紙の本
心のつぶやきは誰にも聞こえないのか
2003/06/29 14:58
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投稿者:もぐらもち - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は「コーリング」「残響」の二つの短編からなります。どちらの小説も登場人物たちがぶつぶつと頭の中で思いをめぐらし、その思いは登場人物たちの間を行き来することなく、そのまま自分自身の中へ消えていきます。
「土井浩二が三年前に別れた美緒の夢の途中で目が覚めた朝、美緒はもちろん浩二の夢など見ていなかったし思い出しもしていなかった。」で始まる「コーリング」。その後、延々と「誰々が○○をしているとき、誰々は△△をしていた。」という話が続きます。これは、なんの伏線かと思っていると、なにも起こらず物語が終わってしまい、正直言って「なんだこりゃ」でした。そりゃ、いくら頭の中で誰かのことを思い描いていても、当の相手には何の影響もない。「そりゃろうだろう。」と思ってしまいました。
同じ様に主人公たちが思いをめぐらしているだけで、何も起こらない「残響」。でもこちらは、2003/05/24付けのyama-aさんの書評のとおり、時々「これ、いいなあ」と思えました。「コーリング」が試作品だとすれば、「残響」は完成品です。「コーリング」で投げ出さなくて良かったと思いました。
読み終わった後、「いま考えていることって、他の人がぶつぶつ考え事をしながら行動している姿に影響されて、できあがっているんだろうな。」と、ぶつぶつ考えていました。
紙の本
間延びしてダラダラとした、なんか良い小説
2003/05/24 18:56
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投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る
この間延びしたダラダラした文体を読み進んで行くと、途中でふと「俺は何のためにこんな小説読んでいるんだろう?」と思ってしまう瞬間がある。恐らくそう思ってしまったら作者の思う壺なのである──もっとも作者がそういうことを狙っていたかどうかは別として…。
何故ならば、ふと「俺は何のためにこんな小説読んでいるんだろう?」と思ってしまうのは、この本を読みながら登場人物たちと一緒になっていろんなことを考え始めている証拠だからである。保坂和志の本は考える人が出てくる考える小説であり、つまりそれは考えさせる小説でもある。
登場する人物はさまざまで、必ずしも立派な人・魅力的な人ばかりではないが、皆が皆よく思索に耽るのが特徴である。まさに「思索に耽る」という表現が適切なのであって、「思いをめぐらす」のとはちょっと違うし「思慮深い」というわけでもなく、「思想性がある」などと言えばもっと遠くに行ってしまう。
巻末の「解説」にはなんだかもっともらしいことが書いてあったけれど、ちょっと小難しくていけない。そういうのとはなんか違う気がする。もっと素朴なことではないかと思う。でなければ、こんなに何も起こらない小説を書けるものだろうか、読めるものだろうかと思ってしまう。
登場人物はいろんなことを考えていろんなことを思う。全般にウダウダしてはいるが、意外に筋は通っていたりする。たくさんの人物の視点で入れ替わり立ち代りたくさんのことが語られる。人物は程よく描き分けられて、それほど際立たない代わりにどの人物にもなんとなく捨てがたい魅力がある。そして、そんななんやかんやを読み進むうちに、読者は時々「これ、いいなあ」という考え方にぶつかる。そう、この本に収められた2編の小説は、時々「なんか、これ、いいなあ」と思わせるような作品なのである。
みんな、もっといろんなことを考えれば良いのに。そうすれば、世の中もっと良くなって、自分なりの「なんか、いいなあ」というものに到達するかもしれないのに──僕の場合は、結局読み終わってそんなことを考えていた。
なんか、いい小説である。
by yama-a 賢い言葉のWeb
紙の本
保坂和志の実験
2002/10/20 01:02
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
熱力学の第二法則(エントロピーの増大)にしたがって拡散していったあれらの思いや感じは、いまどこでどうしているのだろう。単純であったり複雑であったりする世界にあって、この「自分一人」の固有の経験や濃密で鮮明な記憶、淋しさや不安やみすぼらしさや愛することの高揚感、感覚や感情や思考や「わかっちゃう」ことの総体は、「コンクリートに残された凹んだ足跡」のように物質的に形象化されているのだろうか。
保坂和志は「コーリング」と「残響」の二つの作品で、ある実験を試みた。それぞれ一人の男と二人の女という主要な三人の登場人物の想起や想像や思考が、日常の基本動作を蝶番のようにして移動していく話を書くことで、「そのようにして描かれる人物たちは、読まれるときにつながっているような印象になるのか、それとも一人一人の孤独ないし隔絶感が強まるような印象になるのか、知りたいと思った」のだ。「人が生きて死ぬという有限性や孤独や隔絶感が救われることがあるのか」を、ある方法のもとで二つの小説を書くことを通じて考えてみたのである。
その実験結果は「残響」の終末に出てくる二つの叙述のうちに、おぼろげな方向性として示されている。──愛の状態において、「固有の経験が、固有ゆえの口調や表情をともなうことで相手の記憶を喚起する力を持って、まるで自分たちの本質に関わることのように豊富な意味を帯びているように感じられる」こと。人は一人でいても完全に一人というわけではなくて、「みんな誰だって自分のことがたまには誰かから思い出されていることがあると思って生きている」こと。
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世界は美しい
2002/07/31 01:15
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投稿者:壱子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
保坂和志といえば猫と、金井美恵子さんにも通づる息の長い文節が特徴としてあげられるけれど、この一冊は保坂和志という人がその小説に何を託しているのかが窺い知れる作品である、と私は感じた。
特に事件が起きるわけでもなく、どんでん返しがあるわけでもないけれど、静かに、だんだんと自分がこの本の中の一員であることを知る。それはこの本が私たちのいる「ここ」について描いているからにほかならない。
本を読むときに私は表紙につられて選ぶことが(ときに)あるけれど、この作品はそれで成功した例でもある。
夕暮れの、一日のお終いが引き伸ばされていく一瞬。自分の輪郭さえ曖昧な瞬間。
「残響」「コーリング」と二つの中篇で構成されてはいるけれど、その二つは対となって非常に良く似てもいる。どちらも別々の場所にいる、殆どつながりを持たぬ数人の「思い」を描いている。彼等の思考の流れの中を私たちは漂い、そうすることで自分自身の形を知る。
私たちは離れ離れでも、ときにそれぞれの声は響きあい、重なりあって、1つの音楽を奏でることも有るのだ。きっとこんな風景のなかで。
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タイトル通り、心に響く。本棚にずっと閉まってあって、最近読み直した。昔読んだときより響かなかったのが寂しかった。
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残響。Echoing.
彼にしては異色。視点が三人称、使う言葉・思考にも切れが無く、女子高生が適当に書いた感想文を髣髴とさせる。内容も味噌っかすで、彼に期待している人は読まないのが無難だろう。
正直ショックだ。
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時間の同時性について考えると
ぼくは胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
無機質に水道水の流れる音しか響かない部屋で
ぼくはもう15分ものあいだ洗い物をしている。
「そんなの5分もかからないよ、CMの間に終わっちゃうわ」
そう言う会社の同僚は、生活感のないスマートな顔立ちを
しているよなって、その輪郭を思い出していた。
その時彼女は、Bill EvansのWhen I Fall In Loveが
しっとりと鳴り響く御茶ノ水のbarの片隅で
ほとんど中身が減らないグラスを退屈そうにいじりながら、
「一番好きなカクテルはウォッカトニックだよ。
酒と女の子だけ、シンプルで透明にお付き合いしたいんだ」
などと気障な台詞を吐いていたのは、たしか夏に退社した
二つ上の先輩だっけって、彼の唇をいじる癖を真似していた。
その時二つ上の先輩だった彼は、
今の会社における自分より社歴の長い部下の取り扱いについて
熱いシャワーを浴びながら一通り考えていた。
結局まとまらないままタオルで体や髪を拭いていて、
既に缶ビールを片手にテレビのスイッチを入れていた。
よく見かけるタレントが確定申告についてアピールしていて、
そういえば、前の会社の退職手続きの時に
「再就職しない場合、確定申告で税金が戻る場合があります」
なんて人事の人間が偉そうに言っていたことを
ほんの一瞬だけ、機械的に思い出していた。
その時人事の人間は、ようやく終わった洗い物の一つに
再び熱いコーヒーを注ぎ、一息入れようとパソコンの前で
internetに接続する手続きをとろうとしている。
知らない誰かが息づくこの世界で、自分を吐き出し
現実逃避するのも悪くないなんて考えていた。
・・・決して交わり染まらない思考が水平的に折り重なる。
どこかの時間軸のどこか一瞬間を起点として、
もしぼくらが繋がるのであれば、それは何かの証なんだろか。
不思議な感覚である。想いを馳せるという行為は、
ちょっとぐらいは幸せにしてくれるような気もする。
だけど、やはり切ない。切なさに圧倒される。
違う空、違う街、違う言葉、違う習慣・・同じ時。
あの子は何をしているのだろうか・・
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話の展開それ自体を楽しめるとか、カタルシスを得られるとかいった内容ではないのに、不思議と引き込まれる小説だった。
何か起伏のあるドラマが語られるわけではない。登場するそれぞれの人物が、何かしらの痕跡であったり、そこから派生する思考で繋がっていく様が淡々と描写されている。しかし、ただ文字を組み上げて造った物語というよりは、記憶の交錯という実際の現象を描写した結果が物語になっているという印象だ。
私達は、自分を取り巻く周辺を最も広く表す時、それを「世界」と呼ぶ。そしてその「世界」とは、「世界観」という言葉があるように、詰まるところ個人的な認識によってそれぞれの内面に創られたものであって、万人に共有され得る「世界」の形というものは存在しない。しかし、だからといって人間がその「世界」形成の過程で既に他者と断絶しているわけではない。他者とはどこかで重なり合い、時には溶け込み合いながらオリジナルの「世界」を創り上げている。この作品は、そうした交錯の中でも、他者の存在を感じさせる痕跡や記憶といった掴みどころのないものとの交錯を主に取りあげている。
その交錯は、日常的に起きているものだから現象としては理解できるが、一方でどこか不思議な感じも残る。自分の思考に確実にぶつかってきているものがあって、しかしその主体と自分は物理的に隔絶されている。逆に、生きる空間や時間が重なっていない相手に対しても自分という存在は影響していく。自分の与り知らぬところで、場合によっては自分のパーソナリティの片鱗すら知らない人間が、何らかの痕跡から自分という存在を意識する。
この事実を果たしてどう受け止めるべきなのか。「存在を意識する事で、人間はどこまでもリンクしていける」と喜ぶか、「そうしたリンクを知覚できながら、痕跡を残した主体にまでは到達できない悲しい存在が人間だ」と嘆くか。自分は後者だったが…。
この作品は小説の体を取っているが、存在としての人間を遠回しに論じた本だとも言える。人によっては哲学書のような受け止め方ができるのではないだろうか。「世界と自分との関係」について一度でも考えたことのある人には、ぜひお薦めしたい。
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ふと、「あの人どうしているかな」と思う瞬間はどんな人にもある。
で、その“あの人”っていうのは初恋の人だったり、先生だったり、はたまた話したこともないような近所の人だったりいろいろだけど、でもそうやって思い出したところで、その当の本人は思い出されていることはわからない。
でも決して伝わっていないわけではない。
うーん。
とっても観念的ですね。
そして文章がやたら理屈っぽい部分があります。個人的には嫌いじゃないけど。
人と人とのつながりというのは例えば“会う”とか“電話で話す”とか“メールする”とかそういう直接的なものだけじゃないんだっていうことをほんわか教えられました。
“残響”っていう題の意味がずしーんときます。
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このあとに小説を書く人は大変だろうな、ということを考えそうになりますが、きっとそうでもないのでしょう。ゆかりは家のあちこちについた傷を見て、まえの人たちには子供がいた、と断言するのですが、実際は猫x2なんですね。
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この作品だけはなかなか読み返すこともなかったのだけど、この機会に持っていって読替した。こんな話だったっけなっていうのが正直な印象。こんなに面白い話だったっけな。たぶん、僕の中では「プレーンソング」やら「季節の記憶」っていう流れに乗って次の展開を期待していたのに、まんまとこの時は裏切られた感があったから、読んでてもきちんと実際は読んでいない状態に入ってしまっていたのかもしれない。先入観てだめね。(10/2/21)
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孤独と孤独が、実際に顔をあわせることなく、広い世界で、響きあう。出会う(出会った)ということは、やっぱり喜ばしい出来事だと思った。
実際に会わないけど、誰かのことを、考えている。。
素敵なことだと思う。
わたしも、そんな経験、ある。哀しくて、幸せなことだ。
でもちょっとなんとなく理屈っぽくて、読みづらかった。
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ずっと頭の中にあって、歩いているときとか話しているときとか、友達とさよならして一人になったときとか、ふと文章が浮かび上がってくる。
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たぶん一気に読んだ方がいいのかも。
どうも残響読んでいて、前半のコーリングと内容がこんがらがることがあった。
やはり回り道ぐるり文。
というか、会話が少ないだけに余計にたらたら~っと続いてるように思えてならない。
これまでで一番読みにくかった。
でも、所々にはっとする言葉がちりばめられている。
いつも、誰かが誰かのことを考えていたりするんだよなー世の中って、と思う。
それは特別な意味を持つことのようで、当たり前のことでもある。
私はプレーンソングの方が好きだなー。
まぁいつか再読しよう。
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この文庫には、『コーリング』と『残響』の二編が入っている。『プレーンソング』『季節の記憶』を読んだあとに、この本を読んだ。最初に読んだ二つが、一人の人間の主観的な視点(それでも冷静で客観性を備えた人物が中心に置かれていたけれど)から描かれているのに対して、『コーリング』も『残響』も、映画のカメラのような、客観的な視点で描写が行われる。
特に、『コーリング』は、文章の感じも、一文一文が短くて、これまでとは異なる感じが強かった。かなり淡々としている印象を受けた。『残響』は、『コーリング』と比べると、文章の長さや感じは『プレーンソング』『季節の記憶』に近く、より一層、描かれる個人がどういうことを考えて生きてる人物なのかということが、詳細に述べられているように思う。
これまで、「ある考え方を持つ個人」が捉えた世界に焦点が当たっていたのに対して、「ある考え方を持つ他者と他者」で構成される世界ということが中心になった。そうすると、人と人との隔絶感というか、「わかりあえない」という前提が生まれて、そこからどう関わり合いをもつのか、自分ではない他人との関わりというのは、どういうものなのか、ということが問題の中心になってきたように思った。主観を持つ個体と個体がどんな関係を持っているのかを俯瞰して見ている気持ちになる。
自分の考え方に対する興味を深めていくと、だんだんと他者と自分との関わりということに関心が向いていくのだろうか、ということを思った。