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紙の本
自分が自分と折り合うこと
2004/02/03 09:17
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
短篇集。雑誌発表されたものに三篇の描き下ろしを加えて全八篇。
表題作である「ぼくは、おんなのこ」について。
夢のなかで自分が女の子になっているのをみた少年は、目覚めてみると少女になっていた。ある日突然世界中の人間の「性」が反転してしまうという災厄が起こったのだ。男は女に、女は男に。
少女になってしまった司くんは、目覚めてもそれほどショックを受けるわけではない。なぜかとても静かにそれを受け入れている。テレビに映し出される街の人びとも、悲劇的というのではなく、淡々としている。
登場人物たちも、みんな結構この事実を受け入れて楽しくやっている。この災厄を受け止めきれなかった人間は、作中には登場しない。行方不明になった兄の存在がほのめかされているだけになっている。
端的に言えば、この災厄は世界にとっての終末ではなく、むしろ希望である。
主人公の司にしてからが、少女になっても悔やむということはなく、「おっぱいがちょっとささやかすぎるかな」と思い、もっと磨きをかけようと考えるのである。事態を受け入れ、前向きに生きようとする。
この物語においては、世界が女性化しているといえる。男性と女性の性の反転が、むしろ全員の女性化として描かれている。主人公は女性になることをむしろ望んでいるようだし、義姉であった人物は、男性になってもやはり女性のよう。学校での人物も皆そんな感じで、いかにも男性的な人物というのがいないのである。
世界の女性化としての災厄が、希望として語られる奇妙な印象がある作品である。
異性になりたいと願うふたりを扱った「放浪息子」にもつながる短篇。
他にもいろいろあるが、「少年の娘」は特に印象深い。一読してなんだかよくわからなかったが、考えてみるとこれは、それまでは美人の母に似ずに父に似てしまったことから、父に対して鬱屈を抱え込んでいたのだが、結婚を迎えて父も、そして自分も受け入れられるようになるまでを描いた作品なんだと理解した。そこらへんのプロセスが、昔の記憶、夢のなかのこと、現実での行動など、いくつもの層に分けて重層的に描かれていて、とても技巧的。
自意識を突き放して描くという点で、かなり面白い作品。
こうやって眺めてみると、志村貴子の方向性というのが大きく分けて二つあることがわかる。
ひとつは、ジェンダーの境界への関心。もうひとつは、自意識の問題である。
そして、ジェンダーの問題は作品の題材、そして登場人物の性格などにかかわり、自意識の問題は彼女の漫画のスタイルにかかわっていると思う。
志村貴子はこれまで、女性的というか、受け入れる人間としての男を描いてきた。「ぼくは、おんなのこ」の司にしても、「敷居の住人」のちあきにしても、そして「放浪息子」の修一も、である。受動的な性格をあえて男性にもたせるところが、彼女の人物造形のひとつの特色だと思う。(女子プロレスを扱った「ラヴ・バズ」はその逆を描いている。つまり、「男性の競技」をする「女性」である)
自意識は、もっと簡単に言えば自己嫌悪ということ。冷めていたり、アイロニカルだったりするモノローグの存在が彼女の作品にある印象を与えており、軽妙に見えるスタイルもまた、自意識を対象化する方法でもある。志村貴子という人はあとがきやらを見るといつでも、ダメな自分で申し訳ない、というような弁明をしているが、本人も気づいているようにこれは堂々巡りになる。弁明をしていること自体に弁明しなければならなくなるからだ。淡々と進んだり、省略したり、そういった技法はその種の自意識の無限後退を回避する。
そして、彼女の作品には「自分が自分と折り合うこと」が描かれていく。「少年の娘」などのラストシーンが持つ清冽な印象は、自分と自分を嫌う自分とが重なって、前向きになるという瞬間が描かれているからだと思う。