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電子書籍
「わからない」という方法
著者 橋本 治
「わからない」イコール「恥」だった20世紀は過ぎ去った! 小説から編み物の本、古典の現代語訳から劇作・演出まで、ありとあらゆるジャンルで活躍する著者が、「なぜあなたはそん...
「わからない」という方法
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「わからない」という方法 (集英社新書)
商品説明
「わからない」イコール「恥」だった20世紀は過ぎ去った! 小説から編み物の本、古典の現代語訳から劇作・演出まで、ありとあらゆるジャンルで活躍する著者が、「なぜあなたはそんなにもいろんなことに手をだすのか?」という問いに対し、ついに答えた、「だってわからないから」。――かくして志向のダイナモは超高速で回転を始める。「自分は、どう、わからないか」「わかる、とは、どういうことなのか」……。そしてここに、「わからない」をあえて方法にする、目のくらむような知的冒険クルーズの本が成立したのである! 【目次】まえがき/第一章 「わからない」は根性である/第二章 「わからない」という方法/第三章 なんにも知らないバカはこんなことをする/第四章 知性する身体
目次
- まえがき/第一章 「わからない」は根性である/第二章 「わからない」という方法/第三章 なんにも知らないバカはこんなことをする/第四章 知性する身体
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紙の本
「わからない」ことがある人へ贈りたい
2005/09/29 01:11
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けい - この投稿者のレビュー一覧を見る
頭のいい人を前にして、頭のよくない私は思う。どうしてこんなことを考えられるのだろう、考えようとしたのだろう……「わからない」と。
新書というのは中身がかたそうで、私にとってなじみの薄いもの。新書は書く人も読む人も、頭のいい人。そんなイメージがありました。いや、今でもあります。
友人に新書を借りて、これからはこういう本も読まないとなぁ、ちょっと物を考えるようにならないとマズイなぁとの思いで、本書を手に取りました。実を申せば、新書で読みやすそうであれば、なんでもよかったのです。タイトルの「わからない」に惹かれたのと、著者の橋本治さんのお名前ぐらいは知っていたから。そんなちょっとした興味でも、いい加減な動機でも、とにかく読んでみるものです。
本書は「わからない」から始めてみる著者のものの考え方を紹介したもの、とでも言ったらよいのでしょうか。こんな本です、とはなかなか言い切れない変な中身の本です。企画書のつくりかた、セーターの本を書いたわけ、古典文学に身体論、と切り口はさまざま。どんなことからでも考え、語ることのできることがすごいのだ、と感じさせられます。
怖いのは「わかろう」としないこと。「わからない」は「わかろう」とする偉大なる第一歩なのですね。
紙の本
楽しみを企む身体の使い方
2008/01/19 20:56
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
仕事でよく企画書を書く。
関係者の理解を得るためにフレームワークなるものを利用して
5W1Hなどを踏まえて順序立ててわかりやすく書いているつもりだ。
企画書は現実に対して効果を生むために書かれる。でもその前提は
「読む人の理解に耐えうるもの」で、企画書を「読む人」とはたいがい、
上司や取引先と言った金銭的な意思決定者で、「読む人」は「書く人」の
文章で現場を知る。つまり書く人より現場から遠く、わかっていない。
そして現実が生まれる現場に行くと愕然とする。
企画書ではほとんど何も語ることが出来ていないと焦る。
「わかりやすさを優先させた簡潔な文章」では何も説明できていない
ことが現場に行くと五感で感じてしまう。
「わからない」は身体に宿る、と橋本は言う。
身体はすぐにわかってくれない。木が育つようにサナギが羽化するように、
じっくりと時間を掛けて筋道立てて対象を身体に浸透させていかないと
理解に至ることはできない。身体がわかっていなければ、言葉にできるのは
わからないということだけだ。
『「わからない」という方法』は21世紀に入った直後、9.11以前に
書かれた文章だ。「わかる」ことの度合いを競い合った20世紀が終わり、
この本が書かれてすぐ、9.11を経て、わからないことだらけに
なってくる21世紀が本格的に始まってしまった。自爆テロも地球温暖化も
サブプライム問題も、自分に引き付けて「わかる」ようになるのはなかなか
難しい。そんなに身体は大きくないし、100mを5秒で走れたりはしない。
それでも、わかるに至る方法はあり得る。私たちには身体がある。
楽しみを企むなら、わからない身体と共に、言葉を相棒に、
考え続ければいいのだ。
紙の本
すごいっての
2001/06/12 01:48
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:BOSSA - この投稿者のレビュー一覧を見る
これはとてつもなく深いハナシだと思うの。そして、すごくベタな書き方で、コレに較べりゃ『ああでもなくこうでもなく』やら『二十世紀』やらの洗練されっぷりったらナイですね。
「努力」や「勉強」や「仕事」についての根本的な考察と実践がテンコ盛りでバンバン出てきます。こういう物の考え方と言い方こそが必要なんだと私は思います。薄い本ですが繰り返して読める内容です。
こういう話をするときの橋本治さんが誰に似ているかというと、ラッパーのKRS−ONEはではないでしょうか。
「I think very deeply」のフレーズは橋本さんに似合うと思いますね。
紙の本
わからない「から」やるんだってば。
2001/06/09 20:00
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
わからないからやらない、でも、わからないけどやらされる、でもなくわからない「から」やる。どこかを探せば正解が学べる20世紀が異常であり、壁にぶつかって挫折するのはあたりまえ、正解がないと嘆くのは他人まかせの不精者の所作である、と著者は喝破する。文章の隅々の例えに、笑い泣き頷き、次の瞬間読んでいる私の手と足が動く。もがいてて停滞しててどうにかしたい人すべてに読んでほしい一冊です。
紙の本
「知性する身体」
2004/12/19 17:11
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Helena - この投稿者のレビュー一覧を見る
■「知性する身体」
タイトルからは想像できないが、身体論の部分が面白い。
私だったら、「知性する身体」という書名で、この部分を前面に出して売り出すかも(^^)
「自分の身体は頭がいい」との名言を残したとして内田樹さんの本で紹介。この一冊を通読して、この部分に注目するのは納得。
「身体とは知性するものである。脳は、「わからない」という不快を排除するが、身体という鈍感な知性は、「わかんないもんはわかんないでしょうがいないじゃん」と、平気でこれを許容してしまう。であればこそ、身体は知性を可能にするのである。」[251]
■「学ぶ」とは「真似る」である
学ぶことは、その技術をノウハウ的に習得することではなくて、教師の生き方そのものを踏襲することである、という指摘を橋本がしていたことに驚かされる。なるほど。これって、師弟論だ。
内田=レヴィナス的な師弟論(他者論)、大田堯のカンとコツをまず思い出した。
そして、個性の立ち上がりについても。個性は、実体としてその子の内側に最初から存在しているのではなくて、他者のやり方を獲得した中から、そことどうしても合わないものとして、立ち上がるものなので。
こういった個性論、どの程度の支持を得ているのかしら?
■習熟について
橋本のセーター本には、初級と上級はあるが、中級は無いという。
「「中級」とは、初級から上級に至るまでの習熟の期間であって、そんなものは、当人が決めればいいのである。」[132]
納得。
理解してわかることと、習熟していることは違う。
「訓練」と批判して、習熟を批判する議論への違和感って、これかな?
というわけで、結構面白かった。
やっぱり、偉い人が言うことは同じかも。
ところで、bk1のすでに掲載されている書評を斜め読みしたが、身体に焦点を当てているものがない。
橋本氏も、「もしかしたら、この『「わからない」という方法』なる本は、『知性する身体』というタイトルで書かれるべきだったかもしれない。」[237]と書かれているのだから、身体論で書評するのは、的はずれでもないと思うのだけど(^^;)
皆さん、『「わからない」という方法』というタイトルにひきづられていませんか?
紙の本
確信犯、橋本治
2001/07/17 14:23
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:小田中直樹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
橋本治さんといえば、〈とめてくれるなおっかさん〉に〈春って曙よっ〉。この本では、そんな怪しい活動を繰広げてきた作家が、自分の仕事を振返りながら、独自の「方法論」(八ページ)を披露してくれる。ただの自慢話や回顧録じゃなくて、人生をより楽しく生きるための「方法論」を教えてくれる、お得な一冊だ。
まず、基本と応用にわけて、橋本さんの「方法論」をまとめておこう。第一、基本。二〇世紀は〈どこかに正解がある〉時代だった。だから、〈わからない〉ことは恥だったし、〈へんじゃない〉ことが大切だった。でも、自分にとっては〈へんじゃない〉ことでも、他人から見れば〈へん〉かもしれない。〈へんじゃない〉ことで安心してたら、〈ひっくり返す〉馬鹿力は出ない。〈へん〉でいいって思うと、わからなくてもいいって気になる。「自己批評」(五六ページ)したり、お互いに批判しあったりできるようになる。二一世紀は「自分の力」(二四ページ)の時代、つまり〈わからない〉と〈へん〉の時代なのだ。
第二、応用。「自分の力」をみつけるにはどうすればいいか。自分が何も知らないことを認めて許すこと。直感を信じ、体を使って情報をかき集めること。常識じゃなくて自分の経験を土台に据え、基礎を確実にマスターした上で、納得するまで考えること。こんな風に「身体と経験と友人」(二五一ページ)を活用すれば、わかる。そして、何かがわかれば、別のことがわからないことに気付く。ほら、もう一度やってみよう。これって、誰がどう見ても、一種の〈ハウツー本〉だ。しかも、〈人生いかに生くべきか〉についての、楽しいだけじゃなくて、とても優れた〈ハウツー本〉だ。
でも、そう思いながらふむふむと読んでくと、なんと橋本さんは「促成ノウハウ」(一〇〇ページ)は嫌いだって断言してるではないか。これはつまり〈ハウツー本〉も嫌いだってことだ。そりゃそうだろう。〈ハウツー本〉を買うのは、〈どこかに正解があるはずだから、それを暗記すればいいや〉っていう、「人の言う方法に頼る」(二二六ページ)人だけど、橋本さんによれば、これは二〇世紀のやり方で、これからは〈なし〉なんだから(ハウツー本を前世紀の遺物にせよってところか)。
でもでも、これで問題が片付いたわけじゃない。だって、橋本さんはなぜ自分が嫌いな〈ハウツー本〉を書いたのか、それとも、もしかしてこの本は〈ハウツー本〉じゃないのか、こんな疑問がふつふつと湧いてくる。僕の印象では、これはやっぱり〈ハウツー本〉だ。何の〈ハウツー〉かといえば、〈自分の頭で考える〉ための〈ハウツー〉だ。〈自分の頭で考える方法を教える〉のって、難しい。だって、〈教える〉っていうのは〈真似させる〉ことなんだから。そのことを橋本さんはよくわかってる。この本の「方法論」だって絶対じゃないけど、そのことをわかんない読者もいて、〈この本の通りにやってみよう〉って実行してしまいそうだ。だから、橋本さんは何度も〈イージーにやるな〉って繰返す。つまり、すべては確信犯の犯行なのだ。
「自分はどのようにわからないのだろうかと考えること」(一〇ページ)が大切だっていう橋本さんのメッセージは、僕には納得できるものだった。でも、疑問を二つ。第一、〈へん〉と〈へんじゃない〉の関係って、〈他人から見ればへんだけど、自分が見るとへんじゃない〉なのか、〈多数派になるのがへんじゃない人で、少数派がへんな人〉なのか、よくわからなかった。〈へんでいい〉っていうのはとても大切なことだから、ここのところをもう少し説明してほしかった。第二、すべては〈直感〉からはじまるけど、〈直感〉が弱い人はどうすればいいんだろうか。おっと、これは自分で考えることか。[小田中直樹]
紙の本
「わからない」がわかる。
2004/06/28 00:38
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鳥居くろーん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「旅は
本来、目的地に着いてから何をするかが重要なのではない。
目的地に着くまでにどういう過程を経るか、それが大事なのだ。」
と、誰かが言った。
もしあらゆる人間の人生に共通する確実な到着地点がひとつあるとすれば、それは死だろう。それが幸せなものであれ、不幸せなものであれ、誰しも死ぬために生きているとは思わないだろうから、それを目的地とは言いがたいのだけれども。
それでもやはり、人生を旅にたとえるのならば、それは目指すべき最終地点だと思う。
「死ぬまでにどういう過程を経るか。」
そして、こんな大げさな言い方をするまでもなく、誰もが幸せに生きたいと願いながら日々を送っている。
ただ、どうしたら幸せになれるか常に試行錯誤をしているかと問われれば、おそらく大半の人間は「否」だろう。「なんとなく」「妥当な範囲で」「失敗しないように」日々を過ごすくせに、「読んでためになる本」があると聞くと喜んで飛びついてそれで満足したりする。
しかし、どうごまかそうとしても
『「何でも解決してくれる万能の正解がある」と信じていた二十世紀』の幻想は消え去り、
『人はたんびたんびに「わからない」に直面して、その疑問を自分の頭で解いていくしかない』という現実は、いやおうなしに私たちを惑わせ、苦しめる。
目的地だと信じていたユートピアを見失い、最後にはどうあっても「わからない」から逃げおおせられないというのであれば。私たちはそんな現実世界をきちんと目的地まで歩きとおす体力と知恵を学びなおすしかない。もちろんそれが生半可な道でないことは、彼が教えてくれることと思うが……。
まっすぐの高速道路を時速八十キロでとばして目的地に向かうか、方位磁針だけをたよりに徒歩で行きつ戻りつ目的地に向かうか、どちらの旅がすぐれているかは、私の知るところではない。ただ、「わからない」に対する解法は、それがどんなものであれ、人それぞれにオリジナルのものでなければならない、ということは、結局彼が身をもって示してくれた唯一のことだったように思う。
だからこそ、この本に「正解」を求めることは、その行為自身が「不正解」なのだ。
紙の本
くどいほど説明いただいても「わからない」ままでした。
2012/04/22 11:10
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:のちもち - この投稿者のレビュー一覧を見る
「わからない」ということを出発点にして、努力と興味関心、直感、それらを総動員して「わかる」方向へ進む、その方法を示してくれている内容...だと思う。学校の勉強と異なり、一般社会で生きていくことには「正解」がない。そこにあるのは「正解」ではないかと思われる(信じることのできる)方向性、だけである。あたかも「正解」があるように錯覚させ、その(本当は存在しないはずの)正解への近道を教えるかのようなビジネスが存在していることを憂う...著者は「世紀」という歴史観において、現代に巣食う「現代病、大国病」を指摘しています。
橋本さんの本は、その本によって「色」が大きく異なり、同じ著者とは思えないほど。この本に限って言えば、正直なところ、「読みにくい。くどすぎる。何を言いたいのかわからない」という状態でした(あくまでも自分にとって、です。)。「わからない」を起点にしてそこから広げていく、という考え方は自分を高める意味でも貴重な考え方だと同意しますが、本書の中ではどんどん話が飛躍して拡散していってしまい、なかには「自分の能力」をひけらかしているだけ、という印象のパートもあったり、どうもひとつのテーマを深堀り、という観点が見られません、或いは自分には見つけられませんでした。著者の「思い入れ」または、著者ご自身のパーソナリティや強み、個性、ということは伝わってきましたが、そのために著作を起こす、という意義がどこに書いてあるのか、結果として示せているのかどうか、自分には読み取れませんでした。
ご自身の例を引いて、「編み物の本を出したこと」や「現代語版の枕草子を書いたこと」が紹介されていました。「わからない」ということを起点にする(できる)著者なればこその方法、手法でこれらの「実績」を積み上げてきた、という内容。当然にここでは著者の全てが紹介されてはいないだろう。「わからない」から出発して、「カタチあるモノ」をつくりあげる過程では「相当、相応の努力」をされているはずである。そこを隠すとは奥ゆかしい。
レビュアーの多くが言っているように「くどい」満載で、読者を選んでしまうだろうと思う。選ばれなかった自分としては、結構しんどかった...のが本音。
【ことば】オバサンは...自分がふだん当たり前にやっていることを、「神聖なこと」とも理解している。だから...わからないでいる人間が人間の頭の構造を理解しないで...押しつけてしまうのである。
「オバサン」という独特の表現での説明だけれども、ことはオバサンに限ったことではないだろう。相手の「構造を理解」することはパワーが必要、そして「理解」しようとすること自体にもパワー、視点を変えようとする度量が必要。でもそれがないとコミュニケーションには至らない。
紙の本
「わからないという方法」から「上司は思いつきでものを言う」へ
2004/09/04 15:47
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:つば子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
わからないは「恥」ではない。わからないを方法にする。どうやって?!
「わからないからやらない」ではぐずぐずしているだけで、何も始まらない。
人は常に壁にぶつかり続ける。
「わからない」を「方法」にして、その壁をぶち壊さなければならない。
では「わかる」とはどういうことなのか。
「納得すること」自分なりに納得できればいい。みたいだ。
わからないを力にして「わからないからやってみる」人間は成長していくのだな。
毎日毎日たくさんの情報が、目の前を素通りしていく。わからないこともわからなくなっている私には、耳が痛い。
笑ってしまったのは、
上司というものは「下から送られて来るものは、すべて自分に理解できるものである(はずである)」と信じ込むようになる。つまり、この人たちの頭の中に
「わからないこと」は存在しない。 という所
自分が全くわかっていないのに、お前の説明がヘタ、悪いからと言わんばかりの人、居る居る。上司とはそういうものなのか。
最近話題の「上司は思いつきでものを言う」は、
ここから展開していったのだろうか。読んでみたい。
紙の本
「わかりやすい」「生真面目な」本
2002/01/23 18:25
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:chita - この投稿者のレビュー一覧を見る
「わかる」とは納得することとあるから、「わからない」とは納得しないこと、そうすると「わからない」という方法というのは、わかったと思っても敢えて納得しないということになる。本書にも「正解」を求めてはいけないと書いてあるし、確かに物事を突き詰めるという意味ではそういう姿勢が大切である。
一番印象に残ったのはメイキング・オブ・セーター本の所にあった、おばさんの論理としての「わかりやすさ」の押し付けと「生真面目さ」のおしつけという箇所である。
本の内容とは直接関係ないが、よく講演会にいる典型的なおばさんの二大特徴的行為(個人的主観)として
1.講演者の話に頷きながら聞く
2.メモを取る
が挙げられると思うが、どうもこれらの行為は他の人に向けられているような気がしてならないのだが、
1.講演者の話に頷きながら聞く
講演者の話が「わかりやすい(もしくはわかっている)」ことを他の人に見せびらかすという行為
2.メモを取る
自分の「生真面目さ」を他の人に見せびらかすという行為
ということか。
本の内容に戻って、仕事への取組方法としては、天を行く方法(エコール・ド・パリのドラマ作成)と地を這う方法(桃尻語訳枕草子)があると述べられているが、これはいわゆるトップダウンとボトムアップの発想法の違いだと思うし、作家としてのアイディアの発想法として経験主義で様々なものを見聞し、一度「忘れる」のが良いという箇所があるが、入力した情報をカレーと同じく熟成(新たな情報を既存の情報と脳の中で融合する)して、アイディアとして出力するというのは発想法の基本であって、決して忘れているわけではない。
読み終わってみると、「わかりやすい」「生真面目な」本であった。
紙の本
「わからん」ものを十把一絡げにして論じる
2001/09/04 15:27
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:トラン童子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
たしかに「ヘン」な本だ。まったく「ヘン」な本だ。と思ったとたん、読者は橋本ワールドにまきこまれて「わからない」嵐のまっただ中を右往左往することになる。だいたい「わからない」対象物(わかりたいもの)は無数にあるのだ。チーズの料理法、セーターの編み方、筋の通らない企画書、相手の心理、抽象絵画、雑多なレベルの「わからん」ものを十把一絡げにして論じていいものか? 論じているのだ。「わからない」というただ一点で同じであるから、物事にはこだわっていられないのである。論じ方も、軽やかに「たとえばセーターの編み方でいえばねえ」という調子ではじめは春風ムードだ。作者は頭がきれるにちがいない。わからないなんてはっきりいえる人間だもの。にぶい頭の持ち主ならにぶいわが身をごまかそうとして、わかるフリをする。「いい度胸だ、根性だ」とわからない自分の立場を明快にする。度胸と根性なら頭の善し悪しはカンケイないから共有できる。とみせかけて春風は次第に嵐となる。どんな嵐かまきこまれてみようか。
作者によれば「わからない」を方法にするためにはまず条件があって、自分が「ヘン」である側に立つことであるらしい。この「ヘン」というコトバの意味、状況をめぐって、彼は懸命に、子どもの熱心さで説明する。ひたすら連発する「ヘン」は1ページに19回だ。なにしろ大人のよくやるむずかしい言葉に置き換えたり、ずらしたり、すりかえたりはしないから、ひたむきに「ヘン」をくりかえして説明しようとするのである。究極のこのくどさ、誠実さ。ホトホトまいる。おまけに最後はよく「わからん」のである。だが、それでも読むあいだにこの19回の「ヘン」はすべてそれぞれニュアンスがちがうことが突如「わかる」。文ではない。会話なのだ。するとなんとなく「ヘン」がヘンな感じで伝わってくる。体験したことがないから妙に疲れる。予期せぬ嵐にまきこまれた感じ。「ヘン」になった読者は「セーターの編み方」によって「わからない」をよし、とする説明をよし、とする。
結論はカンタンだ。「わからない」を方法にすることは「わからないまんま突進してみる」ことなんである。なあんだ、そんなことなら、そこいらの親父がはじめての自転車乗りにおびえている幼い息子に「ボーズ、突っ立ってねえで、とにかくやってみろ」という日常のセリフと違わないではないか。そうなのである。だが恐ろしい違いが、決定的な違いがある。橋本ワールドでは一生「わからないけど、とにかくやってみる」子どもの側に立ちつづける決意表明があることだ。
子どもになりゃいいのさ、と安心するなかれ。読者は「わからない」嵐をぬけ、本をとじるとき、心の奥底でヒヤリとするだろう。こんなあたりまえのことを1冊の本にしてしまう「度胸の男」はまぎれもなくおとなであって、太刀打ちできそうもないから。