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この文体に至るまでに、どれだけの苦痛を殺したのだろう。一見無味乾燥な描写だが、噛めばかすかに甘みがじわり。母子の世界観の相違を思う。母と自分との間に自力で線を引いた彼は、やがて自分の世界を確立するのだ。
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データなしにつき転用 家のは岩波文庫版
お父さんとの会話が忘れられません。
ルビック氏:「諦めろ。鎧兜で身を固めろ。それも20になるまでだ。性質や気分は変らんでも、家は変えられる。われわれ親兄弟と縁を切ることもできるんだ。それまでは、上から下を見下ろす気でいろ。神経を殺せ。そして、他の者を観察しろ。お前のいちばん近くにゐる者たちも同様にだ。こいつは面白いぞ。わしは保証しとく、お前の気休めになるような、意外千萬なことが眼につくから。」
にんじん:「それやそうさ。他の者は他の者で苦労はあるだろうさ。でも、僕あ、明日さふいう人間に同情してやるよ。今日は、僕自身のために正義を叫ぶんだ。どんな運命でも、僕のよりやましだよ。僕には、一人の母親がある。この母親が僕を愛してくれないんだ。そして、僕がまたその母親を愛してゐないんぢゃないか。」
「それなら、わしが、そいつを愛していると思ふのか」
我慢ができず、ルビックし派ぶつけるやうに云った。
なんと1894年のAC小説
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どんな話かは一言で言い表せない。一話一話が2~3ページで収まる短編集のような構成となっている。一見すると、にんじん一人だけが、他の二人の兄姉に比べて母親に冷遇されてひどいことをされるという悲しい話とも捉えがち。しかしにんじんがそのことに関して特別悲嘆にくれ続けているわけではない。日常のことに関して男子のよくある見栄心とかそういった感情が多く書かれている。それに、ではにんじんが聖人君子のような人間なのかと言われれば、ザリガニ捕りのために猫を殺したり、寧ろその対局にあるような行動が多い。そのため、一重に悲劇とは言い切れない。
この話は恐らくにんじん目線での様々なエピソードを書いているもの。なのでこの話を読んでいくとにんじんの母親に対する心情なんかも段々わかってくる。わかってくるが、物語は特に終始進展も後退もない。一応、最後の話でにんじんは希望を父親に打ち明けるが、これまでどちらかといえば味方だった父親に打ち砕かれて終わる。ここの話で一気に父親に対する読み手の好感度が下がるなぁ。
このにんじんと母親の関係はどうして生まれたのか、作中では語られない。そこもモヤモヤするし、晴れ晴れとした最後でもないし、読みやすい長さと文章にも関わらず意外とすっきりしない話だという印象を受けた。まぁ何に対しても1つのジャンルにして一言で言い表そうとするほうが無理があるのだろう。
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こんなに母親ひどかったっけ…? というのが大人再読時の感想。めげるな少年。と思いきや意外に飄々としてて、なんだか励まされる。
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ルピック家の末っ子はお母さんに「にんじん」と呼ばれている。真っ赤な髪の毛に、そばかすだらけの顔だったから。家族の嫌がるつらいことは、全てにんじんの仕事。そんな境遇を素直に受け止めているように思える彼の本心は…。
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この話は自伝的な所が多分にあって、主人公のにんじんはルナールの分身のような存在だということだが、読んでいくとしょっぱなから母親のにんじんに対するひどいあつかいにそら寒くなるのだけれど、ルナールの筆致はただ残酷に子供のころの仕打ちを描写したわけではない、ということは分かる。
彼の文章は繊細であり、その一方でにんじんの感情描写はかなり「客観的に」書かれている。それが子供のころの視点と、(作者としての)大人の視点を同時にあらわしすことを可能にしていて、不思議な文学性がある。
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なんともつかみ所のないと言うか、複雑な話だった。荒唐無稽であるようにも思う。
表向きな物語としては、その風貌から母親から疎まれ、イジメのような仕打ちをうけながらも賢明に生きる少年の物語となるのだろうか。
しかし、これはそうそう簡単な物語ではない。
ストーリーから考える少年像としては、素直で純粋だが、心の強い男の子というイメージがわくのではないだろうか。しかし、この物語の主人公、通称にんじんは、けして、誰もが愛する事の出来るような少年ではない。暴力的で、陰湿ですらあり、ハッキリ言って嫌な子供なのである。少年犯を犯す現代っ子の様な心理の持ち主なのだ。母親にしろ、ただ意地悪な母親ならば分かりやすいのだが、一言でそうと言える人物ではない。にんじんに対する言動の中に時に愛情をひしひしと示したりする。
詳しくは知らないが、この物語は作者の自叙伝的な部分があるのではないだろうか。実際の子供、実際の親子関係と言う物は、けして明く、純粋な物だけではない。父や、他の兄弟なども含めて、複雑怪奇であり、こうすればいい、こうすれば上手くいくなどという答えはない。
この物語は一見、荒唐無稽。だからこそリアリティがあるように感じた。
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奇怪なわが子虐めの物語の体裁をとる『にんじん』。
ここに出てくる母親は、明らかに心を病んでいて、その原因なのか結果なのか、父親との関係が奇妙だ。
にんじんは屈折した思いから残酷なことをしでかしたりもするが、賢い子で、両親の関係がどんなものかを見抜いている。
にんじんと父親とのあいだにはこのような葛藤がなく、この息子と父親とのあいだには、他人同士であるかのような距離感があると思う。にんじんは両親の結婚生活が父親の独りよがりなものであるにすぎず、母親は妻として容れられていないことを洞察しており、母親の女としての悲哀を子供ながらに感じ、心を痛めてきたようだ。
子供の本としても知られる物語だが、子供が読むにはあまりにも大人的なテーマを扱った、希望の見出せない作品だという気がする。
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作品としての良さ云々以前に、生理的に気持ちがわるいと思ってしまった。読んだあと、しばらくゴハンが入らなかった。
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赤い髪の毛をした、少年が、母、兄、姉、父と過ごす日々を、
綴った連作ショートショートといった感じだろうか。
どうにもこれは著者の、自伝的な小説のようだ。
ちなみに、
この物語には、
「子供を愛せぬ母と、母を愛せぬ子供との宿命的な対立(悲劇)」
という解釈がまずあったらしく、
それを訳者は、
「むしろ、愛し合っているくせに、愛し合う手段を持ちえぬ、
故の日常(喜劇)」と捉えているようだ。
個人的には、前者というよりは後者に近しいとは思うものの、
訳者のあとがきを読んだ限りでは深読み感は否めない。
この物語の面白さは恐らくは読み手によって、内容が、
まるで変わってくるというところだろうと思う。
なぜならば、この著作の特徴を列挙するならば、
・残酷な描写がしばしば見られる。
・登場人物たちがそれぞれ残酷な面を持ちえている。
・コミカルに描かれているものの、総合的に観るとリアリティが高い。
・細やかな日常が綴られている。
・キャラクター性が強くて、それぞれの登場人物が活き活きと脳内で再生できるようになる。
・残酷な描写の裏には、所々不器用な愛情が見え隠れしている。
・物語から透けて見える著者の自伝的性質。
となるだろうか。こうした特徴を持つ以上、正直、この物語は読み手によって、悲劇にも喜劇にも、自伝にも、何にでも変わりえるだろう。では、なぜこうした性質を持ちえてしまったのだろうかと言うと、それはつまりある種で屈折し、そしてある種で世界を残酷なまでにはっきりと見渡す慧眼を著者が持ちえていたからだろうと感じる。
恐らくは家族それぞれが不器用で、うまく愛情を伝えることができずに、それでいて各々が高慢であったのだろう。つまり、周りから見ればにんじんは虐待されているようにしか映じないかもしれないが、しかし、にんじんは彼らを愛してもいるし彼等に愛されているということも理解しているので、憎みきることはできずに、どこかしらコミカルな要素が入りこんでしまう。しかし、にんじんの内には沸々としたうねりのようなものが残ってしまう。ストレスと言ってもいいだろう。それが歪みなにかしらの形で発散され、それが、にんじんのときおり放つ残虐性へと昇華(というとあれだが)されていく。また、彼は愛されているということを理解しながらもやはり自信がない。その自信のなさが、「やたらと醜い、醜い」と己の外見をこきおろす描写へと表出しているのではないか。
この物語を読むときに、残虐性が目に付き、ついでコミカルな描写や人物性が目に付き、最後にそれでもどこかしらに漂う互いを思いやる愛情が目に付くのではないだろうか?個人的にはこの残虐性は胸糞が悪くなるところがあり、また、コミカルな部分もなんというか、虐められっ子が「遊んでいるだけだよ」と言い、虐めっ子が「じゃれあっているだけだ」と言うような、そういう胸をすくような奇妙な思いやりがあり、さらにはそれでも「本当は愛し合っているのだ」という都合のよさが目についてどうにも、胃がむかむかするような性質を持ち合わせているようにも感じられるのだが、これこそがおそらくはリアルなのだろうと感じる。たいていのひとが頭に描いている親子の関係というものはどうにも、理想化されたものであろうように思われるし、実際にひとってやつは過去の経験を美化する傾向にもあるので。
例:親離れした子供が親を思い返すとき。学校を卒業した後に部活の顧問や部長を思い返すとき。退職した後で上司を思い返すときなど……、たいてい時間が経つと美化されるものであろう。
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家族だからって、必ず愛情が存在することはない。
なのに、母親の愛だけは信じて、その愛を求め続けるにんじん。
歪んで育った人はそう簡単にはまともになれないんだなー
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ジュール・ルナールの代表作「にんじん」。10年ぶりに再読。
家族全員から「にんじん」と呼ばれる時点で、すでに悲劇だが、特に母親から愛されないことへの反抗心と極端な自我を発揮する「にんじん」は強く、たくましい。
父親との手紙のやりとりや兄弟との会話、挿絵の雰囲気などは、どこか滑稽で、愛情溢れる家族にも見えてくる。
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有名な古典なのですが読んだことがなかったので借りて読んでみました。なんてイヤな話だろうと思いました。
自分も結構年齢を重ねているので(笑)作家が書かれたことが実際の出来事とは違うと言うことは理解できるだけの分別はついております。大体作家って自分のことはあまり悪く書きませんからねえ。
(百閒先生然り、檀一雄然り、島村藤村然り、谷崎潤一郎…まあキリが無いですが)
これ、子供時代に読んだらなんて酷いお母さんだろうと憤慨して終わっただろうなあ。今読むとにんじんも苦労したろうけれども両親も苦労したのだろうなあ…と思います。
コミュニケーション不足、というかボタンのかけ違いというか話す言語がお互い違っているかのような違和感。愛されてないと信じる子供はいかほど残虐になれるのだろうか、と薄ら寒くなります。まあにんじんがひがみっぽい子供だったとしても親はもう少し彼を注目して見てあげる義務があったのではないかなあ、なんて思いました。
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これで一冊書けてしまうルナールがすごい。ただ滑稽に見せたいのでも悲劇的に訴えたいのとも違う。嘘でも本当でもない見せ方で経験と和解することができるのが彼だったのだとしたら、なんて偉大な書き手だったのだろう。個人的に背表紙の作品紹介は、?と思う。
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小学生のとき、従姉からお下がり的にもたらされた本の一つで、
ちょっとしたトラウマになったヤツ。
子供だった自分は一読して、この鬼のような母は父の後妻なのか、
それとも「にんじん」が夫妻の実子でないために
不当な扱いを受けているのか?
と、首を傾げたが、読み直してみると、そういう説明はなく、
普通の家族であるはずなのに、
歪な関係・距離感に陥っていることを確認してしまって、
更に落ち込んだ。