紙の本
詩は神に与えられる
2001/02/18 23:51
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:55555 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヨシフ・ブロツキー(ロシア、1940−1996)のノーベル文学賞受賞講演をまとめた本である。ただ解説にあるブロツキーの逸話だけを書きたい。
1963年ブロツキーは徒食者として逮捕された。その裁判の記録
裁判官「いったい、あなたの職業はなんです?」
ブロツキー「詩人です。詩人で、翻訳もします」
裁判官「誰があなたを詩人だと認めたんです?誰があなたを詩人の一人に加えたんです?」
ブロツキー「誰も」(挑戦的な態度はなく)「じゃあ、誰がぼくを人間の一人に加えたっていうんです?」
裁判官「でも、あなたはそれを勉強したんですか?」
ブロツキー「何を?」
裁判官「詩人になるための勉強ですよ。そういうことを教え、人材を養成する学校に、あなたは行こうとしなかったでしょう…」
ブロツキー「考えてもみませんでした…そんなことが教育で得られるだなんて」
裁判官「じゃあ、どうしたら得られると思うんです?」
ブロツキー「ぼくの考えでは、それは…神に与えられるものです」
紙の本
詩作は世界感覚の巨大な加速器
2006/09/13 11:25
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:仙道秀雄 - この投稿者のレビュー一覧を見る
再読三読することになると思う。コンパクトだが、意味深い言葉が散りばめられており、豊かで実り多い作品である。
以下引用
詩というものは、ごみくずから生まれてくるものです。
芸術が何かを教えてくれるとすれば、それは、人間の私的性格でしょう。自分が個別で、独自な、二つとない存在であるという感覚を持つように人間を鼓舞し、人間を社会的動物から個人へと変身させるのです。多くのものは、他人と分かち合うことができます。しかし、詩は人間に1対1で話しかけ、仲介者ぬきで直接の関係を結びます。「皆と違う表情」を獲得することにこそ、個人として生きることの意味があるのではないでしょうか。
人間に課せられた仕事は何よりもまず、自分自身の人生を生き抜くこと。外から押しつけられた人生、指示された人生は、それがどんなに上品に見えるものでも駄目なのです。文学が素晴らしいのは、それが常に反復を避けようとするからです。その発展を決定するのは芸術家の個性ではなく、素材そのものの力学と論理であり、また毎回質的に新しい美的解決を見つけるよう要求する表現手段が辿ってきた運命なのです。
ホモ・サピエンスはもう進歩を止めるべきだという判断が下されたとき初めて、文学は大衆の言葉で話すべきだということになるでしょう。そうでない限り、大衆のほうが文学の言葉で話すべきです。
新しい美的現実はどのようなものであれ、倫理的現実を人間のためにより明確にしてくれます。なぜなら、美学こそは倫理の母だからです。審美的な選択は常に個人的なものであり、審美的な体験は常に私的な体験です。新しい美的現実はどのようなものであれ、それを体験する人間をいっそう私的な個人に変え、このような私的存在のあり方は、時に文学的な趣味の形をとることがありますが、・・・人間を奴隷化から守る一つの手段となりえます。
個人の美的体験が豊富であればあるほど、趣味はしっかりしたものになり、道徳的な選択も明確になり、そして個人はより自由になります。人類学的な意味において人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在です。
詩人は続に詩神の声(ミューズ)と呼ばれるものが実際には言語の命令であることを常に知っています。つまり、詩人が言語を自分の道具にしているのではありません。言語のほうこそが自らの存在を継続させるための手段として詩人を使うのです。
言語は書き手よりも常に年上であるにもかかわらず、いまだに膨大な遠心力を持っています。この遠心力は、言語の持つ時間的潜在能力、つまり前方に横たわるすべての時間によって与えられるものです。この潜在能力の大きさを決めるのは、・・・その言語で書かれている詩の質なのです。
詩を書く者が詩を書くのは、何よりもまず、詩作が意識や、思考、世界感覚の巨大な加速器だからです。
そういわれてみるとわたしの思考は詩考でもあるかもしれない。音楽への直観もまた詩考かもしれない。この詩人について興味を持続させたいと思う。
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ソヴィエトからアメリカへ追放され、二つの言語で作品を遺したヨシフ・ブロツキイの、1987年における講演。
人間に使命があるとすればそれは何よりもまず自分自身であること、反復を受け容れない個人であることであり、言語を持った人間にとって詩というものが常に根源的な存在であるということを、詩人は明徹な穏やかさで語っている。
人間が言葉から逃れなれない以上、そして言葉の軽視が自己の軽視として自らに返ってくる以上は、この講演を言葉に関わる全ての人、つまりあらゆる人間、すべての個人に読んでもらいたい。本文30余頁。沼野充義の解説も簡潔で優れている。
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「全人類の幸福の熱烈な擁護者や大衆の支配者たちが小さなゼロたちを操ってやろうとたくらんでいるとき、芸術はそのゼロたちの中に「ピリオド、ピリオド、コンマ、マイナス」と記号を書き込んで、ゼロの一つ一つを、常に魅力的ではないにしても、ともかく人間らしい顔に変えてしまうのです」
この表現が素晴らしいと思う。ここでの「大衆の支配者たち」とはヒトラーやスターリンのことで、彼が生まれたソビエトでは、スターリニズムが支配していた。その全体主義の中で、抗いとして、芸術、特に文学は画一化からの逃げ道となっていた。自らが深く親しんだ文学に対しての全幅の信頼と礼賛は、そんなブロツキイの生い立ちから自然に育まれた思想でもあった。
「こんな風に言語の虜になった人間こそが、おそらく、詩人と呼ばれるのです。」
芸術は、人間に私的性格を教える。それを体験する人間をよりいっそう私的な個人に変える。一生を文学と共にしたブロツキイも多聞に漏れず、詩人である前に私人だったのだ。
粛清と統制の時代から離れた現在であっても、ブロツキイの礼賛はやはり響く。
色が着いていない純朴な若手が欲しい。
こんな独りよがりのコメントから、ファシズムのそよ風を感じないだろうか。せっせと歯車を作っている片隅で、芸術は今日も私たちにピリオド・コンマ・マイナスをつけようとしている。
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ノーベル賞を受賞したロシア(アメリカへ亡命)の詩人の受賞講演。
大衆よりも己も含む其々の個にこだわり、国家や社会に弾圧される個の怒りを想う。その中での変わらぬものとして、詩人が発する言葉の絶対を言い、それらが読み継がれて行くこと、結果心に根付くことを切望していた。
時として、書物(とりわけ詩)を読む者は悪人にならない等の飛躍的発言から、いささか高慢で偏屈な匂いもするのだが、誇り高い実直さも伺え、言葉は違えどその先にある想いは同じなのかもしれない。
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たった60ページの講演であるが、これを読んで色々と考えさせられた。
国家という社会保障や再分配の仕組みが無くなって、先鋭で審美眼に優れた詩人が置き換わることを夢想しました。これは詩による革命を謳った書といえるものだと考えます。
国家は成立した時点でレガシーな存在であるのに対し、詩人はミューズの声を聞き、詩作が意識や、思考、世界感覚の加速器であるのだから常に現在であり明日であり続ける。
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ノーベル賞受賞者の講演、演説はしばしば書籍化されているらしく、今回このヨシフブロツキーの受賞講演が自分にとって初めて手にとった講演記録となった。
そもそもヨシフブロツキーとは誰なのか?
簡単に言えばロシアの詩人、としか言いようがない。例えば祖国であるソ連からアメリカへ亡命し、急変する時代のさなかをしなやかに生きた芸術家と言ってもいい。
しかしこの講演記録を読み終えて思う事と言えば、そんな個人的背景よりも詩人として煮詰まった彼の言語選択の卓越性や芸術にかける献身的な愛を思わざるを得なかった。
ブロツキーの言うロシア語の重要性をまさかこんな所で直感的に認識してしまうのか、という後悔と共に、ロシア語という言語を理解できない自分の薄学が悔やまれた。
芸術と詩を隔てる明確な線引きをあえてすることで確実な政治介入を構想し、互いが引き合う関係を築く、全ての面において前進的なプロセスを導きだした。
ナボコフの詩が我々に何かを与える過程を口にするならそれは「読む」というよりも「体得」と言う方が賢明だろう。
この本を読む事によって詩の重要性を理解できるだけでも、それはそれで素晴らしい。
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わたしにはロシアの詩人ブロツキイの詩がなじめないが、散文は心に響く。
このノーベル賞受賞講演は詩人たちは何ものか、その核心をを簡潔に語っている。
川端康成の受賞講演も感動的であったが、迫力という点ではブロツキイが圧倒的である。亡命詩人ゆえの力であろう。
彼を主人公とする「文学裁判」を紹介しておこう。
1963年12月、詩人ブロツキイは定職につかない有害な「徒食者」として逮捕され、レニングラードで裁判にかけられた。
裁判官「いったい、あなたの職業は何です?」
ブロツキイ「詩人です。詩人で翻訳もします」
裁判官「誰があなたを詩人と認めたんです?誰があなたを詩人のひとりに加えたんです? 」
ブロツキイ「誰も。じゃあ、誰がぼくを人間のひとりに加えたっていうんです?」
裁判官「でも、あなたはそれを勉強したんですか?」
ブロツキイ「何を?」
裁判官「詩人になるための勉強ですよ。そういうことを教え、人材を養成する学校に、あなたは行こうとしなかったでしょう・・・・」
ブロツキイ「考えてもみませんでした・・・・そんなことが教育で得られるだなんて」
裁判官「じゃあ、どうしたら得られると思うんです?」
ブロツキイ「ぼくの考えでは、それは・・・・神に与えられるものです」
(引用 沼野充義訳)
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芸術は人生の唯一性を保証するんだな。まさに科学の反対だと言える。
だから大衆の支配者は芸術を嫌う。
<以下印象に残った箇所>
・人間に課せられた仕事は自分自身の人生を生き抜くこと。外から押し付けられた人生、指示された人生は、それがどんなに上品に見えても駄目なんです。人生は一度限りのものであり、そのチャンスを他人の外見、他人の経験の模倣のために、つまり同語反復のために浪費してしまったら、さぞかしくやしいことでしょう。
・人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在です。
・支配者を選ぶときは政治綱領ではなく読書体験を選択の基準にしたなら地上の不幸はもっと少なくなるでしょう。
・もっとも思い犯罪は本を軽視する事。本を読まないこと。
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1987年ノーベル文学賞受賞講演。
「詩を書く者が詩を書くのは、何よりもまず、詩作が意識や、思考、世界感覚の巨大な加速器だからです」
と最後に語っている。
この部分を読んで、文学系をぞんざいに扱おうとするその原因の一つは、これなのかなと感じた。
言葉は生き延びる。
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私もブロツキーになりたい
たいそうなことを言うつもりはありませんが、少なくとも、ディケンズの小説をたくさん読み耽った者にとって、いかなる理想のためであれ自分と同じ人間を撃ち殺すことは、ディケンズを読んだことのない者にとってよりも難しいだろうと、私は-経験からではなく、残念ながら理屈の上だけですが-考えます。