紙の本
2000/3/20朝刊
2000/10/21 00:17
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:日本経済新聞 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」。本書はナショナリズムを大胆に再定義した。ナショナリズムとは民族意識の覚醒でも何でもなく、何もないところに「国民」を発明する操作にすぎないという。
そんな「文化的人造物」がなぜ、数百年も命脈を保ってきたのか。第三世界の国家成立を分析した著者は、資本主義を要因にあげる。「やつら」と「我々」は何が違うのか。言語や宗教ではない。メディアを通じた情報の共有や繁栄こそが、国民意識や連帯感を醸成するというのだ。
国際サッカー人気のせいか、日の丸を手にする若者が増えている。ナショナリズムは「他のイズムとは違って……いかなる大思想家も生み出さなかった」が、票にも商売にもなる。「ナショナリズムの魔術」は健在である。(城)
(C) 日本経済新聞社 1997-2000
紙の本
読むたびに発見がある本
2021/02/27 22:43
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投稿者:せきた - この投稿者のレビュー一覧を見る
2021年に再読したところ、著者はナショナリズムに同時性、時間横断的に水平に共有される意識に注目し、強調しているのであろう点に気づかされた。
当時のロシアでは、とか日本では、と言うとき、当時の人は誰一人、現代人がイメージする領域をイメージしていないことは重要だ。ましてや王などの統治者は領民を同胞などと想像だにしないだろう。
そして、著者による意味創造の経験としての旅、巡礼の発見。
この本は非才には幾度となく読み込まないと著者の真意にたどり着けない。名著と呼ぶにふさわしいです。
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内容:ポストモダン的な発想でナショナリズムの「起源」と「種類と変遷」を書いた本。ナショナリズムの前にあったのは王権制と宗教共同体で、まず新聞と時間の観念の変化でこれらに変わるnationという考えができて・・・とかって始まるけど、最後のほうはだんだん怪しい。
感想:「国民とは想像された共同体である」と言っただけでありがたがるレビューも散見されるがそれも悲しい。ナショナリズムをイデオロギーとして捉えずに、ただその起源とその種類、変遷を追いながらナショナリズムを考えてみようという本であって、結論というよりもいろんなところに論点を孕んでいるとしたほうがいい。でも二回読んでようやく半分くらい分かっただけの僕にはどう料理すればいいかわかんない。個人的には愛国心といったときの「国」はnationなのか、システムとしてのstateなのか、などという視点から考えられるようになったのは大きい。細かい論点で面白いところはもっとあるけど、まあ20世紀の名著100とかによく入る本だし、暇なら読んでください。といっても僕は一人では絶対に読めまてせんでした。
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ゼミの参考文献で読みました。国家とナショナリズムの関係を説いた一冊。グローバリゼイションの進むいまだからこそ読まなきゃです。
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それほど斬新なことは書いていない気がするのですが、なぜか大学院生のバイブルみたいな存在になっているとは思いつつも、それなりに楽しく読了いたしました。
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ナショナリズムは想像されたものだと主張するアンダーソンの名著。想像の共同体がつくられる上での、スタートラインの共通言語、その共通言語を通した印刷物、新聞,雑誌などによる歴史や価値、文化等の共有、さらには無名戦士の墓や博物館、移籍等の想像の共同体の時間軸の連続性を体感させ、人々に永続的に存在していたかのように思わせる実体。
国家とは何かという質問に対し、領域、主権、国民などというシステム的な答えではなく、それは人々に想像されたもの=即ち本来は実体がなく、それぞれの要素に支えられているに過ぎないと答えるアンダーソンの視点はおもしろい。また文章表現も豊かで読みやすい。
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ナショナリズムというと、60年代的左翼的な意味での国家、特権階級による民衆抑圧的な権力装置を連想していた。だが、今回この本を読んで初めてネーションステート、国民国家という概念装置を知った。国語と資本出版業の発達によってひとつのネーションが、想像の共同体が、人々によって構成される。それにあぶれた貴族が、権力を取り返すために、周辺部に場所を移したのが、植民地支配、そしてそのための公定ナショナリズム。政治的で読みづらかったが、かなりおもしろかった。10.1-5.
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「国」に属する限り、起源を知らない。
では済まされない。
近年、もてはやされるナショナリズムの根源が垣間見える。自分の「国」に対する考え方を改めることが出来る。
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ナショナリズムの名著。
吉本隆明の方が似たようなことを早い時期に言っていたが。
同じ作者の新書の方もイイ。
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ナショナリズムを論じた代表的古典。授業の参考文献に出てきたので読んだ。
この本は、ヨーロッパ・アメリカ大陸・第3世界におけるナショナリズムの発生をそれぞれ分析し、その起源と流行を追ったものである。
ヨーロッパにおけるナショナリズムの発生が起こったのは、宗教共同体の衰退により、それまで当たり前だと思われていた価値観・生活・文化が衰退し、それらとは異なる考え方が生じたことで、「想像上のつながり」が生じたからである。その衰退に一役買ったのが、出版資本主義による俗語の発展・中産階級の発展である。
また、アメリカ大陸での植民地政策による本国民と植民地民との格差が
国民解放運動を呼び、さらにその運動がヨーロッパでの新たなナショナリズム運動を生む。言語の制定や国民主義運動の高まり、資本主義の発達など、当時の支配者を悩ませる難問が生じたのだ。
そして、これらを通じてできたナショナリズム運動のモデルを、植民地生まれだが本国で教育を受ける人間(ex.ガンジー)が学び、生まれた植民地へ戻り、そのモデルを実践することで、植民地でのナショナリズム運動が広まった。
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国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの[最高の意思決定主体]として想像されると。p24
ドブレ「しかし、わたしがフランス人に生まれたのはまったくの偶然である。されどフランスは不滅である」p34
出版資本主義(プリント・キャピタリズム)こそ、ますます多くの人々が、まったく新しいやり方で、みずからについて考え、かつ自己と他者を関係づけることを可能にしたのである。p64
人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した。p86
経済的利害、自由主義、啓蒙主義などは、視野の中心にある憧憬ないし嫌悪の対象に対立するものとしての新しい意識のフレームワークーほとんど意識されないでいながら、その視野を規定し、それを通して我々がみる眼鏡のフレームーを提供するものではなかった。この特定の任務の達成のために、遍歴のクレオール役人と地方のクレオール印刷業者は、決定的な歴史的役割を演じたのである。p111
【19世紀ヨーロッパ・ナショナリズムの胚胎】
ホブズボーム「学校と特に大学がナショナリズムの最も自覚的な戦士となるにつれ、学校と大学の進歩がナショナリズム進歩の物差しとなる」p125
19世紀を特徴づける読み書き能力、商業、産業、コミュニケーション、国家機構の全般的成長は、それぞれの王朝において、俗語による言語統一への強力で新しい推進力を生み出した。p132
【公定ナショナリズム】
これを理解するには、それが、とりわけ中世以来集積されてきた広大な多言語領土において、帰化と王朝権力の維持とを組み合わせる方策、別の言い方をすれば、ネーションのぴっちりとひきしまった皮膚を引きのばしてエンパイアの巨大な身体を覆ってしまおうとする策略である、とするのがもっともわかりやすい。p147
Cf. 帝政ロシア化
出版物を読みまた書くこと、これによって、すでに述べたように、想像の共同体は均質で空虚な時間の中を漂っていくことが可能となったのだった。二つの言語を使いこなすということは、すなわち、ヨーロッパ国家語を経由して、もっとも広い意味での近代西欧化、とくに十九世紀に世界の他の地域で生み出されたナショナリズム、国民、国民国家のモデルを手に入れることができるということであった。p192
主としてアジア、アフリカの植民地に打ちよせたナショナリズムの「最後の波」は、産業資本主義の偉業によってはじめて可能となった新しい型の地球的帝国主義への反応として発生したものであった。p217
資本主義はまた、印刷出版の普及その他によって、ヨーロッパにおいては俗語にもとづく民衆的ナショナリズムの創造を助け、そしてこうした民衆的ナショナリズムは、その程度はさまざまであれ、伝来の王朝原理を掘り崩し、可能なかぎり王朝を国民へと帰化するよう駆りたててもいった。
ついて公定ナショナリズムー新しい国民的原理と古い王��原理の溶接ーは、便宜上「ロシア化」とも呼びうるものを、ヨーロッパ外の植民地にもたらした。
ある特定の教育的巡礼と行政的巡礼の組み合わせ、これが新しい「想像の共同体」に領土的基盤を提供し、そしてこの想像の共同体のなかで、「土民(ネイティブズ)」は自分たちを「同国人(ナショナルズ)」と見なすことができるようになった。p218
資本主義が、物理的、知的コミュニケーションの手段を加速度的に変えていくにつれ、インテリゲンチアは、想像の共同体を宣布するにあたり、文盲の大衆に対してばかりでなく、異なる言葉を読む識字者大衆に対してすら、出版を迂回する方法を見出すようになったのである。p219
恋する者の目ー彼または彼女が生まれもつあの特定のふつうの目ー、これにあたるのが愛国者にとっての言語ーいかなる歴史の経緯によってか、彼または彼女の母親となった言語ーである。母の膝の上で出会い墓場にて別れるまで、その言語を通して過去が蘇り同胞愛が想像されそして未来が夢みられる。p250
【地図とは】
トンチャイ「ほとんどすべてのコミュニケーション理論と常識からすれば、地図は現実の科学的抽象である。地図はすでに「そこに」客観的に存在するものを表示する。わたしの描いた歴史においては、この関係が逆転された。地図が空間的現実のまえにあったのであって、その逆ではなかった。別言すれば、地図はそれが表示すると称するものを生みだすためのモデルであって、現にそこにある空間的現実のモデルではなかった。[中略]それは地表に平面図を具体化する現実的手段だった。地図はいまや新しい行政の機構とその主張を支援する軍隊にとって必要なものとなった。[中略]マッピングの言説はひとつのパラダイムであり、このパラダイムのなかで行政が実施され軍事行動がとられ、またそれがパラダイムに役立つことにもなった」p287-288
【人口調査、地図、博物館】
人口調査、地図、博物館は、こうして、相互に連関することにより、後期植民地国家がその領域について考える、その考え方を照らしだす。この考え方の縦糸をなしているのは、すべてをトータルに捉え分類するグリッドであり、これは果てしない融通さをもって、国家が現に支配しているか、支配することを考えているものすべて、つまり、住民、地域、宗教、言語、産物、遺跡、等々に適用できる。p299
ロゴは、それが空っぽであること、なんのコンテクストもないこと、視覚的に記憶されること、あらゆる方向に無限に複製可能であることによって、人口調査と地図、縦糸と横糸を消しようもなく交わらせたのである。p301
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2011 9/23パワー・ブラウジング。筑波大学図書館情報学図書館で借りた。
そういや有名なのに読んでなかったな、と思い手にとったナショナリズムについての本。
今回はざーっと流し読んだだけ。
イメージは掴んだので必要に応じて再読する。
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今月の16冊目。今年の70冊目。学術書。
はっきし言って全然何言ってるのかわかりませんでした。ただ有名な本なのでね、まぁ今更ながら、読んでみましたけど・・・。いやー、ほんと自分の勉強不足が露呈しました。ナショナリズムって難しい。もっとナショナリズムの本を読まないと、だめなんでしょうけどね。まぁあんまり興味もないとこだからな・・・。機会があったら、また読みます。多分。
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国家が想像の共同体であることを仮定とし、クレオール文化はじめ、世界史の検証によってそれを明らかにする書物。
もともと中世は王や宗教主導の共同体だった。しかし、出版資本主義の台頭によって民衆のリテラシーが高まり、それが崩壊していく(特に話し言葉から書き言葉への軸の変化)。そこで公定ナショナリズムが表れる。これは民衆と王ないし貴族を皇帝主義(ロシアやドイツ、日本のような体制)によって統合するというもの。だが、それも限界になり、植民地ナショナリズムへと変わっていく。これは本土の人間の方が、植民地の人間よりその本土らしいということを強調するためのシステム。このように、ナショナリズムは時代によって想像されていった。
今日、日本では「外人が来たら日本人らしさが失われる」という差別主義が生まれている。同時にそれが「誤ったナショナリズム」に結びつこうとしている。しかし、本来、ナショナリズムは「社会をつなぐ接着剤」であると同時に「偏見を乗り越え未来の行動を生むもの」である。本来のナショナリズムにいかに近づいていくか?
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ナショナリズムを考える時には、これらを実体としてとらえずに、国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるとしてとらえるべきだと考え、そのために、古今東西のさまざまな国家の分析から、このことを証明している本である。
とはいうものの、有名でありながらも中身は濃いので、[ナショナリズムの名著50冊」などを脇において、自分の読みが間違えていないか確認して読み進めた。
宗教、国家、言語、印刷技術、帝国主義などいろいろな考えはあれど、先の想像の共同体であるとの例証になっている。結論を分かった上で、いろいろな例証を読んでみると、難解だが読めないことはないと思う。