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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2000.5
- 出版社: 以文社
- サイズ:22cm/161,7p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-7531-0212-2
紙の本
人権の彼方に 政治哲学ノート
今日のスペクタクル的な社会のなかで宙吊りにされた人間の生。その生の喘ぎは、世界規模での難民の創出、テロリズム、暴力などの外部として、この世界を縁どる。現代の生の困難とその...
人権の彼方に 政治哲学ノート
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商品説明
今日のスペクタクル的な社会のなかで宙吊りにされた人間の生。その生の喘ぎは、世界規模での難民の創出、テロリズム、暴力などの外部として、この世界を縁どる。現代の生の困難とその隠れた母型を明かす新しい政治の思考。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
ジョルジョ・アガンベン
- 略歴
- 〈アガンベン〉1942年ローマ生まれ。ヴェローナ大学教授。ベンヤミンのイタリア語版の編集者としても知られる。著書に「スタンツェ」がある。
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紙の本
“Mezzi senza Fine”(目的なき手段)
2015/11/02 13:48
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ponto - この投稿者のレビュー一覧を見る
90年代のジョルジョ・アガンベンが、フーコー晩年の二つの生政治研究の系列の、暗がりにおかれた交差点を取り上げたことはよく知られているーー国家が個人の自然的生への配慮を引き受ける政治的技術(全体化)と、個人が自分を自己同一性の意識と権力行使に結びつける技術(主体化)の研究という(フーコーにおいては)別個の系列の交差点である。アガンベンによれば、主体化の技術と全体化の技術が触れ合う不分明な地帯を明るみに出すことは、フーコーの死によって妨げられてしまった。アガンベンが遂行しようとしたのは、まさにこのフーコーの未解決の課題の探究である(「権力の法的―制度的範型と生政治的範型のあいだの隠れた交点」に関わる探究)。
いまあげた課題への解答が『ホモ・サケル』に他ならない。ところでこの彼の最初の主著が書かれた時期のエッセイを集めた “Mezzi senza Fine”(1996、邦訳『人権のかなたに――政治哲学ノート』以文社;「ギー・ドゥボールの思い出に」捧げられている)は素晴らしい著作である。アガンベンはフーコー晩年の生政治研究の先駆としてハンナ・アーレントをあげる。ところがフーコーはアーレントに言及することはなかった。この空隙を縫うように、アガンベンは同書の最初の二章で晩年のフーコーと、アーレントの研究を取り上げる。これが先にあげた『ホモ・サケル』の課題と密接に結びついていることは明らかである(アガンベンは同書の序文でフーコーとアーレントの間の不可解な乖離を指摘している)。
“Mezzi senza Fine”(目的なき手段)というタイトルの趣旨は、「収容所とは何か?」「身振りについての覚え書き」「この流謫にあって――イタリア日誌 1992-1994」などをお読みになるとわかる。
「手段のない目的性は、これこれの目的との関連でのみ意味をもつしかじかの手段性と同等に、道を踏み外している。舞踏が身振りであるのは、逆に、舞踏がまるごと、身体運動の手段的な性格を負担しさらしだすということだからである。身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段としての手段を目に見えるものにするということである。身振りは、人間の〈間にあること〉をあらわにし、人間に倫理的次元を開く。しかし、ポルノ映画において、たんに他の者たち(あるいは自分)に快楽を与えるという目的に向けられた手段である身振りを遂行している人が、撮影され自らの手段性の内にさらけだされている、というだけの事実に不意をつかれる時、この人は手段性によって宙吊りにされ、観者にとっては、新たな快楽の手段になる、ということがある。」(「身振りについての覚え書き」pp.63-64)
また著者は「この流謫にあって」で次のように述べている。
「収容所とはまさしく、近代の端緒をなす場である。すなわちそれは、公的な出来事と私的な出来事、政治的な生と生物学的な生とが厳密な意味で不分明になる空間である。政治的な共同性から切り離され、剥き出しの生へと(さらには「生きられるに値しない」生へと)還元されてしまったために、収容所の住人は、実のところ、絶対的に私的な人なのである。しかし、この住人は一瞬たりと、私的なものの中に逃げ場を見出すことができない。まさしくこの不分明の様相が、収容所に特有の不安を構成する。」(p.126)
フーコー亡き後の生政治研究の優れた成果である。
紙の本
しないこともできる、人間の可能性
2016/02/05 09:33
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩漬屋稼業 - この投稿者のレビュー一覧を見る
アガンベンによれば人間は慣習の只中にあって、しかし「常に可能性という性格を保存している」。そして人間とは「潜勢力をもつ存在としての、つまり制作することも制作しないとこともでき、成功することも失敗することも、自分を見失うことも見いだすこともできる存在」なのだという(p.12)。
人間の可能性は、制作しないことも失敗することも、できるのだ!
資本や政治は、人間の潜在性の領域へと、(能力)開発の触手を伸ばしてくる。だから、俗に、人間は多様な可能性に開かれているというとき、そこでいわれる可能性は“なりたい自分になる”とか“夢は叶う”とか、結局のところ“自分探し”モードへつながるような“ポジティブ・シンキング”な資本の論理に搦め取られてしまうのだ。
しかし人間が持つ多様な可能性の中には、なりたい自分になれないこともできるし、夢は叶わない(夢が破れる)ことだって、できるということなのだ。
それらは、単にできなかったということではなく、できなかったという事ができるということなのだ。
ネガティブにもできるということ。
だから追いつめられても何もしないということも、その人の可能性の発揮なのだ!何も生み出さない、何も作りださないし、何もしない。自分を探すどころか、自分を果てしなく見失っていくこともできるのだ。何ということ…!
ポジティブな可能性へ能力開発へ資本の論理と歩調を合わせることもできるし、バートルビーのように“できれば”しないほうがいいとも言えるのだ。途方もない無能力の発揮。
紙の本
いまもっとも注目されるイタリアの哲学者が問う政治哲学。これは現代日本のわれわれこそ読むべきだ。
2000/07/10 20:49
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:永江朗 - この投稿者のレビュー一覧を見る
アガンベンの新著がついに出た! こう聞くとそわそわせずにはいられない。フーコーやドゥルーズ亡きあと、いまもっとも刺激的な仕事をしているヨーロッパの哲学者といえば、アガンベンとトニ・ネグリ、スラヴォイ・ジジェクぐらいのものだろう。ニューアカ時代に現代思想の洗礼を受けた中年男としては、じつに心おどりますなぁ。
ジョルジョ・アガンベンはローマ生まれの58歳。現在はヴェローナ大学の教授だ。これまで日本語訳は『スタンツェ』がありな書房から出ているだけ。ベンヤミンを思考の補助線にしつつ、哲学や美学を語っていくという、いかにもヨーロピアンなスタイルだ。
政治哲学を論じた主著『ホモ・サケル』がもうすぐ以文社から出ることになっているが、本書はそのスケッチのような内容で、新聞や雑誌に発表された、つまり一般を対象にした小文集だ。翻訳も『ホモ・サケル』と同じ高桑和巳だ。これを読んで、『ホモ・サケル』に備えよ、ということだね。
アガンベンが主題としているのは、私たちが生きること、生きていることそのものを管理・抑圧しようとする政治を、哲学はどう捉えればいいのかということだ。
たとえば表題にもなった「人権の彼方に」という文章は、ハンナ・アレントの『帝国主義』を思考の補助線にして、国家と人権について考えたものだ。「国家と人権だって? けっ、関係ないね」と思ったら大間違い。いま私たちのまわりでは、石原慎太郎都知事の三国人発言、森喜朗首相の神の国発言・国体発言など、3流政治家たちによる国民国家を前提とした暴言が連発されている。しかし、国民国家が国民と国民ならざるものを分別し、国民ならざるものをガイジンや不法入国者や難民や無国籍者として排除し、あたかも彼らには人権などないようにふるまうことこそ、アレントが『帝国主義』で指摘し、アガンベンが本書で追求することそのものではないか。
「われわれは、無国籍者と難民を区別するのに慣れている。しかしこうした区別は当時(註ナチの時代)は一見そう思われるほど単純なものではなかったし、今でもやはりそうである」とアガンベンはいう。まるで石原慎太郎の三国人発言について語っているかのようだ。石原は、三国人は不法入国した外国人のことで、自分の言葉の一部だけを報じるジャーナリズムが悪いと主張した。しかし、アガンベンがいうように、ことの本質は不法入国か合法的入国家などにあるのではない。国民国家の名のもとに、私たちを分断しようとする石原とその付和雷同者が何を狙っているのかにある。ユダヤ人問題はイスラエル建国で終わったのでもないし、国民国家問題はナチ・ドイツが壊滅したときに終わったのでもない。
うーん、『人権の彼方に』を読んでいたら、ますます『ホモ・サケル』を読みたくなってきたぞ。 (bk1ブックナビゲーター:永江朗/フリーライター 2000.7.11)