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商品説明
大隈重信の屋敷に集い、明治政府を陰で操った居候たち。芸者の金で南洋に渡り「占領」してしまった後藤象二郎のドラ息子など、他人の家で食わせてもらう図々しい食客たちの波瀾万丈の物語。歴史と人間の真髄にふれる。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
草森 紳一
- 略歴
- 〈草森紳一〉1938年北海道生まれ。慶応義塾大学中国文学科卒業。評論家、中国文学者。著書に「写真のど真ん中」「散歩で三歩」など多数。
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紙の本
食客とは、衣食を主人に頼りつつ、主人に知恵を提供する「陰の参謀」あるいは「主人を支える藩屏」を演じる「客人(書生、居候)」のことである。残念ながら本書は既に絶版となっている。しかし悪いことは言わない、万難を排してでも本書を手に取り読むことを勧める。読んで損は無い。絶対にない。
2011/01/27 17:18
10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は『食客風雲録(中国編)』とセットで書かれたものだが、読み物としては本書の方が断然面白い。文章のリズムが全然違う。血沸き肉躍るとは本書の為にある言葉のようにさえ思える。中身としては、大隈重信が築地に構えた「築地梁山泊」に関する5章、明治の元勲後藤象二郎のドラ息子後藤猛太郎に関する7章、中江兆民と幸徳秋水を描いた1章からなる。
大隈重信から行こう。大隈は明治14年の政変で政界中枢から叩き出されるまで、参議として明治政府の中枢にいた。代々上士とは言え、ただの一士族に過ぎなかった大隈が政府の中枢に躍り出る。時にわずか33歳。しかも与えられた「官舎」は旧殿様の上屋敷で、敷地五千坪。そこを広く「食客」に開放し、連日連夜酒を酌み交わしては天下国家を論じた場所が、築地にあった大隈邸、別名「築地梁山泊」だ。江戸時代は殿様の時代で、その首都江戸は各藩の藩主が甍を競う「土一升金一升」の土地だった。その江戸の地価が明治維新と共に大暴落する。廃藩置県で糧道を断たれた殿様たちが一斉に江戸を引き払い、あとには引き取り手の無い大邸宅群が残された。大邸宅というのは、住んだことの無い人には分からないかもしれないが、恐ろしくカネがかかる金食い虫だ。日本庭園と言うのは、ちょっと手入れを怠ると、あっという間に崩壊する。木造家屋と言うのは基本的に痛みが速い。どんどん腐って行くので、気がつくと屋根が傾いていたりする。だから今は三菱地所の土地となっている東京駅前は、当時、三菱が原と呼ばれ、岩崎弥太郎が手に入れた頃は、ただの草茫々の原っぱで、買値は今から思えばタダ同然だったのである。大隈重信は本当に人に好かれる人だったようだ。本書を読むと、その一端を垣間見ることが出来る。ただ大隈は女性にはもてなかったようだ。男には大人気だった大隈が女性にはなぜもてなかったのか。理由は「大隈がケチだったから」と著者の草森は言う。大隈は「気前はよさそうだが、根はケチで、女性はそれをすぐ見抜く。それでは、もてない。その欠点を大隈はよく知っていた」と草森は書いているが、これを読んで思わず笑った。
しかし何と言っても面白いのが山あり谷ありの人生を太く短く生きた放蕩息子・後藤猛太郎の人生を描いた部分である
子供の知的レベルは遺伝が7割を占めると言われる。土佐藩の秀才として若くして頭角を現した後藤象二郎の息子だけあって、その頭脳は極めて明晰であったことが伺える。ただし猛太郎は「よく出来る秀才の息子」とは正反対の大酒飲みで放蕩の限りを尽くした蕩児だった。話はマーシャル諸島近辺で難破し、島に流れついた日本人漁民が原住民に殺害され食べられてしまうという事件が起こったところから始まる。外務大臣井上馨は秀才の誉れ高い後藤象二郎の息子猛太郎を事件の調査団団長に抜擢する。抜擢というと聞こえが良いが、放蕩が過ぎて象二郎に勘当されたドラ息子に改心と再挑戦の機会を与えようという井上馨の温情によるものであった。早期英才教育の結果(8歳から西洋人宅に預けられた)、英仏独に通じていた語学の天才でもあった。しかし父の親友の温情を仇で返すがごとくドラ息子猛太郎は外務省から支給された支度金千円(今の1億円くらい、いやそれ以上か)を調査出発前の横浜で一晩で飲んでしまう。政府からの命令である調査旅行を実行に移す前に、その前払い1億円を全部花街で蕩尽してしまったことに気がつくと猛太郎の随員たちは青ざめるが、猛太郎はびくともしない。この時、彼が言ったとされる台詞が人を喰っている。「諸君、心配したもうな」。そこから始まるのが七転八倒抱腹絶倒波乱万丈の猛太郎マーシャル諸島漫遊記だ。ネタばれになるので落ちは記さないが、草森紳一は猛太郎の随員鈴木経勲が書き残した『南洋翁回顧談』、『南洋探検実記』、外務省外交資料館に残された鈴木の帰朝報告書、夢野久作の父杉山茂丸が書いた『百魔』等の資料を縦横無尽に読みこなしながら、実際のマーシャル諸島調査旅行で何が起きたのかを解き明かしていく。
後藤猛太郎は、放蕩が過ぎたのか父象二郎に勘当されている。勘当されても明治の元勲の息子と言う名声は生涯ついて回り、彼の人生は貧困とは無縁であったように見える。最後は酒の飲みすぎがたったのか糖尿病で齢50歳で死んでいる(今なら夭折である)。
問題は、なぜ「秀才」猛太郎が、一高東大と進んでエリート官僚となるコースを歩まず、放蕩の限りを尽くす不肖の息子になってしまったかだ。これについて著者草森紳一は、例によって読み手の臓腑に突き刺さるような鋭い考察を行っている。
「偉人の息子は凡化する」という言葉がある。なぜ偉大なる明治の政治家・軍人の息子の多くが不良、不肖となり蕩児となったのか。その最大の原因は偉大なる父自身にあるというのが著者草森の見立てである。俗に英雄色を好むと言う。バイタリティに溢れ、エネルギッシュな明治の偉人達もその例に漏れず、多くが複数の愛人を囲っていた。後藤象二郎もそうで、彼の性欲は図抜けていて「ありあまりほど過剰であった」と草森は書いている。
明治の昔、「萬朝報」という赤新聞があった。それが明治31年7月7日から9月27日まで、ほぼ2カ月にわたって「弊風一班の畜妾の実例」と題するルポルタージュを連載した。政財界のお歴々がどこそこに何と言う妾を囲っているというのを実名入り、実住所付きで掲載したのだから天地がひっくりかえるような大騒ぎになった。血祭りにあげられた政財界の要人は510人。伊藤博文、井上馨も狙い撃ちにされたが後藤象二郎は既に鬼籍に入っていたので糾弾を免れたという。
外では偉そうに天下国家を論じ、人間かくあるべしと理想を論じる偉大なる父。しかし、裏では妻をないがしろにし若い愛人を使い捨てるようにとっかえひっかえで淫蕩の限りを尽くす父。そのすべてを目の当たりにし、父のいないところで、母が抱く父への怨み不満のすべてをサンドバックよろしくぶつけられる息子。こうなると「偉人の子供」は精神的に屈折せざるをえない。偉大なる父の表裏を見て育ち屈折した息子が選ぶ道は三つあると草森紳一は言う。第一は一切の放蕩を退け、修行僧のごとく糞まじめに生きる道。第二は父と同じにはなりたくないと心の隅では念じつつ、父同様に放蕩の世界に転落する道。第三はその中間ということだが、猛太郎は第二の放蕩の道を選ぶ。なぜ猛太郎は放蕩の道を選んだのか。キーワードは「僕の大好きなお母さんを苦しめた父に対する壮大なる復讐」である。官職に付かないことが第一の復讐(父の期待には絶対に沿わない)、父に迷惑をかけ続け父のメンツをつぶし続けるのが第二の復讐だ。転落の道を歩み、紅灯の巷に身をやつしても「明治の元勲の息子」の称号は生涯ついて回る。芸者にもてるのも借金が出来るのも半分以上は自分自身ではなく父の名声のお蔭だ。これが益々放蕩息子の心理を屈折したものにする。どうもがいても父の影から逃げ出すことは出来ない。それならいっそ開き直って悪乗りするしかない。猛太郎のように屈折し、放蕩の世界に転落した者は明治大正には沢山生まれた。吉井勇、志賀直哉、有島武郎等白樺派の作家の多くは放蕩息子である。