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紙の本
途方もなく広大で深甚で豊かな水量を誇る大河の可憐な支流を思わせるこの小著
2001/02/18 23:25
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
途方もなく広大で深甚で豊かな水量を誇る大河の可憐な(?)支流を思わせるこの小著は──「現実[ほんとう]に、内なる心的現象が、まるでマグマのように流動・移動して体表へと迫り出し、外なる物的現象となって発現するのであるか?」との問いを皮切りに──「内奥的心態の体表的表出」という表情観をめぐる理論的パラダイムの大転換を企図し、さらには表情論を機軸とした「他我認識問題」や「身心関係問題」の解決へのラフ・スケッチ(廣松語では「構図的論述」)にまで及ぶという、刺激的な内容をもつ書物だった。
ここではそのうち(私の脳髄に記銘されたかぎりでの)結論部分や気になる箇所を整理要約のうえ箇条書風に抽出して、以下の作業の「予件」として掲げておくことにする。
◎直截的に経験される現相世界においては森羅万象が“表情性を帯びて”いること。──著者の世界観にあっては、フェノメナルな現相世界は、本源的には非人称帰属的=人称帰属以前的であり、この世界は主客協働の結果として現相在を呈するのである。表情性現相なるものは、それがここでいう世界現相の直接態である以上、本源的には特定人称帰属以前的であり、森羅万象がその相にある。したがって、著者の立場では、表情性を呈する当体を以ってそのまま意識主体なりとするが如き見解は採るべくもない。著者の構制に即するとき、意識主体を人間だけに限局すべき謂われはない。
◎表情性知覚こそが原基的な体験であること。──表情性知覚こそが如実の体験相であり、“感覚的成分”と“情意的成分”との“分出”のごときは、二次的・反省的な区別たるにすぎない。
◎嬰児の原体験相における母親の顔面表情の覚知というのは、顔を物体相で知覚し、その物体に生ずる形状的変化を見て取ることの謂いではない。原初的な体験の場面にあっては、まさに表情が端的に感得されるのである。
◎生体は振動系であり、多種多様な物理的・化学的振動機構に支えられた、多種多様な振動の重合系である。──しかも生体は内部的機構において振動系・共振系であるだけでなく、対外的な刺激受容・反応の場面にあってもやはり共振系である。
◎狭義の表情(俗に「主体によって表出された所産」とみなされている顔貌・身振などの「表情現象」)は、徴標記号[シンプトム]として機能する。──ここでいうシンプトムとは徴標機能、すなわち覚識情態・情動価を表出する機能を担う記号で、熊野純彦氏が提示した記号の三次元的区分(シグナル・シンプトム・シンボル)に基づく。なお同氏によれば、言語はその表現機能に徴して、象徴機能・徴標機能・信号機能の三機能を総合的に実現するものである。
◎著者は、“顔貌・身振”言語から象徴言語記号へと転成するとは考えない。──ただし、象形文字については一考を要する。標音文字文化圏の学者たちは、文字とは言語音声の代理物だとしか考えない傾向がある。しかし、象形文字は決して音声の代理記号ではなく、むしろ、音声言語記号と並ぶ図象言語記号と言うべきであろう。そして、この図象文字たるや、或る意味では、身振言語とも共通するところがある。象形文字の表現性は身振言語と共通する。
◎著者は、狭く「自己意識」(自分が今意識しているということについての自覚的意識)の主体というレヴェルに限定することなく、「自己」意識(自己を他身から個体的に区別する意識)の主体をも自我主体として認めうるような広義の「自我」概念を立てたいと念う。更には、単なる「対象意識」(知覚・情動・記憶などのいわゆる“意識態”)を“有つ”にすぎない個体でも、端的に没意識的な存在体とは区別して、意識の主体=“自我”として認める配慮があってもよいと思う。われわれとしては、動物や嬰児に関しても他我認識を云々しうることになる。