紙の本
死刑囚の精神の行き場所
2002/04/28 04:57
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鳥居くろーん - この投稿者のレビュー一覧を見る
死刑囚たちの精神医を勤めた著者が、その様子や行動に関して気づいたことをまとめたノンフィクション。
死刑囚という人々に私はまだであったことがないのだが、その行動には、一種のノイローゼのような症状が現れやすいのだという。いわゆる「拘禁ノイローゼ」。しかもそれは、死刑囚が先天的に持っていた欠陥によるものではないという。
著者は言う。明日来るかもしれない死によって、死刑囚は生きるエネルギーが濃縮されてしまうのだ、そしてそれは無気力な無期懲役の囚人とは比較したとき、より一層明らかなのだ、と。
今、死刑の是非を問う気は私にはない。しかし、著者の考察によってより鮮明になるのは、死刑という制度の抑止力としての効果の少なさだ。殺人をなぞるもうひとつの死。それに意味があるかないかを考えているうちにも、またどこかで死刑が執行されていく。
紙の本
「宣告」という長編小説との関連
2013/02/09 14:30
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Bocken - この投稿者のレビュー一覧を見る
「宣告」という長編小説がある。同作家の作品である。このタイトルとその長編とはどちらが先かは確かめていないが、死刑囚の心理をどのように描ききっているか、双方で読み較べてみようと購入した。(未読了)
立ち読み段階では、★3である。
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・人はこうやって苦痛から逃れようとする、
という克明な記録
・死刑囚が犯す犯罪は社会に大きなインパクトを与えるものだが
死刑囚がどう罪に対するのかは意外と表に出てこないもの
死刑という刑罰の良さも悪さも見える
残酷だよ。半数以上が半ば狂っていくのだから。
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一番印象に残ったのは、一番初めの容疑者の話。諦めた瞬間『死』が待っているという状況で、あまりの恐怖に妄想で架空の話を作り出し、完全に本当の事と思い込んだ様子。私たちも普段、自分の過去について正当化したりするが、それもすべてこれと同じように人間の弱さから来ているものではないかと思った。死刑囚の心理とはそういった人間の根底の心理なのかもしれない。
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新聞には「ホニャラホニャラ被告死刑判決」とまでしか乗らない。彼がどうなるかは、誰も知らない。けれど、この本には書いてあった。こういう本は定期的にオーバーグラウンドしないといけないと思う。うん。いい本です。
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ふと眼にとまったので立ち読みしました。著者と死刑囚の交流は、思い描いていたものとは違っていました。読んだ当時は、昔はひどい事件も多かったんだと感じましたが、現代社会の中でも悲惨な事件は増える一方だと感じました。
私は、著者の姿勢に惹かれ、それから加賀さんの書いた作品を少しずつ読んでいます。
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まだ読み途中だけど、大変興味深い。
死刑囚を間近で観察してきた精神科医の記録なのだけど、なかなか想像を絶するところがある。
死刑の是非を議論する時に、理想や理論だけじゃなくて、実際を知るべき、実態を知るべき、現場を知るべきだと思った。
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通常は知りえない死刑囚についてかかれています。著者が勤めていた時代が1950年代と結構古いんですが当時の死刑囚の生活、事件の背景、その心理、拘禁反応などなどをうかがい知ることができます。
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去年憲法の授業の中で勧められた本。
古い本だけど、死刑囚についてここまで丁寧に書いた本はあまりないんじゃないでしょうか。
これを読むと、死刑制度の意義について疑問を持ちます。
死への恐怖は被告人の精神崩壊や嘘の供述を引き出して裁判を長引かせるし、
被告の心は死んだ被害者よりも、死ぬかもしれない自分自身に向いてる。
そして結局、死刑にしたところで遺族の念は晴れない。
贖罪は死刑って形では何も達成されないと思いました。
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「人を殺したことへの罪悪感はある。しかし、時間が経つにつれ、自分が犯した罪への実感が薄れてくる。結果として、死刑という罰だけが残る。死刑というのは怖ろしいけれど、そこに理由がないように感じられてまるで不思議な感覚がする。どうして、死刑は殺される側が罪を忘れてしまう頃に、法務大臣のサイン一つで執行されるのか?やるなら、早くやってくれたほうが人道的だ。殺される側が忘れた頃に法務大臣一人の裁量で葬られるなんてまるで理由のない殺人みたいじゃないか」
――無論、時間がおかれるのは法務大臣だって人なので、間接的な殺人者になりたくないという躊躇と、冤罪がないようにとの配慮から生じる慎重さゆえだろうと思うけれど、随分と時間がおかれてそうしていつだか忘れた頃に刑が執行されるというのはあまりにも残酷なのかもしれないとは感じる。
本著は精神科医であり作家でもある著者が実際に刑務所勤務をしていたころの実録である。文章力があるだけに平易なのだけれど、深みのある文章で読みやすく味わい深いものとなっている。著者のいいところは自らの好奇心を隠さないところだと思う。世の中のジャーナリズム精神みたいなのの模範としては、「真実を伝えるために――」みたいなのがある。そのために命を落とす人も実際いるから迂闊にその姿勢を批判したくないのだけれど、そういう姿勢にはいくらも欺瞞が含まれると思う。果たして、自分の好奇心なしにジャーナリストは真実を探ろうとなどするのだろうか?公平と言うけれど、完全に公平なる文章などは書けないだろうし、公平っていう言葉は正確には「公平な文章になるよう気をつける」という意味合いで使われるのだから、その時点でズレがある。つまり、公平になれていないからこそ出てくる言葉が公平だと言える。少なくとも、そういう場合、「真実を伝える自分」にいくらか酔っていると思うのだ。それが悪いとは言わない、むしろ、何一つ悪くはない。しかし、それを悪いことと考えるジャーナリズムの風潮みたいなのや、そんなもの自分はまるで持ってないのだといかにも崇高な使命に基づいているような顔をするジャーナリストのきらいみたいなものが、言うなれば「悪」として感じられる。そのあたり著者ははっきりと自分の好奇心を文意で示し、ときにそれを反省したりもしているあたりに好意が持てる。自分の好奇心に対して潔いのである。死刑囚が著者に心を開いているのもそこに起因しているのかもしれない。俺が死刑囚だったら偽善ぶる人間へは憎悪がわくのじゃないかと思う。今だってわくけれど。
とはいえ、著者は死刑囚に完全に感情移入してしまっている。それが激しくなるのは正田昭について触れているあたりから顕著になる。むしろ、それまでは酷く冷静につづられていた文章に感情がこもり始める。著者にとって正田昭は特別な人間であったようだ。正田自体が頭がよく、文学の心得もあるような人物であり、なおかつ、共通の話題を保持していたことなどからも、馬が合ったようで正田自体は自分を低く見積もっていたのだろうが、著者としては自分と対等な人間として正田と接していたと思われる。対等な人間と言うと、差別みたいだけれど、完全に対等として死刑囚と接することは多分牧師とかでも無理だろうと思う。それを実現してしまう程度には二人の交友は深かったと思わざるをえない。最終的に著者は自らの分析を基にして、死刑制度反対を訴えるのだが、そこには論理性も認められるものの、著者の感情論が見え隠れしている。死刑制度がなければ遺族の怒りが収まらない、という点に関する反論が著者にはないし、再犯の可能性などにも触れていないのだから、感情論と批判されても仕方がないだろう。とはいえ、冒頭にあげた言葉に表されるように現存する死刑制度があまりに無慈悲なのも事実である。法務大臣の気まぐれで処刑が執行され、その執行に日夜怯えなければならず、怯えて自分が壊れないように、躁状態を創り出さなければならないと著者は述べている。ちなみに著者は精神異常に対して、「時間」という概念を用いて説明を加えている。死刑囚は自分が明日死ぬかもわからないという状態に絶えず置かれ死を直視せずにはいられず、それゆえいつも過去と未来とが迫り来るような恐怖に襲われており、ある種の閉所恐怖に近しい状態にある。逆に無期囚は時間の広場恐怖に近しい状態に陥っていて、日々が希薄であいまいとなり無気力状態に陥りやすいとしている。著者としては恐らく、無気力状態ならばむしろ人格を矯正しやすいとしていて、無期囚にしたほうがよいとまで考えているのかもしれないが、そこまで踏みこまれてはいないので真意は不明。
途中から感情論が混ざりこむものの、それまでは懸命に感情論を排そうとしている著者の努力が見え隠れし、実際にそれが果たされているので、著書はかなり冷静な臨床分析書と言える。死刑制度に批判を加える前にまず本著を読むべきなのかもしれないとは感じたし、ここに本著の意義があるのだろう。しかし、本著を読むと死刑囚といえども、才能を持つ人々がいてそのような才能を殺してしまってもよいのか?などと考えてしまいそうにもなり、その考えに流されるのもまた危険である。ただ、死刑囚は宗教に頼り精神状態をいじるしかないという状況、それは残酷の一言に尽きるが、著者は栗原源蔵のような人間をどうするべきと考えているのか?大人六人、子供二人を殺し、そのうち五人が強姦されているという事実。とはいえ、宗教が地味に酷いと思う。宗教にすがっても、結局のところ思考停止になって自分を騙すことしかできないと思うから。最終的に試練だとか、あるいは広い意味での神の御意志だとかでしか最終的に説明できなくなってしまうのが宗教の弱点なのだから。
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死より逃れるために人間は気晴らしをするが、気晴らしが出来、死を忘れうる人間は、すでに死刑囚とは違うのだ。様々な死刑囚と面談を繰り返してきた筆者が死刑囚と無期囚の違い、さらには死の定義について考察。おすすめ。
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感想になってないのだけど、なにかが噛みあっていないと思う。
加賀乙彦氏の立ち位置かもしれないし、メッカ事件の正田昭かもしれない。
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加賀乙彦、26歳で拘置所の医官になったそうです。恐ろしい…。死刑囚と無期囚の時間感覚の話が非常に興味深い。「濃縮された時間」を過ごす前者と、「薄められた時間」を過ごす後者。人間死にたくないものなのだなぁ。あと、やっぱすごくドストエフスキーを思い出す。好きって言ってたもんなぁ。ドストだってよく考えたら死刑宣告受けてるもんね。あれ?あれは同志がだっけ?
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死刑囚たちの記録。精神科医という目線から分析している。様々な人がいる。
獄中で後精神疾患にかかる囚人は多いようです。死刑が宣告された後、殺したことを認めてしまうと、よりどころがなくなる。そんな中では精神が心が自分を守るために、刑を逃れるためについていた嘘も本当にあったことと錯覚してしまう。囚人は自分はやっていないと本当に思っている。なんて人もいるようです。心というものは自己防衛機能を備えているんですね。そうしないと精神がもたないようです。
僕は直接は知らないですが印象に残ったのは三鷹事件の竹内さん。冤罪ではないのかと疑ってしまいます。もしそんなことで捕まって、死刑を宣告され、上告も破棄されてしまったら…やりきれないでしょう。家族も本当に辛いでしょうね。