紙の本
日本人として生まれた者が人として生きるとはどういうことか、身にしみて考えるために。
2010/07/25 16:25
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分の身ひとつを通じて、自らの意思によって、自分の身ひとつに身につけたものこそ、本当に生きるために必要なものである。それこそが本当の学問であり、職人の手技であり、コメ作りに代表される農業である。そして、これを可能とするのはただひとつ、著者のいう「独学の精神」のみだ。
著者は最初の二章で、二宮尊徳、本居宣長、僧契沖、伊藤人斎、中江藤樹、内村鑑三などを引き合いに出し、論理や理屈をもてあそぶ「からごころ」ではなく、人間として必要なものは二宮尊徳のいう「中庸」の道であり、本居宣長のいう「まごころ」あるいは「やまとごころ」であることについて考える。
この最初の二章は引用が多く読みにくいかもしれないが、腰を据えてじっくりと。これら古人のいうところを味わってみたいものである。
つづく第3章で、昔ながらの職人の手技を重んじる大工の手仕事、第4章で宮崎安貞に代表される、コメ作りを代表とする日本の農業のもつ意味について考える。この二章は、経験のもつ意味について考える文章であり、比較的読みやすいはずだ。
しかし思うに、著者の説くことを実践するためには、「学校という近代制度」ほど馴染まないものもあるまい。可能であるとすれば、第1章と第2章に登場する古人たちのように「私塾」という形で、あるいは「職人として」師と弟子の関係になるしか方法はないのだろう。自分が生きるために必要なものを、真似び、盗み、そして生きた手本にしたがって繰り返し、繰り返し鍛錬するよりほかに方法はない。芭蕉のいうように、「古人の求めたる所を求める」ことを通じて独学するのみである。
著者の説くところをさらに敷衍(ふえん)すれば、私見だが、現代人であるわれわれに可能な方法は、コメを中心とした和食を、日々の料理として作って食べることではないかと思っている。料理もまた素材から味を引き出すための手技であるから。
本書にあと一章欲しかったとすれば、それは著者が鍛錬してきたという新陰流剣術などの武術についてだ。本書ではまったく語られていないが、著者が本書に述べた見解を持つように至ったのは、剣術の鍛錬が基礎にあるからだろう。武術の鍛錬もまた、日本人の「独学の精神」を作り上げてきたものだ。著者は言外にそう語っているのだと私は思う。無駄をそぎ落とした、まさに抑制の美学である。
新書本にはあるまじき内容の濃い一冊である。現代という時代に疑問をもち、本来あるべき姿に一歩でも立ち戻るためには、どこから手をつけたらいいのか、模索している人にはぜひ手にとってみてほしい本である。
日本人として生まれた者が、人として生きるとはどういうことか、身にしみて考えるために。
紙の本
「エセ学問」を斬る凶暴なナイフ
2009/03/05 21:02
6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
ひとが自分の意志で「身ひとつで」まなぶ,それが学問のすがたであり,それを役にもたたない本を読む二宮金次郎が体現しているのだと著者はいう.著者もそういう独学の精神でまなんできたゆえに,この本にあらわれているような「独創性」があるということだろう.
しかし,独学にはやはり独断と偏見の危険があるようにおもえる.同意できない部分も多々あるし,論理的にはよわい.日本の学校教育のやりかたを否定し,会社や役所の仕事のやりかたを否定しているが,それは極論だとおもう.しかし,現代日本にはびこっている「エセ学問」を斬るにはこのくらい凶暴なナイフのほうがよいのかもしれない.
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第1章「身ひとつで学ぶ」
日本人なら誰もが知っている二宮金次郎の勤勉さを、現代の子供との比較対象に出すことの浅はかさから始まり、学校の勉強なんておもしろいと思うほうがおかしいとまで語る筆者。
昔の人から学ぶものの多さや大切さを、本書では書き綴っている。
すごく、古典が読みたくなった。
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『独学の精神』というから、福澤諭吉の独立自尊のような内容を思い描いていましたが、内容は全くの逆。「学問とは何か」を、巷の学者がいうようなことと真逆のことを述べている、というより、本来の学問の『本質』を痛烈なまでに切り込んだ本だと感じました。
そして、これまで僕が読んできた書物の中で、「肌身離さず持ち、擦り切れるまで何度も読み返す」くらいに信じられる書物は無いということに、痛感したのです。
明治以降の学問は、いわば『勝つため』の教育。科学的に発展した欧米列強諸国に負けじと、日本も対等になるための知識と教養を植えつけ「させる」ための制度。
しかし、ここでいう学問本来の『本質』は、身一つで如何に生きるか、誰か、何かを虐げたり優位に立つことではなく、共に生きるためにはどうしたらいいか、ということを教えていくためのもの。あるいは、手取り足取り記号化された内容を単に伝達することではなく、今あるもの、今ある技量で、自分は何が出来るか、絶えず変化する過酷な環境の中で、教えてくれる人がいない中で、『自分』という身を立てていくにはどうすればいいか。それこそが学問の『本質』であろう、ということを述べています。
今までの通ってきた道、読んできた書物を、ある意味真っ向から否定することにビックリした傍らで、「ああ、なるほどな」と思ったことも事実。様々なニーズで溢れ、それに対するビジネスが数多くあるも、あまりにも複雑化しすぎて負いきれなくなっている。それを補うために道具が発展し、またコンピュータが計算するようになったが、その分人間本来の『部分』が欠落してしまっている。
しかし、人間であるが以上、何かが充足するとあれもこれもといのは、古来から続く避けられない欲望です。これを避けて人間の本質を磨くのは、かなり至難の業のようにも思えます…
いずれにしても、学問の『本質』は何かを考えさせてくれる一冊です。
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ちくま新書は思想系だと改めて感じさせてくれる著書。
二宮尊徳が焚き木をしょいながら読んでいた本は、儒教の『大学』という著書とのこと。世俗に交えず、教本に没頭できた尊徳はあるいみでは幸せだったかもしれないという説明が印象に残っている。‘精神’という言葉が入っているように精神論になってきたので、途中で切り上げる。
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ほんとうに大事な事は何ひとつ教えることなどできない。
学ぶことは身ひとつで生きる自分が学ぶというあり方でしかない。
こうした単純で大切な事実について、その当たり前の事実が行き着く先について、根っこから考え抜く。
学問とは生きるために必要な事であり、それこそが大学で学ぶべき「教養」というものであると思う。
この三章で建築について少し焦点を当てているが、建築以外の人が語った方がその真理に近いと思う。
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古典は読まれることによってますます新たな古典になる。少なくとも繰り替えし読むに値するような本は、大工にとって木と同じである。
教育について二宮金次郎、内村鑑三らを例示して述べている。
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まえがき
第1章 身ひとつで学ぶ
第2章 身ひとつで生きる
第3章 手技に学ぶ
第4章 農を讃える
あとがき
(目次より)
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独学とはなんぞや、に明確な定義を与えている。
面白い。二宮尊徳、蘭学、朱子学、儒学。
基本的な史実から、独学のあり方を提示している。
必読。
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[ 内容 ]
漢字が読めない、歴史を知らない、計算ができない…大学生の「基礎学力」のなさが言われて久しい。
だが、「教育」に過剰なこの国の若者が「学力」を欠いているとは驚くべきことではないか。
なぜ私たちはかくも「無教養」になったのか。
本書は、現代の日本人が見失った「独学の精神」をめぐる思索である。
「ほんとうに大事なことは何ひとつ教えることなどできない」「学ぶことは身ひとつで生きる自分が学ぶというあり方でしかなされえない」―こうした単純で大切な事実について、その当たり前の事実が行き着く先について、根っこから考え抜く。
[ 目次 ]
第1章 身ひとつで学ぶ(金次郎の独立心;学校嫌いこそ正しい ほか)
第2章 身ひとつで生きる(葦のように考えよ;知らざるを知らずと為せ ほか)
第3章 手技に学ぶ(大工仕事は貴い;教える愚かさ ほか)
第4章 農を讃える(狩猟の悲しみ;農の喜び ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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教養ある人間になりたい、と思いました。
二宮尊徳がひたすら読んでいた「中庸」など、読んでみようかなと思いました。
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マニュアルに頼りすぎてるよな~と思う。
もっと頭を使って、試行錯誤して、自分にあわせた技を身につけ磨きをかけなきゃと思う。
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民芸品は芸術作品なのか、もやもやしていましたが、著者は明快に示してくれます。著者の価値観に共感できる人には、星5つ
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目次より
1身ひとつで学ぶ
2身ひとつで生きる
3手技に学ぶ
4農を讃える
教育、学校で教えることよりも、独学で自分から学ぶことの必要性をとく。二宮金次郎のことが語られている。「大学」を読む、繰り返し読むこと。過酷な環境の中でも学んだことはすばらしい。
後半の3章4章は身にしみた。考えるおろかさ。
職人技を教えない理由→勘は一人一人皆違う。道具、材料、自分にあった遊びなど、
勘の手技 教えられない、身一つの感覚を勘という。ごまかしの聞かない自分ひとりの技に尽きる。
vs
物に即した正確さ。
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建築、大工、農業がいかに学問とむすびついたものであるか著者自身の言葉で書いてあり説得力がある。しかし近代西洋の合理的考えをやたらと排斥しているのがいただけない。東洋と西洋の間をとるのがいいのだと思うが。