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商品説明
【伊藤整文学賞(第9回)】太平洋戦争から半世紀をへて、なお「戦後」と呼ぶことには、たしかに意味があるのではないか。いま生きられる場所の深部で「われわれの戦後」と出会い、真にラディカルな思考の回路を拓く力作評論集。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
加藤 典洋
- 略歴
- 〈加藤典洋〉1948年山形県生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。国会図書館勤務を経て、現在、明治学院大学国際学部教授。文芸評論家。著書に「アメリカの影」「ホーロー質」「日本風景論」など。
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紙の本
微笑する女の子
2001/09/13 12:19
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
数年前に、この「敗戦後論」が発表され、それ以後大きな議論を呼んだ本であったが、私はその時にはあまり関心がなかった。しかし、最近の日本の戦後に関する本を読むと本書はしばしば取り上げられている。それだけ評論としは近年かなりのインパクトのあった本なのだろう。それゆえに一度は読んでおこうと、遅ればせながらも今回はじめて手にしてみた。
この本で、大きな議論を呼んだ個所は、おそらく次の部分だろう。
「ここにいわれているのは、一言にいえば、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か、ということだ。」
戦後の日本は人格にたとえれば、ジキルとハイド氏のように二つに分裂して「ねじれ」を起こしていたのだという。この「ねじれ」があるかぎり、一方ではアジアの死者を悼みそのアジアに対し謝罪の態度を示せば、一方ではその反動で侵略ではなかったと発言するものが現れてしまう。加藤典洋は、まずは謝罪主体の構築が必要であり、そのためにも人格分裂を克服しなければならないという。そして、アジアに対し謝罪するには、まずこの日本の三百万の無意味な死を無意味なまま深く哀悼し、そのことがアジア二千万の死者への哀悼へと繋がると述べるのである。
こうした論への反論として、高橋哲哉の「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けること」という態度を、「潔癖」であって違和を感じるともいう。そしてこの加藤典洋が感じた違和感をめぐって、「戦後後論」では太宰治とサリンジャーから「文学」は誤りえるものであると言い、そうした誤り得る状態での正しさのほうが、安全な真理の状態におかれた正しさよりも深いと。また、「語り口の問題」では、ハンナ・アレントが取り上げられ、ここでは「公共性」や「共同体」が考察され、先の高橋哲哉の態度がなぜ加藤には受け入れられないかというと、それが「共同体」の言葉であるからという。
全体を通して特に、「語り口の問題」を読んでから本書を振り返ってみると、アレントが「イェルサレムのアイヒマン」でその語り口が批難されたように、本書での加藤典洋の態度が「共同体」を刺激するものがあったのではないか、と思われる。本書で語られた問題が、たしかに戦後の日本では避けつづけてきた問題であったのは確かだ。「共同体」のタブーに触れているという感は否めない。だからこそ、大きな議論の対象にされたのだろうと実感できる。
で、さて問題は、この加藤典洋の提出した命題にどう対処するかだ。私自身は文学を研究しているので、やはり文学の側から考えてみる。そして思ったのは、加藤典洋が「戦後後論」の中で引用していたのだが、太宰治の「薄明」の場面、結膜炎が治ってようやく眼が開くようになった女の子をつれて自分の家の焼け跡を見にいくところだが、
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けちゃったね。」と子供は微笑している。
「兎さんも、お靴も、小田桐さんのところも、茅野さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。
と、こんな不思議な会話をしている。私は、この女の子ようなところから出発はできないのかと考えている。