に光をあてる。
ハイデガー哲学の魅力の源泉を理解するための一冊。
[ 目次 ]
序章 『存在と時間』とは何か
第1章 存在への問い
第2章 存在の意味への問い
第3章 現象学
第4章 現存在の分析論
第5章 形而上学
第6章 ナチズム
終章 展望
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
ハイデガー哲学への本格的入門書。実存哲学や現代思想、あるいは禅仏教などの枠組みを持ち込んでハイデガーを理解したつもりになることを、著者は厳しく退け、ハイデガーをハイデガー自身から理解することへと読者をいざなう。硬派で良質の入門書。
著者は、「それへ向けてのそれ」(Woraufhin)というハイデガーの言葉が果たす役割に注目することで、『存在と時間』の内容を捉え返している。
ソクラテスは美のイデアを、「それへと目を向けながら、あるものが美しい、美しくないと、私が語るそれ」と捉えていた。要するに、美という視点を設定して、そこから存在者を理解するということだ。著者は、ハイデガーの「存在への問い」にも、これと同様の問題構成が見られるという。すなわち、「そこから存在が存在として理解される企投のWoraufhin」をハイデガーは問うているのであり、その答えを、時間に見いだしたのである。時間が「存在理解一般の可能な地平」だというのは、こうした事態を意味している。
以上のようなハイデガーの問題設定は、プラトン、アリストテレス依頼の形而上学の問いの反復になっている。アリストテレスは、「存在者は多様に語られる、しかし一なるものへ向けて」と述べた。ハイデガーはこの「一なるもの」が時間に他ならないと考えた。またプラトンは、洞窟の比喩の中で、イデアに光を与える太陽に善のイデアを比していた。ハイデガーはこの関係を、「存在の理解に対して根源的に光を与えるものは善のイデアである」と言い表わす。そして、彼はプラトンのこうした問題構成を引き継ぎながら、永遠普遍のイデアに代えて「存在は時間から理解される」と述べる。著者はここに、ハイデガーのプラトンに対する批判的対決を見ようとしている。
投稿元:
レビューを見る
ハイデッガーの事を勉強しようと思って初めて読んだ本が難しすぎて、2冊目に読んだ本です。
この本は文庫だけあってものすごく読みやすかったです。
ハイデッガーの主張を筆者の言葉で言い換えてあり、理解が比較的容易に出来ました。
しかし、わかりやすさ故の物足りなさを感じる面もありました。
例えば原典の引用が全体的に少なかったような印象があります。
やはり原典に基づいているという確信が持てなかったので物足りなさがありました。
また、この本では時間と存在については結構詳しく分かりやすく触れられているけれど、詩作・思索についてなどはあまり触れていないのかなーと感じました。
この本はハイデッガーの主張を彼の生涯を絡めて考えているのですが、私はこういう視点も面白いと思うけれど、もうちょっと著作に踏み込んだ内容のほうが好きかなーという印象です。
でも、あらゆる視点からハイデッガーの思想を考えるのは有意義だと思うんので、読んでよかったと思っています。
投稿元:
レビューを見る
7/30の読書会で使用。
この本が新しい所は、ハイデガーは実存主義の親玉じゃない、と言い切って解説を進める所。(いっぽう竹田せいじさんは実存主義よりな解釈)
でも実存主義じゃないことの証明になるはずなのは、肝心のテンポラリテートの論展開で、それは完成されずじまい。不満が残るというか何というか。
やっぱり、これまでの哲学を総まとめしようとした偉大な挫折っていう意味でも、最後の哲学者っていうイメージがある。
投稿元:
レビューを見る
基本的にあんまり著者は好きになれないと感じた。著者が主張したいことはわかるのだが、読者にとってあまりにも上から目線過ぎることと、自己心酔みたいなのを表に出しすぎている。それとも、哲学者とはこういう人ばかりなのだろうか?だが、この人は、「解釈」や「理解」が目的のような書き方をしているし、それは大したことがないと感じさせられる。基本的に、自分なりに疑問を抱いていることがあり、それに答えてくれる哲学者を探し、そこからある程度の価値基準を経たら、その哲学者の価値観を基軸としてこれまで問われてきた哲学的命題や他の哲学者を把握して生き、最終的に「自分なりの哲学観」を築くことが目的なのであって、解釈や理解はそのための道筋に過ぎない。このことを、著者はハイデガーの言葉を引用して、「私の著作は作品ではなくて道筋だ」と言わせているのに、そのことを自分ではごっちゃにしているような印象を受けた。理解する悦びは確かにあろう。しかし、理解する悦びはやはり通過点だ。解釈が間違うことは危険ではあろう、しかし、大事なのは違わず解釈することよりは自らの哲学を構築することにこそあるはずだ。どうにも哲学者を理解して有頂天になっている哲学学者を見るとこうして攻撃的にならざるをえないところがある。いえ、この人の論文を読んだわけでもないし、自分自身は素人なのだけれど、こういった風に解釈されかねない文章を著者が書いたのもまた事実であるので。
とはいえ、ハイデガーは基本的には古典プラトン―アリストテレスを基軸としているようだ。正確に言えば、現象学によって解釈されたプラトン―アリスとテレスらしい。もう少し言えば、プラトンからアリストテレスは発展していると彼は捉えているようで、言うなればアリストテレスである。ハイデガーの真骨頂はこの言葉に集約される。「存在は現在から理解される」。存在とは、存在者を超えた意味を持つものである。存在者―存在―存在の意味、というこの構図が終生、ハイデッガーの三基軸となっていたようだ。また著者はハイデガー理解の際に、「真理の三基軸」なるものを構築している。これは彼のナチズム系統の際の、「ヘルダーリン―ハイデガー―ヒトラー」の内的真理とも符合している。著者はハイデガーを政治学に関しては未熟な子供と述べることで、ハイデガーの哲学を守ろうとしている。これは逆に言えば、哲学というものを実践的に用いようとした時点でその本質が失われることを明確に現しているように思われる。哲学は所詮は思索である。しかし、それは根本的な究極の思索である。しかしそれでいて普遍的な日常的思索でもある。だが、思索なのである。なので哲学を実用的に改変すれば思想になるし、思想を更に実利的にすればそれは実用書になるだろう。そのようなものにはもはや哲学のエッセンスは枯渇しているだろうし、そこに哲学を見出すのはどうなのだろうか?とは思われる。ハイデガーはそれを身をもって証明してくれたとも言えるだろう。さて、話は戻るが、存在は現在から理解されるというのは、これはつまり現存在という言葉が導かれることとなる。逆に言えば、存在を理解しようとすればそこには時間が必ず必要で、絶えず現在からになる。存在は現在に従属している。しかし、存在は存在者を超えるものである。このあたりのニュアンスがかなり難しいのではないか?捉え切れられている自信はまるでない。ハイデガーはある種この形而上学とでも呼べるもの=存在に迫ろうとするときに、それへ向かうそれ、といったある種の志向性のような概念を提唱している。むしろ、志向性としか捉えきれないのではないか?そして、この志向性が向かうのは<一>である。<一>は現在である。これはアリストテレスの存在は多様に理解されるへのある種の回答とも言えるだろうし、アンチテーゼとも言えるのかもしれない。また、存在者―存在―存在の意味は、プラトンのイデア観に近しいだろう。美しいもの―美―美の意味は?といった構図がつくられる。更に著者はヴィトゲンシュタインとの関係性にも切りこむ。存在に対しては、である、と、がある、がある。ヴィトゲンシュタインは、がある、は神でありそれは論理では証明できない語りえないものとした。しかし、である、は論理で証明できるものとしてそれを語ろうとした。前者が倫理であり、後者が論理であるが、どちらも超越的である。だが、前者が超越的ならば後者は超越論的とも言える。よって、ヴィトゲンシュタインは明確に形而上学を想定しているとも言えるのであり、両者の親和性の高さが見え隠れする。存在と時間辞退は結局のところは未完で終わり、ハイデガーがどこまでたどり着けたのかは実際のところは想像の息を出はしないのだろう。彼はある種の志向性を発見し、それによって存在へと迫ろうとした。その際に用いたのは現在である。また、彼が言う現存在は人間のことであり、存在者の一部である。このことは現代物理学とも相応している。マクロな観測者によってのみ時間が認識される、という相対正論と量子力学である。全ては光だけである。この光は、プラトンのイデアの光、善の光、などといったものと照合されうるだろう。ハイデガーの哲学はこのような観点である種の相対性を獲得しているのではないか?現存在という観測者によって捉えられうる存在。ここからどこまでハイデガーが迫ることができたのかは正直わからない。ただ、存在への不安から始まり、時間によって存在を理解しようとした彼はかなり時代を先読みしていたとも言える。個人的にはヴィトゲンシュタインの方が魅力的なのだが、もう少しハイデガーについても知りたいと感じた。
投稿元:
レビューを見る
この本が入門書として良書かどうかはこの後実際に「存在と時間」を読む段になって明らかになると思う。なので今は星三つ。
不満な点を挙げるとすれば、一部の術語(「時熟」、「脱自的」など)が最後まで意味を説明されずに使われていることか。入門書の読者としては、国語辞典に載っていないような術語については一言説明が欲しかった。
投稿元:
レビューを見る
正直自分の頭ではこの本は入門ではなかった。難解。ハイデガー入門といいながらも、ニーチェやプラトン、アリストテレス、ヴィトゲンシュタインなどの思想も説明してくれている。しかし難解ww
ハイデガーを実存哲学ととらえつつも、アリストテレスから続く西洋哲学の歴史の流れの中でハイデガーの「存在と時間」について説明している。
存在とはなにかを考えさせられた。
「美」と「美しいもの」は「存在」と「存在者」の存在であり、存在は存在者を規定するものであるし存在者はそれにむけて理解するテーゼであるという理論は納得できた。
うん、全体的に難しかった
投稿元:
レビューを見る
ハイデガー入門というよりも、
著作である「存在と時間」がいかに難しいか、
ということを知るための入門という気がする。
ところどころ成程と思う所もあるが、
なかなかわかるところまで結び付かない。
「存在と時間」を読んでリトライかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
数学や物理学などは、ある一定の高みまで行かなければ、数学する、または物理学する喜びは得られない。本書は哲学に関して、ハイデガーを通し、哲学する喜びを味わう「入り口」まで引き上げてくれる良書だ。
ただし、ハイデガーという名前を聞いた程度、その主著『存在と時間』のあらましすら分からない、という読者向きではない。
ナチスのあたりは、なぜ?が拭えなかったが、西洋哲学史上繰り返し問われてきた内容についての指摘は、全般に驚きを持って読み進めた。
投稿元:
レビューを見る
本書の目的は、「ハイデガー哲学が動いている問題地平を明らかにすること」だとされる。そのため、ハイデガー哲学はいわゆる実存哲学ではなく、プラトン・アリストテレスによる存在への問いを改めて立てる西洋哲学の嫡子であることを導きの糸として、ハイデガーの思考がどのような問題に関わっているのかが詳細に論じられる。主たる分析対象は『存在と時間』であるが、その論点を逐一検討していくのではなく、ハイデガーがプラトン・アリストテレスの哲学をどのように解釈し、そこから何を得たのか、同時代のウィトゲンシュタインの哲学と実は形而上学の次元において交錯していることなどが主張される。「入門」と題され、しかもハイデガー哲学への導入の役目を果たせば「入門」は不要だと言い切る本書であるが、哲学史上の様々な問題群と関わるハイデガー哲学をいかなる視座のもと理解するべきかについて、極めて明快な解答を与えているように思われる。
投稿元:
レビューを見る
20世紀に活躍した哲学者ハイデガーの主著『存在と時間』を中心に、本入門書の著者の言葉通り、「ハイデガー哲学が動いている問題地平を明らかにすることを目的にしている」本になっています。原語でハイデガーを読む人のための入門書という位置づけのため、本書では、中身の解釈にまでは立ちいっていません。「哲学」というもの自体、頭を使うもので、難しくて、なかなかとっつきにくいものだったりしますが、そんな「哲学」のなかでも、ハイデガー哲学はとりわけ難解な部類に位置付けられる「哲学」だそうです。なので、本書自体も難しいです。『存在と時間』にあたるための外堀を埋めていくにしても、古代ギリシャ哲学者である、プラトンやアリストテレスから始めなければわからない。『存在と時間』は、古代ギリシャからの存在論を甦らせるというか、より一歩進めたような哲学のようだと僕は思いましたが、『存在と時間』を読んでいないし、たぶん読まないので、そこはわからないですね。ただ、存在の意味への問いが、形而上学的(神学を含んでいる学問)にいえば、それが「神」が答えになるところで、ハイデガーは「時間」を答えだとしてました。さらに、ハイデガーは存在の意味においては、神がそこに立ち上ってくることを嫌い(?)、存在の真理を問うというかたちで回避していこうとしていくようなんですが、もうね、なかなか、読み終わってしばらくたつと、脳内から湯気のように蒸発していくような、頭に定着しずらい難解な抽象的思考で構築されていました。
投稿元:
レビューを見る
自分が何を知らないか、何を読むべきかがわかった。本書の内容は5章以降からなんとなく理解できる部分が増えたものの、それ以前はやはりアリストテレスやプラトンを、彼らの言葉を知らないので致命的にわからなかった。