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ここまで自分の心情や記憶と距離が近い文章には初めて触れた、と衝撃を受けた前作『ショウコの微笑』と同様、どこまでも人の心の動きに寄り添う微視的な細やかさに胸を抉られ、慰められる短編集。この近さには国も言葉も違うのにと驚くべきなのか、それとも隣人ゆえの必然なのか。何にせよチェ・ウニョンさんは凄い作家だ。
「過ぎゆく夜」に最も心を揺さぶられた。
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この本で出会う人たちは「わたし」を慈しみ、守り、愛しこそすれ誰もわたしを傷つけなかった無害な人たち、そのひとたちを害してしまった「わたし」の物語たちなのだと気付くとき、書名に込められた深い祈りを見たような気がした。
通り過ぎてきた過去の悔恨へ祈る静謐な文章。
なかでも「あの夏」に一番心臓を掴まれたけれど、他の物語にもそれぞれの祈りがあって、程度の大きさはどうあれ誰しもに覚えがあるであろう過去の後悔の形が丁寧に丁寧に切り取られていた。
疎遠になった人、もう会うことはないであろう人たちのことを思った。
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"寂しさはどうすることもできないのだと考えていた。人に執着するようになると傷つくし、ぐちゃぐちゃになるし、ひねくれると思っていたから。ねちねちして歪んだ人間になるくらいなら、いっそのこと超然としている孤独な人間になるほうを選びたかった。"(p.122)
"どうして理解しなきゃいけない側は、いつも決まっているんだろうか。"(p.131)
"あんたになにがわかるのよ、あんたになにが。それは心のねじれた人間特有の誇示の仕方だった。"(p.140)
"あなたはあなたの人生を生きるはず。"(p.333)
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ジェンダーをテーマにした話が多いが、登場人物の名前から男女の区別がつかず話についていくのに時間がかかった。
生きて人と接する以上、無害ではいられないと思う。ただ、何処かで誰かの役に立つこともあるだろうし、それで相殺出来たら…許されないだろうか。
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国や文化が違っても、感情は同じだよ、と教えてくれた一冊。
傷付いたり、好きになったり、生きていくことに絶望したり、誤魔化したり。
ちゃんと思いは届きましたよ。
素敵な物語を、ありがとう。
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『あの夏』想い合っててもどうしょうもなく育ってきた家や生きてる環境が違うことが浮き彫りにされる感じつらい気持ちになる レズビアンバーでの夜のいたたまれなさ…
『六〇一、六〇ニ』始終むかむかするし暗い気持ちになる終わり方だったな… こういう話見る度に新鮮に憤りを覚えるけど、一方でこういう家庭はありふれてたんだろうなと思う(なぜなら同じような話を映画でも小説でも何度も見かけるから…) タイトルはマンションの部屋番号かな
『告白』ジニにカミングアウトされるくだりのミジュの反応や後悔の内容が自分が書いたんか?ってくらいそのまま自分の経験だったので胸が苦しくなった………
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「人って不思議だよね。互いを撫でさすることのできる手、キスできる唇があるのに、その手で相手を殴り、その唇で心を打ちのめす言葉を交わす。私は人間ならどんなことにも打ち勝てると言うような大人にはならないつもり。」
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あの時、あの言葉を言わなければ…
あの時、あの一言を言っていたら…
あの時、あの一瞬、
言葉にできない想いをたくさん抱えていた若い時。言葉にする力も勇気もなくて、どれ程後悔しただろう。
永遠だと思っていた友人や恋人との関係も、生活や環境の変化から変わってしまった。この本は、若い頃のあのヒリヒリとした感覚を思い起こさせる。
七篇の中短編はどれも過ぎ去った時間を痛みと共に振り返る。繊細に描かれる主人公たちの気持ちの中に自分の姿を見つけては、鋭い痛みが走る。
子どもの痛みには、胸がかきむしられる。
「子どもはある年齢まで無条件に親を許すから。許さなければという義務感もなく、ごく自然に。」
大人の都合を受け入れ、その中に愛を探す子どもの気持ちを思うと切なくて、辛くて堪らない。
人の愚かさや弱さ、醜さを描きながら、人と繋がる素晴らしさを描いている。
あとがきでチェ・ウニョンが「無害なひとになりたかった。苦痛を与える人になりたくなかった」という。
けれど「そういう人間になれなかった」と。
だからこそ「難なくじゃなく辛うじて、楽にじゃなく苦しんで書く作家になりたい。その過程で人間として感じられるすべてを感じ尽くしたい。それができる勇気が持てますように」という。その真摯な姿に打たれた。
真摯に生きていきたいと思う。
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それぞれの短編で語り手の立場は異なるものの、似たようなバックグラウンドが度々描かれている。みな何らかの暗い過去を背負っていて、心の傷に敏感な人たちだ。どちらかといえば傷付けられた痛みよりも、自分が誰かを傷付けた(または救えなかった)という罪の意識や、無力感をよく知っている人物の視点で話が語られる。
語り手が過去を回想し、自らの間違いを見つめる時、読者も同じように自身の過去を振り返ってしまう。誰にも話せない秘密や後悔を嫌でも思い出すことになる。まるで自分を罰するかのように、語り手が過去を見つめる視線には誤魔化しがない。
あとがきに書かれた著者の言葉を借りるまでもなく、どの作品にも著者の過去や記憶が色濃く反映されている。とてもパーソナルな物語だ。昔のアルバムに入ったフィルム写真を見ていくような手触りがある。だから読者の記憶と共鳴するのだと思う。 繰り返し出てくるのは、傷付けられたと思っていた自分が、無自覚に大切な人を傷付けていたというモチーフだ。心ならずも相手をひどく損なってしまった後悔。取り返しのつかない間違い。村上春樹が「人生においていちばん深く心の傷として残るのは、多くの場合、自分が誰かに傷つけられたことではなく、自分が誰かを傷つけたことです」と書いていたことを思い出す。
唯一の中編といえる「砂の家」では語り手の心理が特に詳細に描かれていて、収録されている中で一番心に響く作品だった。風景の一つ一つも強く印象に残る。読み終わった後はしばらく余韻に浸っていた。
「告白」は「砂の家」とよく似た要素のある物語で、どちらも3人の友達グループ間での人間関係をめぐって話が展開する。最大の違いは「傷付けられた側」が辿る結末だろう。安易な希望が描かれていない点は共通している。
「わたしに無害なひと」とは、自分に関係ない人というよりは、人を傷つけない(傷つけられない)人という意味だと解釈した。だが読んでいると、果たして人を傷つけない人なんているのだろうか、と思う。人間関係では誰かが傷つき、傷つけることは避けられないのかもしれない。でも、傷付ける側ではなくて、理解する側に行きたいという著者の思いを感じる。だからこそ、傷付ける側の心理を痛いほど鮮明に書くのだろう。きっと個人的な反省がこもっているはずだ。「自分は人を傷付ける」ということについて、徹底的に自覚的であろうとする姿勢がある。
いくつか心に刺さった部分を引用して終える。
「人が私を失望させるのだといつも思っていた。でももっと苦しいのは、自分の愛する人を失望させた自分自身だった。私のことを愛する準備ができていた人にまで背を向けさせた、自分自身の荒涼とした心だった」(「砂の家」)
「互いを傷つけながら愛するのだとも、完全だからじゃなくて、不完全だから相手を愛するのだともわかっているのに、体がそう反応した」(「砂の家」)
「もし時間を巻き戻せるならあの瞬間に戻りたいとミジュは心の底から思う。あの瞬間に戻れたら、話してくれてありがとう、私はあなたの味方だ、もうそうやって寂しくつらい思いはさせないと言うだろ���。でも当時のミジュは口ごもるばかりで最後まで言葉にできなかった」(「告白」)
「重力も摩擦力も存在しない条件下で転がした球は永遠に転がり続ける。いつかのあなたの言葉を私はたびたび思い返していた。永遠にゆっくりと転がり続けるボールについて考えた。その粘り強さを想像してみた。(中略)でも私たちは重力と摩擦力のある世界に生きているからラッキーなんだ。進んでいても止まれるし、止まっていてもまた進み出せる。永遠には無理だけど。こっちのほうがましだと思う。こうやって生きるほうが」(「砂の家」)
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「アーチディにて」◎
真面目にではなく、自由に生きられたらどんなに楽か。人は簡単には変われない。真面目にしか生きられないハミンにも救いがあってほしい。
「わたしに無害なひと」タイトルにとても惹かれました。人と関わる限り、自分に「無害なひと」はいない。それを受け入れること、乗り越えることのつらさ、尊さ。
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ラジオで紹介されていて、読んでみたくなり図書館に予約。割とすぐに順番が回ってきたが、その後予約者が増えていたので急いで読んだ。
タイトルの「無害な人」から、韓国のスタイリッシュな小説なのかと想像していたが(ラジオでは内容まであまり深く言及されなかった)、全く違った。
英語のサブタイトルからは、「私を傷つけない人」と読み取れる。「無害な人」とはまた印象が違ってくる気がするのだが…。
「82年生まれ、キム・ジヨン」と同じような時系列で青春時代を過ごした若者達のリアルな姿を短編、中編で描き出している。
著者も84年生まれなので、「82年生まれ…」と重なるのもうなずけるし、自身の経験が物語に反映されていると、後書きで語っている。
著者は私と一回り年が違うのだが、彼女の描く子供時代の風景は、私が経験したものと似ていて懐かしさを覚える。一方その風景と相入れないのが、女性蔑視や教師による日常的な暴力の描写だ。しかし、これは私の周りでなかっただけで、日本でも同じような状況があったのだろう。
主人公たちの、自分に問いかける姿は痛々しいほどに厳しく、読み進めるのがしんどくなるほどだ。
小説とは関係ないが、コロナ対策をとってみても、やっぱり日本は詰めが甘いしね…などと思ってしまう。
東京五輪が1964年、ソウル五輪は1988年。
この小説を読んでいると、五輪後のそれぞれの国の姿が重なっているように見える(経済成長は、同じような道を辿っているように感じる)が、このあたりの歴史には全く疎いので、読後ネットなどで韓国の80年代以降についてサラッと調べてみた。
背景を知らないと理解できないことも多い、もっと調べないと。2020.8.5
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「わたしに無害なひと」とはどういう人なのか。
それは時々ふと思い出すような人だと考えます。
多くの人がそうであるようにわたしも中学校や高校の友達とは既に疎遠になってしまっています。
少し悲しくなる時もありますが、人は変わるのは当たり前でたとえ今連絡を取り合ったとしても共通点が無い限りまた頻繁に会うようになることは中々ないでしょう。
しかし、会わずとも時々その時の記憶を思い出して相手の健康と幸せを願うことがあります。
たとえその相手との記憶が少し苦いモノであっても、わたしの人生において印象に残った人としてずっと忘れることはない相手です。
少なからず私を成長させてくれたり、私に新しい感情を与えてくれた人達です。
私自身も大それた才能は無い人間ですから、誰かに大きな影響を与えることは一生かけてもないかと思います。毎日誰かに思って欲しいなんてことも全く思いません。
しかし、ふと誰かに思い出してあわよくば私の幸せを願ってもらえるようなそのような人間になりたいと思います。
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訳者あとがきに記載の「一見すると静かで小さく見えるが、読者を作品の中に巻き込んでいく催眠術のような力のある物語。人生の恥ずかしい時間や、捨ててしまいたい時間を繊細な眼差しで見つめ、執拗に復元している」という解説にすべてが込められていた。ところどころで読みながらつっかえる感覚となるのは、そうした過去の自分が脳裏に少しずつ浮かびそうになるからかもしれない。
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2020年91冊目。2冊目の韓国文学。女性蔑視の問題と勉学に重きを置く学生たち、貧困が良く出てくるのは前読んだのと似ている。そして前も思ったけど、韓国の名前に慣れていないから、性別を判断できなくてしばらく混乱する。恋愛っぽい空気感の描写がされると、当たり前に男女だと思ってしまうのって自分の思い込みだなって思ってこわくなった。女性同士であることを誇張せずに書くのって、難しいんだろうな。/20200610
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人を傷つけるのに悪意はいらないんだということ。ちょっとしたズルさ、保身、諦め、自分に言い訳できると思っていること、でもその言い訳は自分にいちばん通用しない、そういう弱さと繊細さを持ち合わせた登場人物が多くて、静かに泣きながら読んだ。
『差しのべる手』は血の繋がらない叔母と姪のシスターフッドで、叔母すごくいい!そしてメタファーとしての「明るいほうからは暗いほうが見えない」というのもすごいなと。これって格差や差別のこと。明るい=多数派や権力側。
翻訳される限りずっと追いかけたい作家になりました。