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とりあえず読み返すのはよそう。上巻はすでに本棚にしまわれている。いま思い出せる範囲で書いていこう。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を予習のつもりで読んだのが悪かったかもしれない。あいだに単行本3冊と新書を4冊読んではいるが、それでも世界の終りのイメージは強く残っている。混ざってしまっていることがあるかもしれない。何かの勘違いがあるかもしれない。が、それも含めての読後感として書き留めておこう。まずは、取次ぎに勤めていた私が穴の底に現れたとき、上にいたのは門衛だったのか。その話はどことどうつながっているのか。壁から出たところだったのか。それとも入るところだったのか。きみはいったいどこに消えてしまったのか。街の図書館にいた少女がきみなのか。だとするときみはぼくの存在に気付いていたのか。最終盤、私は壁をすり抜け街の中に入って年齢をさかのぼっていった。そこにいる少年は私なのかぼくなのか。パーカを着た少年は街の中では上手にコミュニケーションがとれている。彼にとってはそこが生きていく場なのか。街から夢読みという役割を与えられてそこで生き続けていくのか。弁護士と医学生の兄がいる世界に、少年の居場所はないのか。ぼくとその影がともに壁の中に入っていたあいだは、こちらの世界でのぼくはやはり神隠しにあっていたのか。そしてその後、影が僕の身代わりとして外に出ていたのか。いや、でも、ぼくと影はいつのまにか一緒になっていたのではないのか。ぼくが壁の中に留まろうとしたにもかかわらず、気がつくと一緒になっていたのでは。子易さんの存在はたいへん大きい。村上春樹40数年の中でも、かなり大きな存在であるように思う。ベレー帽をかぶって、巻きスカートをはいたおじいさん。忘れられない存在である。5歳で亡くなった森、後を追って死んだ観理、存在しなかった林、それぞれの名前も印象的だ。しかし、イエローサブマリンのパーカを着た少年には名前がない。コーヒーショップの女性にも名前がない。名前はないが非常に現実的な存在だ。添田さんも現実的な役割を果たしてはいるが、それでも常に向こうの世界にいるような印象がある。唯一、コーヒーショップの女性だけが現実の世界に生きている。性的な悩みを抱え、身体をかたく締め付けている。最終的に、私はこの女性との関係に戻れるのだろうか。さて、前半、音楽や料理の蘊蓄はあっただろうか。それをなかなか見つけることができなくて少しさみしく感じていたが、後半、コーヒーショップに通うようになってからは次々と登場する。いつもの調子に戻るわけだ。多くのジャズが紹介されているが、そこまでは手が回らない。ロシア5人組はちょっと意識して聴いてみようと思う。しかし、これはいつの時代の話なのか。どこかにグーグルの文字があったように思うが、思い出せない2人は調べればすぐに出て来るのに。そして、ガルシア=マルケスは2冊読んだだけでもういいかと思っていたが、やはりまた読んだ方が良さそうだな。ちなみに僕は月曜日の生まれでした。きれいなお顔は持ち合わせていませんが。
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下巻読了。
ふぅ・・本書を読み終わって、何だかとても長い夢を見ていたような・・そんな心地よいまどろみと余韻に包まれております。
この巻は、第二部後半から始まります。
ここで登場するのが、“イエロー・サブマリンの少年”。
少年は言います。
「その街に行かなくてはならない」
「〈古い夢〉を読む。ぼくにはそれができる」
彼は〈壁に囲まれた街〉に移り住むことを強く望みます。
そして第三部はその〈壁に囲まれた街〉が舞台となって・・。
―― 何が現実であり、何が現実でないのか?いや、そもそも現実と非現実を隔てる壁のようなものは、この世界に実際に存在しているのだろうか? ――
この、マジック・リアリズム的な(本文中に、ガブリエル・ガルシア=マルケスの文を引用しているのも興味深いです)、幻想と現実が混沌とした、それでいて水の底のような静寂さもある世界に浸ることは、読書で現実逃避をしている私にとって、とても幸せな時間でした。
"解釈"とか"考察"とか、そんなんどうでも良くて、ただただ物語の中に浸りそして感じる・・そう、美しい音楽に耳を傾けるように(ちょっと村上節w)。
まぁ早い話、村上ワールドを存分に堪能できて、満足でした。
と、いうことでございます~。
巻末のあとがきも、村上さんのこの作品への思いが綴られていて良かったですね。
きっとこれからも度々読み返すことになる作品なんだろうな~・・と、思った次第です。
(美味しいコーヒーor紅茶とブルーベリー・マフィンをお供に♪)
因みに、私も"水曜日生まれ"なんですよね~・・いいんだか悪いんだか(;´∀`)
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世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドを読み返したくなる。
読後のイメージが明るくポジティブなのが良い。登場人物全員が救われることを祈らずにいられない。
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ああああー。。めちゃめちゃ!!面白かった・・・
実は最初に書き上げたのは第一部で、そのあと寝かせているうちに「これでは終われない」と感じ二部、三部と書いたんだって(ご本人によるあとがきより)。
一部で終わるのと、三部で終わるのでは意味合いがかわるよな。。
終わり方としては、めっっっっっちゃ私この終わり方が好き。好み。めっちゃいい。良すぎる。終わった後でいろんなことや可能性をたくさん考えてしまう・・考える余地が残っているというのかな?半分はファンタジーと言えると思うけど、心理的な要素も強くて(どこからどこまでが?)その曖昧さがとって!も!いい。今までよりカフカよりもずーっと現実的ではなくなったかもしれないけど、いやこういうことでしょう!私もそう思う!そうだよね!そうだよ!って大興奮しながら読んじゃった。
それと、どうしても村上さんご本人と重ねて読もうとするからか?
なんだろう・・空気感は今までと変わらないんだけど、今までより、人間臭さがはっきり文章にされてたように思う。主人公の心の動きや心理や考えていること(もちろん自分でもはっきりとわからないこと)を、言葉にしようとしているさまが文章で書かれていて・・いい意味で「普通」になったというのかな?物語における婉曲な(すぎる)比喩とか置き換えとか象徴的エピソードとかが多すぎなくて(笑)すごくいいなと思った。
主人公が涙を流して泣いたり、人生を振り返り気づきを得たり(これもはっきりと文章で書いてある、待つことについて)、あとは・・出てくる女性と一度もことに及ばなかった(というか、及べなかったのだ!)、異世界に行く、のではなく、目の前で現実が(これが現実ならばということだが笑)はっきりと混ざって歪んだり、女性を誘う時「誘った」っていう描写じゃなく「もしいやじゃなかったら、うちに来ないか?」って誘いのセリフがあったり?
今までの作品と根っこの構成要素は同じであり、言っていることは、言葉も物語も違えど同じ(物を含んでいる)って思った。
もしかして、村上さんは、変化することが苦手だったのかな?実は私は成長過程で、大人びたことを言ったり言動を変えたりするのが癪にさわり、わざと子供でいようと頑なに自分を変えず過ごしていた時期があったんだよね・・それか?とか笑 今回の話は、少女がいなくなったことで心が止まっちゃった、ようでいて、実は長い間変化を拒んでいるのは自分なんじゃ?って気づきの話なのかなと。いろんなことがあっても、止まれない、変化していくものなのだと。これは自分もそうだけど、年齢を重ねたからこそ得られたものなのかもしれないけれど。
私はどちらの僕も僕自身なんだと思ってる。
『つまり私の意志を超える、より強固な何らかの意志というのは、私の外側にあるものではなく、私自身の内にあるものだと?』
『それは私にとって何か大事なことを意味しているのだろうか?あるいはそれはものごとの大きな流れとは関わりを持たない、ささやかな脇道エピソードに過ぎないのだろうか?だいたい「ものごとの大きな流れ」なんてものが私の周りに存在するのだろうか?』
『ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、1人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ・・と言ってしまってもいいかもしれない。』
『壁は存在しているかもしれない、と私は思う。いや、間違いなく存在しているはずだ。でもそれはどこまでも不確かな壁なのだ。』
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【ネタバレ注意】
1980「文學界」発表の、3作目の中編「街と、その不確かな壁」、単行本に収録されず。
1985「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」へ。
で、2023長編「街とその不確かな壁」へ。
以前ほど刊行に伴う異様な盛り上がりは見えなかったので、むしろよかった。
文庫を待って読んでみた。
以下、ファンは読まれないが吉。
宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見て、セルフオマージュという、なんというか胡乱な言葉で感想を述べるのをよく見た。
確かにその言葉は便利だし、本作でも頭に浮かんだ。
が、むしろ1980年代以降、ずっと書き続けてきた結果、以後の45年の間にそれを読んできた読者が表現する側に回って、村上春樹っぽい作品を作っている、その渦中に私たちはいる。
個人的には、アニメ、漫画、ゲームなどポップカルチャーに影響多大だと思っているし、90年代のエロゲとかまんま春樹やん、というのもあった。
だから、また春樹節ね、とか、もう飽きたよ、という感想自体が、春樹の磁場の中でひねこびたつぶやきを発しているだけ、だと思う。
という前置きで、感想としては、なんという凡庸な小説だと思った。
まず、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」前後の作品で、あんなに気が利いていると思わせてくれた小道具とか、舞台立てとかが、似た筋書きにもかかわらずなんと月並みなものに置き換わってしまったことか。
本作では川沿いの道とか、川の溜まりとかが重要視され、何度も何度も言及される。
「1Q84」の二つの月でも思ったが、見慣れてクソどうでもいい物事に、そこまで執着されても、なんだか。
邪推するに、川とか月とか、人間が触れる自然、エレメンタルなものに、象徴を含ませる視点を向けるようになったのだと思うが、つまらん……。
このつまらなさは、表現にも通じる。
ある時期から春樹は「( )」で補足するような書き方をしている。
これって邪推を重ねるに、読み返したときに文を書き換えるのをサボって、追記しているんじゃないかしらん。
また、「……した、……のように」という、追記型の比喩も多くなった。
これも同じく動作を書いたあとに思いついたのをそのまま書いちゃっているのでは。
しかもその比喩がほぼ100パーセント凡庸で、つまらん。
つまらないといえば、女性の描き方も。
これはコンプラ的に云々とか、今この時代に云々ということを言いたいわけではない。
実際春樹の女性観はキモいし、特定の時代の産物だなと思うものもある。
といっても2025年の今ああだこうだいう人も、80年代に放り込まれたら全然意識高く保てないと思う。
本作で思ったのは、むしろオッサンあるいはジイサンのドリーム押し付けられた女性ばかりで、つまらんなー、と。
敢えて露悪的な連想を書くが、松本人志が後輩アテンド芸人に、「女性セレクト指示書」を送っていたという。
要はオッサンって清楚系とか清潔感を求めるよね。
この好みって、「ノルウェイの森」の女性描写で極まるが、要は「見る用の女」と「抱く用の女」に分ける趣向で、川端康成のころから変わりない、男性の宿痾。
いや、まあ岸田秀が「男と女のポルノグラフィー」と書いたように男女共同作業で作り上げてきた幻想に、書き手も読み手も加担しているだけなのだろうけれども。
女子高生徒とか、図書館司書とか、コーヒーショップ店員とか、……むしろ我々の性癖って(新海誠とかを経由して)春樹に植え付けられたのかも。
つまらなさについて思うところをもうひとつふたつ。
まず、「騎士団長殺し」で安直に東北を描いたことに、うげっと感じたが、本作でも福島に言及。
しかもコロナ禍下で書いたらしく「魂の疫病」とか、しかつめらしく言及されるが、……要は流行便乗オッサンムーブ。
次に、「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」は名著だと思う。
が、春樹がつまらくなってきたのもこの前後。
もともと勉強家だった春樹が、海外文学の影響下でもがいていた80年代に比べ、ロジカルに作品を構築するようになった90年代の、深層心理学への接近って、本当によかったのか。長期的に。
「ねじまき鳥クロニクル」あたりでは奏功していたが、「海辺のカフカ」では明らかにお勉強のせいでつまらなくなったし、以後どれもそう。
究極は生と死と言い換えられる物事を書くために、こちらとあちら、此岸と彼岸、と構図化するようになった。
本作でもまた。
で、作者が考察や読み解きを期待する作品を出して、受け手が期待に従って考察をネット上に上げて、……本当にそれって読書が生まれる場なのか?
春樹影響下オジが思わせぶりな感想を垂れ流しているが、それって誰にとって意味があるのか?
結局ハルキストおっさんって、ハルキストガールを喰うためにバーでハルキについて語っているだけなんじゃないか?
と、非モテオッサンの怨嗟を垂れ流してしまった。
これはオタクの決算でもあって、庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」とか、浦沢直樹「20世紀少年」のような、謎まぶして回収せず魅力まき散らすタイプの作品と、きちんと回収することでブームを自ら抑えようとする、諫山創「進撃の巨人」とか、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」があって、2010年前後に切れ目があると感じている。
で、宮崎駿「君たちはどう生きるか」も本作も、前者だから、古臭さというか違和感を拭えないのだ。
以下、本作でいいなと思ったところを。
・「君」ってもしかしたらアセクシャル、あるいはアロマンティックなのでは。
たとえば「1Q84」でディスクレシアを、1984年当時になかった概念にもかかわらず、強引に導入した。
また今風にいえば発達障害とかサイコパス的な描写は枚挙に暇がない。
で、本作でもまたサヴァン症候群の少年が登場する。
春樹と病の表象は、通史的に見たい。
・イエロー・サブマリンの少年が、耳を噛むところ。(「騎士団長殺し」の「痛み」を連想。)
・イエロー・サブマリンの少年が、木彫りの人形になっているところ。
ポッドキャストで有用だと感じたのはふたつ。
・小川哲「Street Fiction by SATOSHI OGAWA」
・「越読る-本を読むこと、そして考えたこと」
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久々の村上ワールド。大人視点だと「女性夕食に誘うなら行く場所くらい決めとかんかい」などツッコミたくなるとこ沢山あるけど、それも含めて懐かしい雰囲気、大いに楽しみました。
このシンとした感じが青春の名残というか...やっぱ村上春樹。
旧作も再読したくなりました。
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よかった。不思議な終わりだった。
「街」と「現実」のどちらが現実かわからなくなる。
というか、私たちは実は複数の現実を生きているのかもしれない。作品中でも何度か繰り返し言われるが。
実はパラレルワールドがあるのかもしれないという考えは、結構気に入った。この現実が全てではないと思うと、なんだか気が軽くなる気がする。
全く知らない外国に一人で行ってポツンと佇んでいる時と同じ気持ち。
名前のない喫茶店の女店主の好きなお酒がボウモア12年、好きな小説がガルシアマルケスの『コレラの時代の愛』だった。こんなに私と一致することある?!?!と、とてもうれかった。
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すらすら読めてしまった
自分が自分の分身であるような感覚、自分の「本体」がどこか別の場所で生きている感覚を村上春樹は抱えてきたのだろうか
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読みやすかったが、村上春樹が本当に言いたかったことはなんなのかを、他の方のレビューを見て、さらに解釈を深めたい。また数年後に読んだら、味わいが変わるだろうか?読書の愉しみは、そういうところでもある。
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壁に囲まれた街
それが「私」の精神世界の描写なのか、比喩なのか、作品をSFとして読むのか
正しい読み方はわからない
壁は勇気で、街は少年時代の夢
と、いう風に思われた
村上氏は世界を本作のように観ているのだろうと感じた
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40年越しの構想!
70歳超えて、完成、
とてもすごいと思った。
歳を重ねて、
やっと書く準備ができた
というのは、
どういうことか、
なんとなくわかる。
歳を重ねて、人は相当変わるし
一方で変わらないところもある。
変わらない構想を
変わった自分が仕上げる。
うまく言えないが
すごいなと思う
人生をかけて作られたという
言い方は、作者には不愉快かもしれないが、
そんな作品を読んだという充実感を感じた。
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ごく細部まできめ細やかに世界が作り込まれていて感心する。現代文の問いとして問える、それはつまり議論や解釈を深く追求し得る、あるいは長い年月の数多くの読みに耐え得る箇所が至るところ無数にあり、作品としての完成度が高く、著者が著名になっていることが頷ける。
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最近ミステリーばかり読んでいたけど、久しぶりに「物語の世界」というものにどっぷり浸かれた読書体験だった。久々の村上春樹ワールド堪能しました。
壁の街は精神世界なのか、あるいは何かの比喩なのか何なのか…は、(春樹さんのお考えはあると思うものの)読者一人ひとりの解釈に委ねられているし、答えも私たち一人ひとりのものでいいと思う。私個人的な解釈は、まだ全然まとまってないので書けない。(^^;
ひとつ読後に感じたのは、これも自分の超個人的なことだけど… 私自身、子供の頃の環境に精神的に大きな影響を受けて、それに無意識のうちに囚われて生きてきた。そして、それに気づき始めたのは30代半ばのころで、ようやくその囚われから自由になってきた、(精神的に)違う場所に移動することができてきた、と思えるようになった現在は、はや40代半ば。
そんな自分と「僕」の人生の歩みは、重なる部分がなくもない…と。その見方だと、壁の街で生きる「僕」は、受けた傷や辛さからの逃避の世界で、そこは穏やかで平和だけども、どこにも行けない淀みのようなところ。そこで生き続けることは心地よいし、傷を癒すには絶好だけども、癒えたらまた次に、そこではないどこかへ進んでいくことがらできるし、そうしなきゃいけない。
…まとまらないけど、読了直後のいま、ひとまずそんな風に考えています。もう一度じっくり読み直そうかな…
壁の街から出た「僕」(果たしてそれは影なのか本体なのか?役割は場合に応じて入れ替わってるのかな)の、その後はどうなったんだろう。
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この世に実態などというものがあるのでしょうか?なにもかもが、うたかたの夢のように思えます。日々の生活、暮らしにも実感が持てません。ただわかっているのは、日が暮れれば遊園地の門は閉ざされてしまうということ。
現実とは目に見える世界ではなく、胸の奥底に眠る、もうひとつの世界のことなのかもしれません。
良くできた小説、面白い物語に共通する条件は、いく通りもの解釈ができること、登場人物に感情移入できること、そして読み返すたびに新しい発見があることだと思います。たとえば宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」やドストエフスキーの「罪と罰」などが、自分にとってそれにあたります。もちろん本作にも、それらの要件は備わっていました。
この小説の中にもわからないことがたくさんあります。というか、わからないことだらけです。それらの謎は最後まで謎のまま明らかにされることなく、すべてが読者に委ねられています。
ですから、読み手としてはいろいろと想像を巡らし、様々な解釈を試みることになります。物語を読むことの醍醐味は、そこにあるのではないでしょうか?
また本作では、主人公のみならず、その脇を固める登場人物にも感情移入することができました。感情移入できる程度によって、小説世界への没入感が随分変わってきますので、この点は大事なことだと考えます。
現代を生きる人々に相通じる、意識の奥底に潜む不安のようなものを的確にとらえ、それをフィクションに置き換えて、うまく表現しているからこそ、共感を促すことができるのでしょう。
自分もそうですが、おそらく世の多くの人は、なにかが違う。なにかが間違っている―と思いながらも、そのなにかを明らかにしようともせず、ただ流されるように生きているのではないでしょうか?それが意識の奥底に潜む不安のようなものかもしれません。少なくとも自分はそのように解釈し、物語に登場する人たちに共感しました。
作者は1980年にも「街と、その不確かな壁」という中編小説を書いているそうです。これは書籍化されることなく、後に「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」という作品に生まれ変わりました。
村上春樹氏の場合、いくつかこのようなケース、つまり先に発表した短めの作品を、後に長編小説として作り替えるということがあります。
ただ本作は、かつて書いた作品を、一度別の長編小説として書き換え、さらにまたもう一度、数十年の時を経て新たな長編作品に書き直したという、きわめて稀なケースだと思われます。作者はなぜ、この物語にそこまでこだわったのでしょう?そういった意味でも、とても興味深い作品でした。
また、全編を通して死の気配が横たわっているように感じられますが、コロナ下で執筆されたことも、少なからず影響しているのでしょうか?
https://note.com/b_arlequin
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20数年前に、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドを夢中になって読んだのを思い出した。
自分の中では、世界の終わり…と同じくらいお気に入り。何度も読み返そうと思う。