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紙の本
草森の中国文学エッセーの傑作がここにある
2010/11/26 18:57
10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、中国文学の専門家にして古今の中国に関する膨大な文献に目を通されている草森紳一氏による中国エッセー集である。表題はタイガーバームガーデンについてつづった第一章「南山何ぞ其れ悲しきや」の第一節「銭は神に通ず」を拝借したものである。本書の各章の表題は草森氏のライフワークである夭折した詩人李賀の詩「感風五首」其三からとったものとなっている(おしゃれ!)。
第二章「鬼雨空草にそそぐ」は中国知識人に関するエッセーをまとめたもの。第三章「長安夜半の秋」は華僑たちが日本に建てたお寺で執り行われている中国盆の模様を取材した旅行記。第四章「風前幾人か老ゆ」は柴田錬三郎が書いた三国志や吉川英治が書いた「新水滸伝」への跋を集めたもの。最後の第五章「低迷す黄昏の道」は中国関係の本について草森氏が書いた書評をまとめたものである。
それぞれの章の節は、草森氏が時期も媒体もバラバラに書いた小品をつなぎあわせたもので、相互に全く関係があるはずがないのだが、それを寄せ集めると「あーら不思議」、一個の書き下ろしであるかのように読めてしまうのは編集の腕であろう。
本書を読んで痛いほど身にしみるのは、中国人という存在が如何に我々日本人とはかけ離れた存在であるかということだ。相互の繋がりが強く、社会的な相互監視や統制が行き届いた「絆」の強い我が日本社会と違い、中国人の社会は酷薄、冷酷無比、残忍である。そこで展開される権力闘争は凄まじく、派閥争いに敗北すると死が待っていることは、何も文化大革命当時の中国共産党だけの話ではない。科挙という超難関の試験を突破したスーパーエリート官僚の間でさえ激烈な権力争いが日々展開され、負けると死が待っていたという記述には驚いた。日本の官庁でも権力闘争はあるが、負けてもせいぜい天下り先の優劣が変わる程度で殺されたりはしない。中国では平気で相手を殺す。ここが違う。日本人は国家を信じ日本社会を信じている。これは昔からそうで、タイへ渡ったサムライも、ルソンに渡った商人も思いはひとつで「いつ祖国へ帰れるか」だけだったそうだ。中国人や韓国人は平気で祖国を捨てて移民するが日本人はしない。それが日本人がつくる思いやりに満ちた慈悲深い社会の住み心地が、中国人や韓国人がつくる冷酷無比な社会より遥かに住み心地がよいからに他ならない。草森氏は中国人がカネ、カネ、カネと銭を神のごとく信仰するのは国家への不信が背景にあるという。「国はだれがどんな思想や主義をもっておさめようと同じであり、カネだけがわが身を守る神だという観念が、長い歴史の中で、(中国人の身体に)しみこんでいる」と草森氏は喝破する。清浄な日本の神社や仏閣と違い、中国人やインド人の寺に行くと独特の生臭さが漂っていて私は必ず嫌悪感(吐き気)を催すが、その背景に中国人のドロドロした怨念や絶望があるんだと知ると、益々中国寺院やヒンドゥー寺院に行きたくなくなった。
本書を読んでの発見は柴田錬三郎氏が草森氏同様慶應大学文学部中国文学科を卒業した中国通で、身過ぎ世過ぎのために書いた流行小説は彼の本意ではなく柴錬三国志こそ柴田氏が心血を注いで書き上げた大作だったということだ。確かに本書を読む限り、柴田錬三郎氏の漢籍素養を踏まえた文章には力強さがある。リズムがある。
中国人が好む歴史書は「後世の人間が政治を執る上に役立つようにという発想のもとにつくられたハウツー本である」という草森氏の指摘も重い。
しかし何と言っても一番おもしろかったのは、毛沢東の護衛長が記した以下のくだりだ。組織のトップというのは孤独である。周りは阿諛追従を述べるおべっか使いばかりとなり偽の情報ばかりをあげて本当の情報をあげてこない。そこで毛沢東は本当のことが知りたくなり「俺に本当のことを教えろ」と部下に檄を飛ばす。大半はこの檄を無視するのだが、中には毛の話を真に受けて、うっかり「本当のこと」を言う奴が出てくる。しかし「ほんとうのことを知りたがっていた」にもかかわらず、いざ「ほんとうのことを話す同志」が出てくると毛沢東の心は穏やかでなくなったという。誰だって直諌は耳に痛い。英明であればあるほど、自分の考えをきちんと持っているわけであるから、己の考えに反する「直諌」に出くわすと、そのままズシーンと心に大激突し、つい身構えるのが「人間」なんだと草森氏は言う。己に逆らう奴は、やはり許せない。心では直諌を受け入れようと試みても、体が「こいつ、許してなるものか」と動いてしまう。人間、「我」の力学には逆らえないのである。要するに、どんなに偉い指導者でも(毛沢東ですら)自我を越えられないのが人間の悲しさで、だからこそ下に仕える人間は権力者に阿り阿諛追従を述べざるをえなくなるわけだ。「逆命利君」など、遠い遠い架空の世界のたとえ話であって、現実はかくも冷厳なものなのである。これは組織に生きるエリートしては身につまされる話である。