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みすず書房の本としては気軽に読める本です。人と人との間隔のとり方に人種間で差があるなど、なるほどと思うことが多いです。「間」についての本(?)。建築設計の参考にもなると思います。
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空間を学ぶ上で是非お薦めしたい本.人にとっての空間と場所を考える上で大切なことがたくさん書いてあります.
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内容そのものも然ることながら、翻訳が素晴らしい。
日本語は通常「ひらがな」「カタカナ」「漢字」を織り交ぜて文章を作るが、そのバランスによって読み易さが大きく変わる。
学術書を読んで漢字の多さに辟易とすることもある。
本書はその事実を明確に意識しており、そのバランスを考慮して翻訳している。
具体的には、「漢字のひらがな化」。文脈によっては「言う」や「作る」といった初歩的な漢字ですら、ひらがな表記に直している。勿論、そのことによる読みづらさはない。
何度も言うけど、原作の情報量・科学的発想も高水準で無駄がない。
が、それ以上に“読みやすい翻訳”を褒めてしまいたくなる本。
現代でこんな翻訳本を出せば、「ここは何故漢字に直さないのですか」「高等教育でならう漢字は使用されているのに、初等教育でならう漢字が使用されていないのは何故ですか」と苦情がくること間違いなしだろう。
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「文化」というかくれた次元を、「空間」とその知覚という観点から分析する。その対象は、生物学、行動学、文化人類学、都市工学に分類されるような幅広い現象であり、示唆に富む。
コミュニケーションの課題に接すると、「人種の違い」「環境の違い」といったように、複雑であるがゆえに、文化というかくれた次元を現象の原因として思考停止に陥ってしまいがちだ。「ちがう感覚世界に住んでいる」という本書の根底にある前提とその分析は、異文化を理解する上での大きな礎石となるように思える。
集団、文化、都市といった複雑な派生物を考えるうえで、その対象が人間を基に構成されていることや、同じ体験から異なる知覚が生じること、こうした差異に無自覚であることが、結果として漠然とした歪みの感覚を生じるのだろう。派生物へのフィードバックの組み込みは、いまだに大きな課題として残されている。
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あかん、字のせいか、読みにくくて、読む気になれない。
目次で決めてもういいや。
無意識に距離を取るっていう巻頭の写真で分かった気になった。
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我々の暮らす”空間”が生物と人間にどのような影響を及ぼすかを文化人類学の観点から考察している。
正直結論がもの足りない気もしたが、それは岡本吏郎さんの講演会を聴いて後々明らかになって行く。
生物学的なアプローチからねずみを使った実験で、ねずみに多様な居住空間を与えることにより、人口の自動調整、ストレス、性行動の異常化などは、読んでいて退屈しなかった。
文化的アプローチとして、民族間における空間への認知の違いの考察も新しい発見。
著者は最後に当時の建築学、都市設計の在り方、人間の精神性に警鐘を鳴らすとともに、人間は文化の上に延長物を創り出し、それとともに生きていかなければならないということ。この辺りの解釈は難しいが・・・
岡本吏郎さん曰く、
・人間は自分よりも延長物を先に行かせるのではなく、家畜化しなくてはならない。
・読書も延長物の一つ
・「攻殻機動隊」と脱同一化
よく分からない・・・が、読んでみて決して無駄ではない一冊。
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読書会の課題本として読みました。
空間利用や、個体間距離における作用といった視点から動物や人間における文化の構造をとらえた面白い作品です。
前半は動物の縄張りの話から始まり、中盤は人間の個体間距離の作用について、そして後半は人種や文化の違いに起因する、空間利用の違いについて述べています。
比較的よくまとまった構造で文章が書かれているので、みすず書房さんの本にしては理解しやすかったと思います。
この本を選んだ中小企業向けコンサルタントの岡本史郎さんによると、この本は「自由意思は存在するのか?」という視点から読んでみると酔いそうです。
内容としては十分面白かったのですが、後半の人種による空間把握の違いが、いかんせんエビデンスに欠けるように思われたので☆4つです。
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欧米であっても、言語化、文書化がすべてではないことを明確にした著作。
距離、込み合いが、意思疎通に重要な影響を与える。
圧迫感がある状態では、意思は伝達しない。
沈黙の言葉の著者らしい視点の提示。
なんでも文書化すればよいというのが間違いだということに気がついた人は、
では、文書化しないでどう伝達するか、何を伝達するかを考えることになるかもしれません。
時間、空間、人の手間がかかる情報伝達。
じゃ、どうすればいいかという工学的な視点は提供していません。
現地で、現物を手にとって、現場指向で伝えるとよいのかもしれません。
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岡本吏郎さんのオススメ本。
個々の距離感の本。
この個々とは、例えばアメリカ人とアラブ人の差であり、、アシカの距離感だったり・・・
こんな本を理解できるだけの予備知識があれば、、、いいなあと思う。
自分が如何にアホだったかというのを、再認識してくれる本。
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動物には、動物ごとに活動に伴う距離感が存在する。ネズミ等においては、この距離感において、密集しすぎると、集団自殺的な行動まで発展する。また、密集しあう動物もいれば、できるだけ孤立を好む動物がいる。人間にもこの距離感があり、生理的、心理的、社会文化的に4つに分類するプロクセミックスを提案している。密接距離、個体距離、社会距離、公衆距離である。これらの距離は、歴史的な文化も大きく影響しており、フランス人、アメリカ人、、アラブ人の相違が面白い。また、日本人についても随所に記載があり、日本人特有の空間の捉え方について、絶賛している部分、特に、”間”の使い方、多視点的に設計する日本庭園などが、紹介されており、日本人であることが誇らしく思った。
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生まれ育つときに身についた文化によって、人は見たり聞いたりなど五感で感じ取る内容が違ってくる、だから同じ景色、経験をしても受け取るものが異なるという、誰もがなんとなく感じていたことを、文化=次元として明解に示してくれる本。この本では、文化の違いが分かりやすい国籍の違いを例に示してるけど、同じ国籍の人同士でも、互いに快適や不快を感じる範囲や距離が違うことはあって、それは地方の違いであったり、家族ごとに違う場合もある。身近な人とすら分かりあえなかったりする原因には、こうしたかくれた次元の違いが潜んでいるとも解釈でき、ミクロからマクロまで応用可能な「次元」の概念が衝撃的だった。
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類型的・断定的なところが少々気になるが、45年前に出版されたとは思えない程、いまでも面白く読むことができる。古典とはそういうものだろう。近年の書籍はジャンルが細分化されすぎる点が気になるが、本書はジャンルの縦割りを軽々と超えていてそこが魅力であろう。
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180428 中央図書館
古い写真図版がたくさん載っているが、シカゴのとうもろこしタワー?はだいぶ前から立っていたのだ。その他にも、フランス人は身体テリトリーが他国よりも小さく、公共の場で密集するのをあまり気にしないとか。ドイツ人とはそりゃ合わないな。
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並行して読んでたフィリップ・ボールの「流れ」と重なる部分があったり、読んだばかりのギブソンの理論(ただし、読んでない視覚ワールドの世界)が多く引用されてたり、と、読みながら混乱してしまう。
読書の順番の前後関係は、意識をしたりしなかったりまちまちだ。かくれた次元を読むことになったのは、そもそもはジャコモ・リゾラッティの「ミラーニューロン」で脳の機能を説明するのに思わずアフォーダンスが出てきて、おぉ!と思い、ずーっと先送りにしてもはや忘れかけてた、J.J.ギブソンに挑戦せねば、となったことから始まった。「ミラーニューロン」を読み終わったときにたまたま父の家にいて、その蔵書から「生態学的視覚論」を譲り受けて読み始めるも、違和感を拭えず、一冊遡って「生態学的知覚システム」から読み直した。アフォーダンスというか、今更ながらむしろギブソンの言うのは生態学的な知覚のシステムのことであることを理解しつつ、そこには、「ミラーニューロン」でも触れてあった、「近さ」「遠さ」の感覚が抜けてるな、というところが気になった。そして同じ頃、たまたまジュンク堂池袋店のエスカレータを登ってたときに目に入った本書「かくれた次元」がそういう距離の本だったと思って手にした、という顛末で、だから、ギブソンがたくさん引用されていることには、我が意を得たり、というところだった。
本書は、難しいものではないけども、今、東京とかの大都市で生きてて、無意識に通奏低音のように感じてるストレス(よく晴れた日に地方の広い空の下の駅に降り立つと感じる、ふぅ、というような開放感が、この日常のストレスを示してる)とその原因に気付く良い本である。「近さ」についての文化間での相違への理解や近過ぎることの孕む本質的な不安定さへの重要性を教える。
同時に、あまり触れられていないが、僕にはむしろ遠さの重要性が忘れられていると感じた。電話、メール、SNSで関係の「遠さ」が弱まっている。孤独が減っている。それはどういうことか。
不安を感じるほどの遠さ、つながりを辿れないほどの距離、そういうものがある。生物はそれほど群衆からは離れない。仲間を失うことは生命の危機につながるし、何より、繁殖の機会を逃す。
しかし、人間には、こういう遠さというのが重要性をもつ場合がある。ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」にあるように、多くの非文明的社会で、大人になる段階での通過儀礼があってそれを模したものが神話構造の「旅立」「通過儀礼」「帰還」というものになる。この「旅立」というものが、まさに遠さになる。ここに近さを離れ彼岸へ渡る、ということがある。そしてそこで挫折があり、助けがあり、超克があって、通過儀礼を経た大人として帰還に至る。バンジージャンプの死を賭したジャンプも、人の手の助けが届かない領域への旅立ちであり、紐による救いであり、それを乗り越えての帰還になっているのだろう。
現代では、本書にあるように近さの過剰による問題が起こっている、が、同時に、遠さの希薄にも繋がっていることで、通過儀礼の機会を失っている。大人になる、というタイミングを得ないまま、大人になる。
ギブソンからの流れで、近さを課���に読んでたが、遠さに気づかされた読書だった。
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著者はアメリカの人類学者。
人間という集団において、権力者らが、それ以外の人間の人口調節をしているのは、自然の摂理なのか?
直接的な事はなにも書かれていないだろうが、なにかヒントが得られるかも。
カニの個体数調節には、少し驚いた。