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- カテゴリ:一般
- 発行年月:1992.4
- 出版社: 第三文明社
- サイズ:18cm/260p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-476-01199-3
紙の本
精神のエネルギー (レグルス文庫)
ベルクソンの哲学を最もよく理解する方法は、ベルクソンの哲学の方法をそのまま実践して、ただちに「出発して歩くこと」である。そしてベルクソンの思想に直接入っていくことである。...
精神のエネルギー (レグルス文庫)
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商品説明
ベルクソンの哲学を最もよく理解する方法は、ベルクソンの哲学の方法をそのまま実践して、ただちに「出発して歩くこと」である。そしてベルクソンの思想に直接入っていくことである。「意識と生命」「魂と身体」「夢」などをめぐる、講演・論文集。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
哲学の仕事=魂の研究
2001/02/15 00:00
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
「私が私であること」の実質、あるいは「私」の同一性と連続性を支える根拠は何か。こうした問題を考える上で、ベルクソンの思索を追体験することは有益な作業だ。本書はその格好の入門書であると思う。
たとえば「魂と身体」という本書に収められた講演で、ベルクソンは、「魂の生活をそのすべての現われたかたちにおいて研究すること」が哲学の仕事だと語っている。ベルクソンはそこで「魂」を精神あるいは意識を表現する語として使用しており、物質すなわち身体と対比させている。そして、魂と身体、精神と物質の関係をめぐって独自の考察を加えているのである。
ベルクソンは哲学上のいわゆる「心身問題」を取り上げるに際して、「常識の直接的で素朴な経験」が語る事実そのものに直接に向かう方法を採用する。そして、魂・精神であれ身体・物質であれ、いずれか一方に偏した議論を(とりわけ、自然科学の心身平行論を)排するのである。
《実際、経験はわれわれに何を語っているのでしょうか。経験はわれわれに、魂の生活、或いはもっとよい表現の方がいいと言われるならば、意識の生活が身体の生活と結び付いていて、両者のあいだにつながりがあるということを示していますが、それ以上は何も示していません。(中略)服はそれがかけられている釘とつながりがあります。釘を抜けば服は落ちます。釘が動けば服も揺れます。釘の頭がとがりすぎていれば、服に穴があき、破れます。しかし、釘のそれぞれの細部が服の細部と対応しているとか、釘と服とが等しいという結論にはなりません。まして、釘と服とは同じだということにもなりません。それと同じように、意識はたしかに脳とつながってはいますが、だからといって脳が意識の細部のすべてを描くとか、意識は脳の機能だということにはならないのです。観察と実験、つまり科学によってわれわれに確認できるのは、脳と意識とのあいだの何らかの関係の存在だけです。》
ベルクソンはこのように述べ、「あらゆるところで身体を超え、それ自体を新たに創造しつつ行為を創造する」ものとして、自我あるいは精神・魂をとらえる。そして、霊魂の不滅という形而上学の問題を「経験の領域」に移していく。私たちは彼の思索の跡をたどることによって、魂の行方をめぐる問題を、あたかも観察と実験を重んじる自然科学者のように論じることができる場所へと案内されたのである(もっとも、そこでなされる実験とはいわゆる思考実験に他ならない)。
だが、私には腑に落ちないことがある。それは、ベルクソンは結局、意識一般、精神・魂一般を問題にしているだけなのではないか。そこからは、「他ならぬこの私」という謎めいた思いを解明する手掛かりは見出だせないのではないか、というものだ。もちろん彼は意識そのものの本性についても考察をめぐらし、「持続」というよく知られた考え方を提示しているのだが、それとて私には意識一般についての議論にしか思えない。
この点は、ベルクソンの全著作を詳細に読み解くことであるいは解決するかも知れないし、そもそもベルクソンの「問題」と私の「問題」は違うものなのかもしれない。
ところで私はここでもう一人の哲学者(反哲学者というべきか)の名を想起している。つまり、ウィトゲンシュタインの文章を参照することで、議論を先に進めることができるのではないかと思っている。論点は、魂は複数存在するのか、あるいは「私」の魂にとって他者とは何かということだ。