紙の本
かきょうのおしえ、と読むそうな
2021/11/08 21:43
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の「忘れられた日本人」とは打って変わり、
著者自身の出身地に纏わる話を綴った本です。
個人的には、第三章の「年寄と孫」の
終わりに出てくる、戦国大名が登場する
一口話のようなものに、強い興味を覚えました。
特に毛利輝元についてのものが面白かったです。
投稿元:
レビューを見る
表題作を読むと、生まれ育ち生き死ぬことが貴重なことでかつ当たり前なことで親しみのもてることでとそういう実感が湧いてきます。
投稿元:
レビューを見る
書かれたのは昭和18年。当時30代の著者が自分の子供時代から、父母祖父母さらにその昔までの村での生活を細かに書き留めています。
貧しくて不自由ではあったけれども、反面合理的だったと、昔ながらの伝統の失われていくことを残念がってはいるんですけども、「昔はよかった」「それにくらべて現在は…」とノスタルジックに走らないので虚心にうなずける気が。
厳しいルールはあっても、それを守ってさえいれば悩むことなく生きることができた。
…ってね、これを読んだからというだけではなく、最近いろいろ考えてしまいます。「個人」てそんなに大事なのかなーと。もちろん今さら捨てられるものではないですし、ムラ的な社会にはやっぱり抵抗も恐怖心もあるのですが、もしもそこで生まれてそれが当たり前の世界で育って死んでいけるなら、幸せなことなんじゃないのかな…とか。
「郷里を離れて暮らしていても、里に戻れば自分を迎えてくれる人がいると思えば、何があっても安心していられた」なんて聞くと違いを実感しもします。
なるほど根無し草育ちの人間には、確かに「ここ」しかない。
あと、この村の記録には貧しさと重労働はあるけども、飢えと寒さがないんですよね。この本と著者の方のおだやかな雰囲気にはそういう地勢的な条件も絶対あると思う。さすがは瀬戸内。
日本海側の寒村の記録絶対にもっと陰惨なものになったと思います。
投稿元:
レビューを見る
冒頭からの100頁めまではほとんど号泣しながら読んでいた。宮本常一による郷土と自分の育った経験を舞台にし、子供に対するしつけ方や如何に昔の子供が育てられたのか、家族や村という共同体が如何なるものだったかを非常に丁寧な文体で情景的に描かれている。
経済的に発展していく社会においては毛嫌いされた旧日本社会による共同体観念、しかし、宮本常一によって浮かび上がらせたその姿は正に情緒に溢れた素晴らしい社会と繋がりで、人間と人間が互いに共存する為に必要とする美しい社会構成だったのがよくわかる。
本書で表される一つ一つの情景が現代には喪失した姿であり、日本人の心に眠る情景だろう。
投稿元:
レビューを見る
宮本常一『家郷の訓』(岩波文庫 岩波書店 1984年7月第一版発行)
※初版は『家郷の訓』(女性叢書 昭和18年)
※『宮本常一著作集』にも所収されている
もくじ
・私の家
・女中奉公
・年寄と孫
・臍繰りの行方
・母親の心
・夫と妻
・母親の躾
・父親の躾
・生育の祝い
・子供の遊び
・子供仲間
・若者組と娘仲間
・よき村人
・わたしのふるさと
投稿元:
レビューを見る
「訓」は「おしえ」と読む。宮本常一のかなり有名な著作。昔がすべてよかったわけではないが、昔に学ばなければならないことはあまりにも多い。
初版本は戦前(1943年)に発行されており、当時の社会状況が垣間見てとれる個所も多くある。しかし全体的には、著者自身の体験も織り交ぜながら、祖父や曾祖父の時代まで遡りつつ、家庭や地域の中で子どもがどう育てられてきたかを綴っている。
まず、親は子どもに対してべたべたしていなかったのだなと思う。特に、著者の両親の子育てには、生き方を口で諭すのではなく、その身をもって示すような、凛としたところがある。
陰膳だとか神社への願掛けのお参りなどのくだりを読むと、しきたりとか作法は本来心情の表現手段だったのだなあと強く思う。
子育てにも慣習があって、子どもが幼いうちは祖父母が世話をし、軽労働のできる年齢になると親がその世話をする。仕事をする様子を見せながら、また手伝わせながら、躾も行っていくのだ。
少し大きくなると他家に宿泊し、社会へ出る準備を始める。そして若衆の仲間に入り、そこで一人前になるための修練をする。
学校制度以前から地域社会で人材を育てるシステムがちゃんと存在していたのである。
宮本常一の文章は事柄を淡々と客観的に述べる。自身の感想や形容を極力少なくしているようだ。しかし心が冷たいわけではなく、『私のふるさと』の中の「ある老人の死」(p237)や「一人の娘」(p254)からは深い慈しみの心が読み取れる。この姿勢は『忘れられた日本人』にも貫かれていると思う。
最も私の印象に残ったのは、「よき村人」の項にある以下の文章である。
“共に喜び共に泣き得る人たちを持つことを生活の理想とし幸福と考えていた中へ、明治大正の立身出世主義が大きく位置を占めてきた。心のゆたかなることを幸福とする考え方から他人よりも高い地位、栄誉、財などを得る生活をもって幸福と考えるようになってきた。(中略)がそれは、根本からかわったのではない。ただ時代の思想の混迷の中に、新たなる基準が見出せなかったのである。そして、基準を失ったということが村落の生活の自信を失わせることにもなり、後来の者への指導も投げやりになっていった。”
繰り返しになるが初版本は昭和18年に発行された。してみると、ふるさとが崩壊したのは戦後の高度成長期からではないのだろう。もっと以前、20世紀に入った頃から、私たちは道を逸れ始めたのかも知れない。
むろん人類が20世紀から得たものは多い。私たちが歩まねばならないのは、20世紀以前から培ってきた暮らしと、20世紀以後に得た文明との融合を目指す道であろうと思うのだ。
投稿元:
レビューを見る
宮本常一さんの故郷である周防大島の生活、
特に躾について綴られた本である。
宮本さんが村里生活内における躾について述べるきっかけとなったのは、
彼が大阪へ出、小学校の訓導となった際、教育の成果を十分に
あげていないと感じたことからであった。
その原因として、その村における生活習慣や家庭の事情に
暗いことに思い至る。その村の性格や家風、家や村の生活が、
子どもたちの個性に反映されていると考えた。
つまり、郷党の希求するところや躾の状況が本当に分からないと、
学教の教育と家郷の躾の間に食い違いを生じ、それが教育効果を著しく
削いでいる、と知ったのである。
これは宮本さんが民俗学という学問を、学びはじめた動機である。
必要性にかられ、歩み始めた道だった。
面白かった点
・P41「外祖父は講談のすきな人で祖父が素朴な昔話をしてくれたのに対して、小栗判官だの宮本武蔵だの岩見重太郎だのを話してくれ、しかもこれを史実として考えていた。」
一人の昔の人の歴史に対する考え方を知ることができておもしろい。
・北条氏政の味噌汁二度がけの話が毛利輝元の話として、
言い聞かされたと体験談が載っている。
・P94「御船手組奉行の村上氏などはその主婦をオウラカタとよばれていた。」
村上氏というと村上水軍の村上氏と関係があるのか?
・「私のふるさと」と題され、宮本さんの生まれ育った家のまわりについて
まとめられた章が具体的で素朴で面白かった。
お宮の森に「宮ホーホー」という化物がいると祖父に聞き、
それを夢に見たという話がユーモラスで興味をそそった。
P215「道の南側に古びた倉があった。瓦に一に三つの星の紋がついていた。これは藩主毛利公の紋であった。きくところによるとこの倉はもと藩の倉庫で、藩政のころ年貢米を入れたものであった。」
投稿元:
レビューを見る
「かきょうのおしえ」と読む。
著者の故郷・周防大島での子供時代である明治・大正期の経験や祖父・父・母などから聞いた昔話でまとめられた話だ。
集落内の子供・大人の人間付き合いや変遷の話を通じて、戦前の日本人のメンタリティや暮らしをかいま見ることができる。
著者は教員となった経歴があるゆえ、村や家が子供に対してどのような形で躾が行われたかといった視点も興味深い。
「磯あそび」など子供の頃の体験を記した文はとても細やかで、読者自ら体験しているもののように感じる。
この本のほどではないにしろ、私も幼少期にいくつか同じような体験をしたものだが、今やこういった自然環境も人付き合いも遠くのことになってしまった。
●村の規約や多くの不文律的な慣習は一見村の生活を甚だしく窮屈なものに思わせはするが、これに決して窮屈を感ぜず、頑ななまでに長く守られたのはいわゆる頑迷や固陋からばかりではなかった。・・・感情的紐帯である。・・・村の共同生活は親睦の意味を持つ多くの講や仕事の協力、葬祭の合力に特にこれを見ることができる。
●共に喜び共に泣き得る人たちを持つことを生活の理想とし幸福と考えていた中へ、明治大正の立身出世主義が大きく位置を占めてきた。心のゆたかなる事を幸福とする考え方から他人よりも高い地位、栄誉、財などを得る生活をもって幸福と考えるようになってきた。・・・基準を失ったということが村落の生活の自信を失わせることにもなり、後来の者への指導も投げやりになっていった。
「昔は良かった」といつの時代の年配者は言うようだが、ここには著者の見解が端的に表れている。つまり個人主義への価値観移行によって地域への帰属感や自然や神仏への一体感といった共有認識が変わっていったことだ。過去の因習を破壊しながら今に至っているが、いったいどちらが幸せかはそれぞれが考えることだ。
投稿元:
レビューを見る
明治の終わりから昭和の初期にかけての瀬戸内海にある著者のふるさと(大島:山口県)の様子が克明に記録されている。村の様子、人々の暮らし、男の仕事や女の仕事、赤子から子供、男衆と娘たち、結婚・・・・隠居、農村社会が容易に想像できる。場所は違えば、多くの風習は異なるかもしれないが、本筋としては日本の農村風景はどこもこのような背景があったのではないか。日本人、ひいては自分自身のルーツもそのような中で紡がれてきたのだ。
投稿元:
レビューを見る
1984年(底本1943年)刊。
全国踏破で固有の民俗学を切り開いてきた著者は、戦前来、そして戦後も多くの人々の謦咳に接し、古老らの経験を聴取・記録してきたことはつとに知られている。
一方、戦前に著者の収集した記録は戦災で焼失し、およそ復元不可能な状況に至ったことを知っている人もいるだろう。
そういう意味で、終戦前に刊行された本書には燦然と輝く価値の有することを首肯されるはずだ。
本書は著者の故郷(山口県周防大島?)における体験的叙述を軸に、江戸期から続いてきた地域の生活の実をビビッドにうたいあげる。
若者衆と娘衆などの関係、あるいは子供の遊戯の変遷、子供に課された仕事・職責の実といった生活密着型の叙述が大半である。
が、社会との関係性や風潮を垣間見せる叙述も含まれており、これもまた見逃せない。
例えば、
①米収穫におけるマンパワーの要請から、大島から水田地域に出稼ぎに行き、その報酬が米の現物支給で支払われていた点(=米の貨幣代用物としての意義とそれが明治以降もある程度残存してきた点)。
②元々、村の中で識字能力の有していた者が子弟教育を担ってきた。
が、いわゆる師範学校出身者による教育が主流に。その結果、学校教育こそ全てという風潮を持ち込み、村の慣習に配慮・尊重することが少なくなり、村衆との間で軋轢となっていた事実(教育近代化の得失)。
③WWⅠ時の好況が地域の貨幣経済化促進と富裕度を上げた点(ハレでなくても米を常食。都会へは出稼ぎではなく帰郷する人々が減少)。
④③とはいえ米麦の割合は3:7、麦飯中心も多かった。
⑤明治中期は大根飯が主(③~⑤は大正期における社会変貌の大きさ)等々。
戦前、大正明治、さらには江戸後期の人々の生活の生の息吹を観取するに、現代でこれほどうってつけの書はなかなかないように思う。
投稿元:
レビューを見る
宮本常一が郷里の山口県大島について、自分の子供時代を中心に書き記したもの。昭和18年刊行なので初期の作品と言ってよい。
100年で日本はかくも変わったかと思うし、人々の心のありようには確かに変わっていないところもある。出稼ぎに行っている男が「正月には島に帰って故郷の言葉で世間話をしたい」と語るような古き良き面と、農繁期にちょっと洒落た格好で歩いていると田んぼに引きずり込まれてしまうよな息苦しい村社会の面と、コインの裏表と言える。→今からこのような社会に戻ることはないのだが、かと言って己のルーツをさげすむこともない。
子守で学校についていって字を覚えた母の話や、千本幟・潮かきなど、しみじみとした感慨を呼ぶエピソードが多い。子育てに祖父母が果たす役割の大きさ、百姓は土を怖がらないと一人前でないなど。
書かれた時代ゆえであるが、戦争へ出征する兵隊への言及も多い。非常に肯定的というか重要な使命として受け止めている。これは渡辺京二が書いていた、日本の戦争を支えていたのは村社会である、という言説を裏打ちするかのようだ。古き良き時代であるが、やはり共同体の桎梏には厳しいものがあったのだ。
「私のふるさと」併録。解説によると昭和47年執筆とのことだが、もっと古いような気がする。
投稿元:
レビューを見る
著者の故郷、周防大島の暮らしや親のこと子のこと、しつけのことや遊びのこと、仕事のこと風習のこと。様々。
宮本常一氏のあたたかい眼差しで綴られる故郷の風土風習。
祖父母のこと、父母のことはとりわけ心に響いてきました。
今と、常一氏が生まれた頃ではずいぶん様変わりしているのかもしれませんが、周防大島に行ってみたくなりました。
投稿元:
レビューを見る
昭和の戦争期に一般向けの著作として出たもので、地域や家族の絆へのノスタルジーを持ち上げる雰囲気には、やや割り引くべき点があるかもしれない。それでも、宮本の自伝的エッセーとして読むと、日本人の暮らし(瀬戸内海の離島だが)の原点を感じることができる。昭和生まれであれば、かすかに祖父母の記憶と蘇ってくるのではないか。