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猪瀬直樹電子著作集「日本の近代」第2巻 ペルソナ 三島由紀夫伝
著者 猪瀬直樹
作家の内なる「日本の近代」を掘り起こす卓見の三島論。日本の文学史の書き直しを企図した「評伝三部作」のひとつ、『ペルソナ 三島由紀夫伝』(1995年11月文藝春秋刊行、99...
猪瀬直樹電子著作集「日本の近代」第2巻 ペルソナ 三島由紀夫伝
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日本の近代猪瀬直樹著作集 2 ペルソナ
商品説明
作家の内なる「日本の近代」を掘り起こす卓見の三島論。
日本の文学史の書き直しを企図した「評伝三部作」のひとつ、『ペルソナ 三島由紀夫伝』(1995年11月文藝春秋刊行、99年11月文春文庫)を収録。
三島由紀夫を生んだ平岡家は、明治期から三代にわたる官僚の家系。大蔵省をわずか9か月で辞めて文壇に転身した三島の作品にも、一族に脈々と流れる官僚の血が顔を覗かせるとの観点から、衝撃的な割腹自殺までの道程を丹念に検証。作家の無意識層に横たわる「日本の近代」を掘り起こす。独自の着眼点が冴えわたる卓見の三島論。
巻末の「解題」には、吉本隆明氏との対話「三島由紀夫と戦後50年」(『週刊ポスト』1994年12月2日号初出)、岸田今日子氏との対話「25周年 最後の秘話」(『オール読物』1995年12月号初出)、三島由紀夫文学館初代館長を務めた佐伯彰一氏との対話「ペルソナの真実」(『諸君!』1999年12月号初出)を収録。また、三島自決から25年の機に猪瀬が発表した「三島が憎んだ価値相対主義」(『読売新聞』1995年11月22日初出)、「『戦後』を終わらせた作家とエコノミストの人生」(『文藝春秋』1995年12月号初出)の記事のほか、『決定版 三島由紀夫全集7』(2001年新潮社刊行)への寄稿文、雑誌・新聞に掲載された書評など多数収録。
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紙の本
三島由紀夫論の決定版!というだけでなく…
2002/11/17 21:07
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:クドウ - この投稿者のレビュー一覧を見る
いままでの三島由紀夫論をくつがえす超大作。決定版と言ってもよい。三島由紀夫、父親、祖父と三代遡って解析している視点が、あまたの評伝とまったく異なる。文学ファン、三島ファンだけでなく、歴史ファンにもオススメ。三代の過ごした約百年間が、日本の近代の百年間にあてはまるので、大河ドラマ的に日本近代史が体感できる。
「三島由紀夫の評伝である本著は、割腹自殺を大団円に置いた『近代日本と官僚制』という題の大河小説と見てよい。主人公は大蔵事務次官平岡公威(三島由紀夫の本名)および父の農林水産局長平岡梓と祖父の樺太庁長官平岡定太郎。三代にわたる高級官僚の家系である。だが祖父は疑獄、父は無能、息子は文学によって結局、官僚機構の落伍者となる」(鹿島茂)と解題にあるが、まさに、いまの日本に巣食っている官僚機構の本質も、平岡家の歴史を通して理解できる。
この作品は発表当時、たいへん話題になったが、「著作集」になってからあらためて読み直してみても奥深く、スリリングな読み応えが楽しめる。平岡家三代を通してみた官僚機構を理解すると、いまニュースで話題になっている小泉内閣の構造改革の根っこの部分が理解できて、余計おもしろいと思った。何度でも読み返したい書。
紙の本
三代の物語
2001/12/08 23:57
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、サブタイトル通り、作家三島由紀夫の伝記であるけれど、同時に平岡家三代の男の物語と言ってよいだろう。祖父である平岡定太郎が、明治の立身出世の流れにのって、官僚としてのし上がって行く。一方、父の梓はパッとしない変わり者の官僚で、芸術など理解できない人物だ。そのような官僚の系譜の中で、三島由紀夫=平岡公威は誕生する。
祖父や父の世代が、築いてきた官僚世界。その官僚はある意味、現実主義者であり、「経済は慈善事業ではありませんから、一割方の犠牲を見込むのはやむをえない。のこりの九割が確実に救われるのだ。ほうっておけば、十割が十割よろこんで全滅してしまいますよ」というニヒリストだ。その頂点を極めた人物として岸信介がいた。一方、生活=日常の上に幻想を置く三島は、まさしく戦後に官僚たちが生み出しつづける現実の世界(=日常)と抗い続けたと言ってよい。
猪瀬直樹の『金閣寺』の解釈は、興味深い。主人公が、金閣寺に火をつけて逃げる際、三階にある空竟頂(=絶対で、最上の、最後に到達する場所)の扉が開かない、という場面がある。この開かない空竟頂について、こう解釈している。《実際、もしも空竟頂に踏み込むことができたとしても、「小部屋には隈なく金箔が貼りつめられている」だけだろう。だが開かないことで、そこはもっと別のなにか、その名称通りの究極の世界、触れてはならない場所、が残されたのだ。のちに三島が自決する時代、戦後民主主義が一九七〇年の万博や田中角栄的なものによって最もよく表現されてしまったとしたら、現実に対する幻想の最後の拠り所は担保されなければならない。それが、三島にとっては、空竟頂の象徴されるものにほかならない。》
三島が幻想の拠り所にする場所、幻想を現実(=日常)から守ってくれる究極の存在は、きっと空虚なものなのかもしれない。ロラン・バルトだったと思うけれど、日本の中心が空虚であることを見抜いていた。中身が空っぽであるために、人々はその中にそれぞれの天皇を埋め込むのだと思う。このことを猪瀬直樹は、次のように言っている。《僕は不思議でたまらないのだが、天皇制と呼ばれるものが、日本人にとってそれぞれみな異なる概念であるらしいことだ。その異なり方はまた個人のうちにおいても分裂的に現れる。一億人の天皇観があるだけでなく、さらにまた無数の天皇観がある。つまり未だに定まっておらず、あるいは定まらないかのごとくあるメタファーこそが日本人の天皇観なのだろう。三島は、独自の内なる天皇観を創りつつあった。》
本書を通読してみて感じたのは、三島の意思の強さ、行動力だ。しかし、これらは三島由紀夫はある意味、天才の作家だという私の印象にヒビを入れた。デビュー作を出す際にしろ、様々なツテを頼ったり根回しをしたりと努力している。なんとかして自分の作品が注目されようと活動しているところがある。それらによって、天才三島というものが形作られたのかもしれない。このような三島の姿を描いた点は、非常に面白いと思う。天才三島というのも、現実=日常を生きるためのペルソナだったのかもしれない。