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投稿者:悠々 - この投稿者のレビュー一覧を見る
庄屋の老婆達が姥捨て山に旅立った。年若い嫁は詳しい事情も聞かされずそれを見送る。
嫁は自身の祖母のように頼りにしていた姑がいなくなった不安と、年老いた姑の体を案じて「お婆よい」と語りかける。婆も年若い嫁が年上の夫といまひとつなじめないでいる姿を不憫に思い「ぬいよい」と語りかけ、山での生活の哀れを語る。
この二人の互いへの語りかけで物語は進む。
なによりもこの語りの言葉の美しさが圧巻である。
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〜「さらばよ」と、おれも手をあげたなり。おれだちは昔、田植えの帰り道に手を振り合うたときのよに、いつまでも歩きながら振り返った。トセは林の道へしだいに消えて行った。〜
『Dr.HOUSE』でオープニングに大きな川がでてくるが、それを見たときと同じ気持ちになる。
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2009.09.27. 姥捨ての体をしているけれど、昔の知恵が生きた老人たちの暮らしの在り方だと思う。「楢山節」とは、違うと思う。"お姑(ババ)やい"、"ヌイやい"という、若い嫁と蕨野へ行ったリンとの語りかけで成り立っているというのも、慣れるまではちょっと往生したけど、読み進むごとに現実味を増していく。森の匂い、人間の生きてる匂いが立ち上ってくるようでした。読み終えた日に、ちょうど映画化されたものをテレビで見て、市原悦子の「ヌイやい」との語りが、とてもしっくりきてた。また読みたい。
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おばばよい、ヌイよい、と独特の方言によるやり取りが繰り返されていくうちに、どんどん物語世界に引き込まれた。悲惨なのに生命力があふれてる。
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口減らしのための姥捨てなどの老人を切り捨てる方法。自然と向き合い、さらにその自然の懐に一生をゆだねると決めた社会の掟は、日本中どこでも見られた光景だったのかもしれない。嫁からお姑よい、と声がけ、姑からは嫁をヌイよい、と呼びかけ語り始める。その語りの中にが、互いを気遣う気持ちが伝わってくる。
60歳、死を覚悟の蕨野入り。垢だらけ、髪は抜け、皮と骨だらけ、そんな最期は本当に仏のよう。末期目は見えなくても、老人が老女たちをイチイやエノキなどの木の実に例えて、思い描くシーンに慈しみを思う。老い支度、まさに死への恐怖を死への覚悟と変えてくれる本だと思う。還暦巡って零歳になるように、新たの命へと姑と嫁がつながる。まさに後に伝える昔話のようだった。
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しみじみとした情感に包まれる
死に逝くものの話であり
生まれ出でるものの話でもある
私たちが生きている
この地そのものが
蕨野行になっているのかも
知れない
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姥捨山に捨てられた老人達のサバイバルの物語!…はちょっと違うけど。(と思ったら、解説の辺見庸さんも「老人たちが余儀なく突入していくサバイバルゲーム」と表現していてびっくり。)
里の若い者達の食いぶちを減らすため、もう里には戻らない覚悟で自ら山にはいるが、それでも山で鳥やウサギを採ったり魚を捕まえたりしながら必死に生き延びようとする年寄りたちの姿が印象的だった。そのうえ里が飢饉にみまわれると、里に残した子や孫に山の肉をやろうと必死に罠を仕掛けるおじいちゃん…。生きるってこういうことだ!というものをどーんと見せつけられた気がする。そこには「姥捨」の伝説から受けるネガティブなイメージは、ない。
みんなが生きるために、社会を継続させていくために、老人たちが後続の若い人たちにすべてを委ねて道を明け渡そうとする姿に、心打たれました。
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方言なのか古い言葉なのか分からんけど、こんだけ何が書いてるのか分からんのに世界に引き込まれた作品は初めてやと思う。 読み辛かったし雰囲気で読んだ部分も多いから全てを理解したとは言い難いけど好き。 方言(?)を読むのに最初の数行で挫けたけど無理にでも最後まで読んで良かった。
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嫁と姑の関係に希望があるところがいい。
年を取ってもコミュニティから排除されても、生きる意欲や恋をする気力があるところがいい。
何より、厳しい土地厳しい状況の中でそれでも生きようとする人々の姿が美しい。
余談だが、ワラビたちは「寒の夏」でさえなければ、秋になって収穫を迎えたときに再び村に帰ることができたんだろうか。できたんだろうな。できたと信じたい。
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お姑(ばば)よい
ヌイよい
二人の語らいに
恍惚となりながら
読み進めたる
物語でありつつも
我にとって二人は
確かに存在した人生だと
感じつろう
押伏(おしぶせ)に生きた者らと比べ
我が人生がいかに
恵まれておったことか
であるのにひ弱なものと
なった我の半生を
恥ずかしく思うて今後は
二人のよに強く生きんと
考えたるよい
親兄妹、家族の為に
命燃やしたいと
願うばかりなり
そして
絶望と希望と感動に
満たされながら
読み終えたこの物語を
この神々しい文学を
いつまでも愛しく感じ
生きて行きたいと思うなりよ
(※文体は正確さを保証されていません
素人の書くブログです
ご了承ください)
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庄屋の家に後妻として嫁ぎ、お姑さんに暖かく家のあれこれ教わりながら暮らすヌイが、お姑さんに何か秘することがあると感じ、それを尋ねるところから、二人の問答が始まる。
この問答が、お姑よい。ヌイよい。との呼び掛けで始まり、古語のような方言のような柔らかい言葉でつづられる。そして、その村では60歳になると、家を出て蕨野という丘で、乞食のような集団生活を送るという掟があり、お姑はそれに従うことになると明かされて後、その蕨の衆として生きるようになってからも、延々と、二人のやり取りは続く。それは、離れている二人の心が共鳴してお互いを呼ぶというようなもので、巻末の解説には、「行間から琵琶に似た音の遠間に流れてくる」、「相聞」とも書かれている。苦境で何かを思う時、魂は不思議とリズムを刻むものかも知れない。
これも、巻末に書かれていることだが、いわゆる姨捨の話ではない。飢饉の時には、子を間引き、口減らしのため、嫁を家から出すことも語られる。そんな嫁たちが棄民として彷徨っていても、施しをすれば、村が飢えてしまうとして、捨て置くよう言われる。人肉を食べることを戒める話が語られる。
また、庄屋の家だからといって、蕨野行きや口減らしを免れることになれば、その不満から村が収まらず、庄屋の立場だからこそ、自ら掟を守らないとならないということにも触れられる。一方、嫁家から出された女たちが、人里離れた場所で野人として、生き抜く姿も描かれる。
そう書くと、苦しい物語のように見えてしまうが、実は、逆に、野に繋がった生が、びっくりするほど、おおらかで強いさまが心に染みてくる。
人は、天からの恵みの内、群れて生き、その恵みが限られる以上、その理の中で生きる他ないのだろう。その理に善も悪もなく、ただ、命があるだけなのかも知れない。
巻末の解説も含めて、滋味に富んだ、豊かな、哀しい物語でした。
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六十を過ぎた者は里を離れ野に建つ小屋に寝起きし、毎日里を訪れて仕事を貰い日々の糧を得るという暮らしに身をやつす。そうして老い衰えた者をふるいにかけ、豊かならぬ里は新陳代謝を図っていく。
長雨続きの不作で、生まれた赤子は濡紙を口に当てられ、若い嫁は嫁ぎ先に暇を出され生家にも入れて貰えず行き処を失う。過酷な暮らしで弱り果てていく老身。
憐れで惻々とした物語でありながら、姑レンと年若い嫁ヌイの間で交わされる語りかけに込められた慈愛と思慕の情が作品を優しさと温かみで縁取り、最後には一握りの安らぎと救いとがもたらされてもいる。
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独特の表現で初めは驚いたが、お姑よい、ヌイよい、と呼びかけあう会話にだんだんと引き込まれる。
押伏村では60歳になると、村から離れたワラビ野(いわゆる姥捨て山)へ行かなければならない。
ワラビ野衆となったお姑よい達の、死へと向かうはずの生活が凄まじいのだが、滑稽な明るさもあり逆に生命力を感じる。
非常に心に残る作品です。
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某所読書会課題図書:里とワラビ野の世界、重の森の墓所が設定されている中で、通常の生活をしている里の住民. 年齢を重ねることで、ワラビ野へ移住する老人たち.貧しい生活の中で集落全体が生き延びるための方策として、ワラビ野が設定されているが、そこで暮らす老人たちの何故か吹っ切れた生活態度が妙に親しみを覚えた.それに比較して、里の暮らしでは嫁に来た幼い娘が過酷な労働に耐えかねて自殺する件が何度も出てくるのは、読んでいて虚しさを感じた.老人たちは里へ支援に出かけることもあり、それなりの糧を得ているが、不作の年では自分たちが工夫して食糧を得ている逞しさが何故か微笑ましい.国が住民の生活をある程度支援する制度がない時代の話だが、自分たちの知恵を最大限に活用して生き延びていく時代が少し前までは普通のことだったことを再認識した.