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商品説明
北国の幼年時代、家族を襲った悲運の数々、戦時下の少年期と文学にめざめた青春の頃…。日本経済新聞連載「私の履歴書」ほか、父母の思い出を中心にした滋味深い文章で綴る珠玉の自伝エッセイ集。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
どんな微笑よりも
2010/03/01 08:41
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
芥川賞作家三浦哲郎の前半生は、本書所載の「私の履歴書」にあるように、悲しみと苦渋に満ちていた。青森県八戸市にある裕福な呉服商の六人きょうだいの末っ子に生まれたが、その成長の途上で、三人の姉のうち二人までもが自死、そして兄ふたりが行方知らずのまま帰らぬ人となる。
その苦しみは出世作ともなった芥川賞受賞作でもある『忍ぶ川』に描かれているが、その後の作品においても三浦はそんな姉たちや兄たちをしばしば描いてきた。
幼かった彼自身にどのような罪があろうか。しかし、三浦は何度も自身の血について悩み、自身の幸福についても許されぬものとして煩悶する。
そんな三浦以上に我が身を呪い、最後に身ごもった末っ子の誕生に恐れ慄いたのは、三浦の母だった。自分の身体から生まれてくる娘や息子たちが次々と消えていくことに彼女はどれほど血の涙を流したことだろう。
親より先に逝く子供たちは不幸だ。それがどのようなものであれ、親は親として全うしてやれなかったことを悔やみ、嘆き、悲しむ。
三浦の悲しみはそんな母をみることで深まり、彼の歓びは自身の結婚、自身の子供の誕生で母がようやく悲劇の淵を抜け出せたことだったと思う。
本書の表題作となった随筆『母の微笑』は、そんな母の晩年の姿を哀しい半生を重ねながら綴ったものである。
最晩年病院で暮らすことになる母の「いかにも、無学ながらひたすら母親の道を貫き通した生涯に充足し切っているような、穏やかで控え目ながら自信に満ちた微笑」に、どれほど慰安されたことだろう。あれほどの不幸を経験した母の生涯を「充足」と書き、「自信に満ちた」と表現した、彼女の息子三浦哲郎の、やはりそれは彼自身の幸福だったろうし、それこそ母をもっとも愛せて瞬間だったにちがいない。
子供はいくつになっても、そんな母の微笑に励まされている。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でお読みいただけます。
紙の本
ある青年が、ひょんなことから作家デビューする一種のサクセス・ストーリー、何度読んでも面白い
2001/12/08 03:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は『狐のあしあと』に続く、著者八冊目の随筆集。『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」(120枚)を中心に編まれた文集である。内容は、彼の長篇、短篇の読者であれば周知のことばかり、ぼく自身、1970年代だったか、著者へのインタヴューで、これらの話、直接聴きもした。しかし、ある青年が、ひょんなことから作家デビューする一種のサクセス・ストーリー、何度読んでも面白い。また六人兄姉の内、二人の姉は自殺、二人の兄も行方不明といった話、書く方も辛いだろうが、読む度に心痛みもする。本書には、敗戦後間もない青森八戸中学のバスケット選手だった頃の話。早大政治経済学部に入るが馴染めず、学費を出してくれた兄に文学部への転部を申し出るが却下され、帰郷して代用教員をしていた19歳の頃。二年後、再度、早大仏文科に入り、偶然、荻窪駅のホームで、郷里の高校の同級生船越康昌とぱったり出会って親しくなり、彼が貸してくれた太宰治『晩年』を読んで感銘を受ける逸話。大学の英語教師、作家の小沼丹に同人誌『非情』を送るや、「君の作品は太宰さんの影響が強いが、悪くなかった。この調子で書きつづけるように」と返事をもらって欣喜雀躍、その後、昭和30年、『非情』3号に載せた「遺書について」が井伏鱒二の目にとまり、彼の助言を入れて贅肉を削り、「十五歳の周囲」と改題、雑誌『新潮』に送る。そして、小沼丹に連れられ井伏宅を訪ね、師事することに。「十五歳の周囲」が運よく同人雑誌賞に選ばれ、副賞にオメガの携帯用置時計をもらった話。彼の住む都電通り商店街に、寮生たちの敬遠する小料理屋があった。値段も安くなく、仲居たちの気位も高かった。三浦哲郎は若い仲居の一人と道で会い、目礼を交わすようになる。いつの年の四月だったか、寮で卒業生、新入生の歓送迎会を催した夜、街へ繰り出した彼らは件の店に闖入、三浦哲郎は仲居と始めて口もきく。彼女は深川洲崎生まれ、両親と弟妹たちは父親の郷里、栃木県の小さな町に住んでいた。両親が病弱だったため、彼女は働いた金の大半は仕送りしていた。三浦哲郎は深川で働く次兄が忘れられず、暇を見つけてはその周辺を歩き回っていた。ある時、彼女と一緒に散歩した折、洲崎の遊郭跡に行く。その時彼女は、自分はこの中の射的屋の娘だと打ち明け、生家跡も案内する。彼女のすがすがしさに感動した彼は、自分の家庭についての話もする。彼女を伴って帰郷したのは「十五歳の周囲」が雑誌に載った翌年の正月だった。母に背中を押されるように、二人は家族五人だけで固めの杯を交わす。「この世でいちばんちいさな結婚式だった」「何年か後に、自分の結婚までの経緯(いきさつ)を『忍ぶ川』に書いて世に出るなどとは、その頃は想像だにしなかった。」「私の履歴書」は、ここまでで終わっている。