紙の本
最終章が秀逸
2023/06/27 19:36
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:amisha - この投稿者のレビュー一覧を見る
書評を見て気になっていた。
手で触れるとさわるとの違い。
手を介したコミュニケーションと、人との距離の取り方。
触感や皮膚感覚が人の感覚に働きかける割合。
いろいろ考えさせられる。
特に最終章の表現は見事だなぁと感心した。
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メモ→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1324577609355722753?s=21
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本書のあとがきを読んでいて思い出したことがある。子どものころ、盆正月にはいつも父方の田舎へ車で行っていた。1時間半ほどの道のりだった。僕は助手席に座り、母が僕の後ろに座っていた。次第に眠りに落ちていく僕の頭を、母の手が支えてくれていた。それが何とも気持ちよかった。そんな母は、2年前、急に腰が痛いと言って入院し、それから3ヶ月、2度の転院の末、亡くなった。2つめの病院だったか、看護師が怖いと言って泣きそうな顔をしていた。3つめの病院では、どうも男性の介護士に下の世話までされていたようで、はずかしいと言っていた。89歳であったが、もちろん女だった。病院に抗議すべきだったかもしれない。しかし、何も手助けしてあげられないまま逝ってしまった。本書にも、不埒な手という章で介助の話が出てくる。男性が女性を入浴させる?そのあたりの事情がどうも呑み込めない。伴走の話は興味深い。「伴走してあげる側」「伴走してもらう側」という非対称性がなくなるという。どちらが能動で、どちらが受動かが分からなくなる。共鳴。お互いが信頼し合っているからこそのことだろう。そして信頼しているからこそ、メッセージは自然と伝わる。ところで、昔、所ジョージの歌に「電車の中でお尻を触ってはいけません。偶然触れるのはいいのです。」というような歌詞があった。いまなら、ラジオでも問題になるかもしれない。「さわる」と「ふれる」、なかなか悩ましい。「道徳」と「倫理」こちらもなかなかうまく呑み込めない。カバーの絵の緑が好きだ。
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今だからこそ、忘れてはいけないことが詰まっている。
じっくりじっくり読み返して、自分の血と肉にしたい。
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「さわる」「ふれる」という概念を核に、触覚を通したコミュニケーションについて書かれた本。
1章の多様性についての話は若干違和感がある。「多様性の尊重そのものは大前提として重要」としているが、個人的には多様性の問題点ってその無批判性じゃないかと思っている。この本の中でも少しそういう話があるが、異質な他者と一緒にいるのって基本的に痛いし、不愉快で不自然なものだ。多様性っていうのはまず同じところに(異質なままで)同居することが前提の言葉で、根本的に相当な負荷がかかる不自然な状態なのに、ちょっとの譲り合いでできるし必ずそうするべきなんだみたいなノリがおかしい。共通の強い目的意識があるわけでもなくふんわりした倫理で取り組めば当然失敗し、「実態として進む分断」になる。
著者と同じように私も多様性という言葉はあまり好きじゃないが、理由は逆だ。「人がバラバラである現状を肯定する」というよりは、字面とは正反対の「バラバラは許さない、共同体で同質化しよう」という圧力を感じるからだ。
2章が好き。鬱転の自己の輪郭が失われる感覚、ヘルダーの「彫刻は触覚のために」という理論、すごくしっくりきた。彫刻に比べて大分格は落ちるように思うけど、私は子供の頃からフィギュアとか雑貨が好きで、特に手に取って撫でるとか造形を確かめるときはとても心が安らいだり、浮き立ったりする。触れるのは距離ゼロではなくマイナス、内側へ入り込む感覚、内側の流れを感じること…。手指が探るのは単に表面ではないということ、よくわかる。
それが生きる人とのコミュニケーションになった時、棒やひもなどの道具を介したほうがより内側まで伝わる感覚があるというのは面白いなと思った。4章の尊さや畏怖の距離を含んだ触れ方は「さわる」になるというのも、考えさせられるものがあった。
「けれども、『ふれる』を突き詰めていくと、その果てには『さわる』が、つまり『ふれあう』ことなど不可能な存在として相手が立ち現れてくる次元がある。誠実であろうとすればするほど、他者に対する態度は非人間的な『さわる』に接近していきます。」
深くふれあってきた相手でも、どこかでかならず異質な存在として、分からないものとして認める時が来る。でもそれって悲しみではなく、震えるような畏れ、喜びに近いのではないか。冒頭の多様性の話に少し重なるが、その侵せない分からなさにさわって、愛しいと尊ぶこと、そのままであること、それは深くふれあう果てにようやく立ち現れてくるのだろう。わかった果てにわからなくなることを受け入れられる。「多様性」の可能性として飛びつきたくなるのに、なんと果てしないことだ。
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人間の身体、感覚は本当に不思議。
手もまた然り。
第三章と第五章が興味深い。
安全は楽だけど、
そもそも生きることはリスクを伴うのだから、
相手からリスクを奪うことは
生を奪うことにもなりかねない。
その線引きが難しい。
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「さわる」と「ふれる」の違いを分析しながら、あらゆるコミュニケーション(会話、スポーツ、介護、sexなど)のあり方やその意味の拡張性について考える一冊。触れるどころか「会う」ことさえも憚られる昨今、触れるなどいうことにはヘンな勇気がいるが、事情が変わってもこういうことはあるのだろう。触れることを許すのは大変なことだ。起業支援なども、起業家の思いに触れ、事業に触れて、サポートという形で干渉=入り込んでいくことになる。その「程度」「深度」や「接し方」を間違えると、支援=コミュニケーションが成り立たない。入り込むことが、双方にとって心地よいとは限らないが、これは探っていかないとそもそも判断できない。毎日他人と接しているわけだが、その度にいろんなことを考えるようになる不思議な一冊。
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コミュニケーションは多様である。言葉だけを記号として伝える。面前で声で伝える。身振りも交えて。また、相手に触れる。触れながら話す。黙って触れる。意識的に伝えることだけでなく、無意識に伝わることもある。
人間は動物であり、当然、物質である。物質が運動を受ける時、さまざまな効果が現れる。人間では感情が発生する。
引き起こされるさまざまな感情は、コミュニケーションの方法や自身の心の状態で、その時々、状況で変わる。
幸せを感じることは、手探りである。
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触覚についても、倫理についても、考えたことがなかったからおもしろかった。ふれる、さわるの違い。人の手が不快だったとき、心地よかったときを思い返してなるほどなと。もし自分が誰かを介助する立場になったらまた読み直したい。
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安心と信頼
相手を信頼することは大切。でも、私は相手から信頼されてるのかなと謙虚に考えることが、さらに大切だと感じた。
介助される人は、介助する人によって振る舞いを変えるけど、介助する人は介助される人の今見えている状態を自分が引き出しているということに無自覚であることを痛切に感じた。
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「積み木をくるくる回すことはできても、人の体を同じように回すことはできません」(31頁)。うん、納得。
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筆者の論考の基になるのが視覚障害者との(触覚による)コミュニケーションなのだが、そこから触覚によるコミュケーションの要素をキーワード(伝達モードと生成モード、共鳴、などなど)として抽出していく様が鮮やかで、とても面白い。
最終章では触覚の「不埒」で扇情的な側面(触覚のその素晴らしい特性から、思ってもみない欲望や衝動が掻き立てられてしまう。セックスの翌日に入浴介助をすれば不快な重なりが生まれることもある)にも触れる。
ただそれは決して不道徳なことではなく、普遍的な善を追求する「道徳」を相対化し、むしろ現実的な場面に即し、悩みや葛藤を伴い、そしてより創造的な、「倫理」の世界に近づいていくものだとする。
「触覚は道徳的なものではないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。」と締める最終文まで全て腑に落ちて、でも新たな発見も随所に散りばめられた素晴らしい論考だと感じた。
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目の見えない人や耳の聞こえない人からインタビューして研究を進めていた著者が、介助の経験を通して体の接触をする中で、「さわる」、「ふれる」とはどういうことなのか、人間関係にどのように関わるのかなどについて考察したものである。
伝統的な西洋哲学では、5つの感覚において視覚が最上位に位置付けられる一方、触覚は劣位に置かれていた。そうした中でも子供にとっての触る事の重要性を論じた教育学者のフレーベルや、哲学者ヘルダーの議論を紹介しつつ、触覚の意味合いについて考察を深めていく。
第5章「共鳴」では、ブラインドランのランナーと伴奏者の間のロープを握って走るという具体的な行為を例に取って、両者が共鳴することで情報がやり取りされること、一方的な伝達ではなく、伝わっていく関係ができるというところは、とても興味深かった。
子育て、介助、スポーツなど肉体的接触の場面は決して少なくないにもかかわらず、あまり正面から取り上げられてこなかった、さわる/ふれるについて、様々な角度から考察がされており、創造的な人間関係を開いていく可能性に期待を抱かせる、そのような書であった。
なお、本書タイトル『手の倫理』の"倫理"の意味するところについては最終章に詳しいのだが、是非本文を読んで、読む人なりに考えてもらうことを望みます。
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あまりのおもしろさで、一気に読めました。視覚上位の人間社会に、優しく物申す本でした。
伝達モードと生成モードのことを一貫して言及していました。この動線の自覚は、仕事をしたり、作品を作ったり、人間関係を築く上で大事だなあと思いました(コミュニケーションが一方的だと、時として暴力となり得ると感じました)
乳児時代の触覚体験の積み重ねが視覚を作り、視覚が触覚の線引きをする。触ると触れるの線引きは、対象が主体になるのか客体になるのか。
視覚以外の五感神経繊維に鈍感だったことを痛感しました。
この本を読むと、世界の見え方が変わると言っても過言ではないと思います。
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141.24-イト
300821253
前回、オリバー・サックスを紹介しましたが、その現代版とも言うべき著作を次々と発表している「美学」の専門家です。どの作品も素晴らしい洞察力に溢れています。