「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
新たなる現代詩の誕生をねがいつつ
2011/07/18 10:45
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぶにゃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この詩人の「帰途」は、こんなふうに始まる。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
僕はときおり、畏れに満ちた想いでこの詩を反芻している。意図的にせよ、ついうっかりにせよ、いちど自分の口から吐き出された言葉は、最早自分の思惑などにお構いなく、一人歩きする。後悔しても遅い。僕はこうした後悔をするたびにこの詩の冒頭をつぶやいてしまうのだ。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と。
ただ、この詩の凄いところは、後半にかかる三行の詩句である。
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
センチメンタリズムを極度に排除したこの叙情は、中也ばかり読んできた若い僕にとって衝撃的であった。こうして現代詩というものに関心を持ち始めたきっかけが田村隆一だったのである。もっとも、この詩人、最初は詩を書いている人だとは思わなかった。高校時代に読んでいたアガサ・クリスティのほとんどは田村の訳だったし、ダールの『あなたに似た人』も田村隆一訳である。詩人とミステリーの翻訳家という組み合わせは、どうにも僕の頭のなかでは、うまく像を結びつけることができなかったようである。(後に、鮎川信夫や加島祥造などがみんな同人誌『荒地』の仲間だと知り、そのからくりがわかったような気がしたのだけれども。)
現代詩はまた、戦後詩とも呼ばれる。田村たちが創刊した『荒地』発刊は1947年であり、まだ戦争の傷痕が生々しく残っていた時期であった。そういう意味で、現代詩は、廃墟と空洞から生まれ出てきた詩人たちの生き様であるとも言えようか。人間の存在そのものを暗い地底から抉り出すような田村の「立棺」は「帰途」よりもなおいっそう僕には衝撃的であり、否応もなく沈黙させられた。
わたしの屍体に手を触れるな
おまえたちの手は
「死」に触れることができない
わたしの屍体は
群衆のなかにまじえて
雨にうたせよ
80行になんなんとするこの「立棺」を書いたとき、田村はまだ30歳に満たない青年だった。そうした青年が織りなす言葉のアラベスクは、いかにも同時代的であり、そして、反時代的でもあった。
わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
戦争というかつてない出来事から戦後詩が生まれたように、震災という未曾有の事態から、また新たな現代詩が生まれてくるのだろうか。そして、詩人は詩人なりの言葉の世界の構築によって、この荒涼とした地平になにかしら展望を開くことができるのだろうか。
地上にはわれわれの墓がない
地上にはわれわれの屍体を入れる墓がない
それとも言葉なんか、やっぱりおぼえるべきではなかったのだろうか。
われわれには火がない
われわれには屍体を焼くべき火がない
たぶん、詩で語られた言葉の世界が現実の世界にかさなり、かぶさったとき、希望は絶望に変わり、また、絶望は希望に変わりうるだろう。詩人の言葉にはそういう力があるし、そのままでは記号でしかない言葉に生命を吹き込み、心の眼で視た世界を語るのが詩人であると僕は思っている。しかし、今このときはどうなのだろう。繰り返すが、今このときに、「立棺」に匹敵する新たな現代詩は現れるのだろうか。いや、そもそも詩は書かれているのだろうか。絶望と憤怒のなか、涙でぐしゃぐしゃになりながら、それでも人は生きていくように、そんなふうに、はたして詩は書かれつづけるのだろうか。
われわれには愛がない
われわれには病めるものの愛だけしかない (田村隆一「立棺」より)
はたして詩は、読まれつづけるのだろうか。