紙の本
名著である
2005/12/02 20:23
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投稿者:喜八 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『スロー・イズ・ビューティフル』は名著である。
ただし、ごく表面的になでるだけなら、「スローライフ」「スローフード」「反グローバリゼーション」などの言葉をちりばめた今風の「お洒落な」本という読み方さえできるかもしれない。
多くの企業が自社イメージを高めるため「環境に優しい」ことをむやみに謳う昨今では、スローライフやスローフードという言葉もだいぶありがたみの薄いものになってきたからだ。
辻信一。1952年東京生まれ。15年以上にわたる北米での生活を経て、現在は明治学院大学国際学部教員(文化人類学専攻)としてカナダ先住民の調査をしている。また南米エクアドルのミツユビナマケモノを保護するNGO「ナマケモノ倶楽部」の世話人を務める。
なぜカナダ先住民なのか?
なぜミツユビナマケモノなのか?
という疑問を抱いた。どこか「お洒落」なものを感じて、警戒心を抱いてしまうのである。
けれども辻信一の文章には心ひかれる。『ハーレム・スピークス』新宿書房(1995)、『日系カナダ人』晶文社(1990)、『常世の船を漕ぎて−水俣病私史−』世織書房(1996)、著作をこの順番で読んでみた。
『常世の船を漕ぎて』まできて、ようやく分かってきた。これらの著作は「忘れられた庶民」の人生を掘り起こす一連の叙事詩なのである。辻信一は自らの旅の途中で出会った庶民の姿を記録し続けてきた。
辻信一の旅はスローに歩きながら道草をくうことに喩えられるかもしれない。道草をくって遊ぶこと。寄り道。逸脱。
カナダ先住民やミツユビナマケモノは辻信一にとって、寄り道(逸脱)の途中で知り合った仲間なのだろう。北米大陸で15年の寄り道をした。その途中で先住民たちと遭遇した。南米ではナマケモノと出会った。仲間となった彼ら彼女らに肩入れする。
仲間を助けるための行ないを「お洒落」と批評することはできない。私(喜八)の第一印象はピントが外れたものだった。
「進化主義」という宗教的狂信にとりつかれ驀進する世界、「頑張ること=善」と信じて疑わない社会、これらへの対抗概念としての「スロー・イズ・ビューティフル」と「頑張らない」。「自己否定や自己憎悪という呪詛」から自らを解き放ち生きてゆくこと。
再び言う。『スロー・イズ・ビューティフル』は名著である。
文章のうまい人だと思う。つぎのような一節にはやはり感動させられてしまう。関係ないけれど、女性にも好かれる人なのだろうな。
紙の本
節度のメカニズムとしての文化
2004/12/29 21:35
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
季刊誌『住む。』(誌名に出てくる句点はほんとうは右半分が半分欠けている)に長田弘さんの詩が連載されている。「世界を、過剰な色彩で覆ってはいけないのだ。/沈黙を、過剰な言葉で覆ってはいけないように。」(「2004年冬の、或る午後」)とか、「自由とは、新しい生活様式をつくりだすことだ。」(「シェーカー・ロッキング・チェア」)とか、切りとってこころのなかにしっかり刻んでおきたい言葉がちりばめられている。
和歌に屏風歌といわれるものがある。丸谷才一さんの『新々百人一首』によると、「屏風絵とは、大和絵屏風の色紙形の部分に書かれた画讃としての歌で、いつそ「調度的装飾歌」(橋本不美男)と見るほうがわかりやすい文学形式であつた」。長田弘さんの詩文は、出来合のものではない思想や生き方や住まい方を目に見えるかたちで表現しようとする雑誌の余白に添えられる讃に、いかにもふさわしい。
辻信一さんがやがて世におくることになる『スロー・イズ・ビューティフル』という本の種が蒔かれたのは、一九八○年、モントリオールのマッギル大学に在学中の著者が、客員教授をしていた鶴見俊輔さんから「ふろふきの食べかた」という詩のコピーを贈られた時のことだった。この作品は、長田弘さんが当時『婦人の友』に連載していたものの一つだった。「こころさむい時代だからなあ。/自分の手で、自分の/一日をふろふきにして/熱く香ばしくして食べたいんだ。/熱い器でゆず味噌でふうふういって。」
この詩を読んで、辻信一さんは、「いつのまにか失っていて、それと気づかずにいた、ある感情」を思い出した。その感情とは、子どもの時の著者をつつんでいたはずの「今はまだない未来の自分ではなく、今の自分の、今この時を抱きしめることの歓び」で、それは書名の「ビューティフル」につながっている。「このビューティフルということばを、ぼくは次のような態度だと定義したいのです。そのもの本来のあり方を、遠慮がちにではなく、といってことさら誇るのでもなく、他を否定するのでもなく、他との優劣を競うこともなく、ありのままに認め、受け入れ、抱擁すること。」
この書物は、ゆっくりと読まなければならない。気温の変化に合わせて森は一年間に五百メートルまで移動できるが、温暖化で三十年間に気温が摂氏一度から二度上昇すると、樹木たちは一年に五キロもの移動を要求されるという。「前に進むしかないという「進化主義」はひとつの宗教的狂信といっていい。このせいで、毎年少なくとも二万五千もの種が絶滅している。絶滅種が生態系に開けた穴を埋めるためにかかる生物進化の時間は少なくとも五百万年だそうだ。この気の遠くなるような遅さこそが進化の本質だともいえる。ぼくたちは人間の歴史を語るのに「進化」などということばを使うことを慎むべきだ。」
そのような生物時間、生物進化の時間、地質学的時間に寄り添いながら、寄り添うことは無理でも、思いをはせながら、ゆっくりと読まなければならない。スローネス、つまり遅さ、慎み、節度をもって、そして過去への畏れと未来へのノスタルジーをもって、ゆっくりと読まなければならない。「ここで重要なことは、多くの伝統社会がかつて、その大きさや速さや力の限度をわきまえていて、それはまるでそこに自然界と同様の均衡、調節、浄化の力が働いているかのようだった、ということ。ぼくは思うのだが、本来、文化とは社会の中にそうした「節度」を組み込むメカニズムなのではないか。」
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読んだら、ふっと体が軽くなるような感じがしました。今までどうも、自分と世界のつじつまが合わないような感じがしていたんですが、やっと「自分はこれでいいんだ」と思えるようになりました。たぶん、ずっと、こんなこと言われたかったんだろうなぁ、私…。
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現代人のライフスタイルとして注目を浴びるLOHASやスローライフ。しかしメディアや企業の扱うそれに真意があるのかどうか?この本を読んで、自分のたしかな目でジャッジして!
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現代に対する警鐘。「時間」にスポットを当てた一冊です。ミヒャエル・エンデの『モモ』と併せて読むことをお勧めします。
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時間について考えさせられました。
毎日毎日せかされて生きていないで,
ちょっと立ち止まりたいですね。
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概ね、否、ほぼ同意。
現在自身の問題点にあり、かつ言語化されていなかった部分を、
著名な学者、先住民族、特異と分類される人達の引用を元に、
非常に明快、簡潔に説明してくれたという印象で、
ひとつ胸につかえた物が、とれたような、そんな爽快感を覚えた。
北から見た際に使われる「発展途上国」「後進国」の日常に見られるのは、
家族が寄り添って暮らし、求めることはなにもなく、ただ遊び、ただ笑い、自然を謳歌するという態度。
資本主義の中で沸き起こる欲望や目的意識というものは、
著の中で「車が便利だから車社会になったのではない、政策としてそうさせられているのだ」
という文章を踏まえると、
もしかしたら、「人為的」に誘発されているものなのかもしれない。
とは言え、今僕がナマケモノにだけなったところで、
社会は効率への加速度を強めていくだけなので、
ナマケモノ生活をしつつ、出来ることから「形」をデザインし、
働きかけていきたいと強く想う。
デザインとは、「自分の生活を作り出す道筋を照らしかたちを与えること」。
また、日本の事例は勿論、
イタリアや先住民族の環境・文化への態度をもっと知りたい。
いや。出向いて体感してしまいたい笑
「ビューティフルということばを、次のような態度だと定義したい。そのもの本来のあり方を、遠慮がちにではなく、といってもことさら誇るでもなく、他を否定するでもなく、他との優劣を競うこともなく、ありのままに認め、受け入れ、抱擁すること」
「活動家の狂おしいまでの情熱が、平和のための彼のせっかくの貢献を帳消しにしてしまう」
「かりに白人が、何かやりたいという欲望をもつとする。日光の中へ出ていくとか、川でカヌーに乗るとか、娘を愛するとか。しかしそのとき彼は、いや、楽しんでなどいられない。おれにはひまがないのだという考えに獲り付かれる」
「将来のために今を犠牲にするのはバカげているという感性の方こそがまともなのだ」
「現代社会が保険保険社会であること。年金や積み立て貯金をはじめ、広い意味での保険によって、我々は今を削り、切り縮めては将来を購おうとしている」
「本来、私たち人間はみな答えを生きるものだと思います。しかしそれがいつの間にか、問いをたてて、答えを生きるかわりに、その問いを生きるようになっていないでしょうか。問題を追いかけることに忙しく、肝心の生きることがおろそかになっていないか」
「人々が必死に生きがいを求め、存在理由を探し、役割を模索し、それが思うようにうまくいかない時には生きがいや気力を失ってしまう時代。以前はどこが違ったのか。生きるということに理由などいらなかったのだ。生きるということに過不足はなかったのだ。多分、いのちというものが、自分にはおさまりきらない、自分を超えた、自分以上の存在だと感じていたからではないか」
「イタリア人の半分近���が人口五万人以下の小さな町や村に住んでいるという。これは農村への帰還という大きな流れの結果」
「フランスのジョゼ・ボヴェ。建設中のマクドナルドをトラクターで破壊した環境活動家」
「わずか五・六世帯の小さな村には週に一度の市がたって、近隣の村々から多くの人々が各々の農産物や工芸品をもって集まる。人々は持ち寄った食べ物やワインを共に料理し、食べ、飲んで、歌う。芝居も出る。ここには生産者と消費者の区別がないひとつの共同体があるばかりだ」
「サクラメント州立大学の環境学の学科。」
「抗議をしたり、反対運動をするだけでは足りない。それよりもむしろよいものをつくってみんなに示してあげる方が有効」
「カリフォルニアで見たストロー・ベイル・ハウスはどれも施主自身が設計と施行の中心になり、家族、友人、知人とともに手作りで建てたものだった」
「デザインとは、自らの生活を作り出す道筋を照らし、かたちを与えることである。小さなもの、つつましいもの、失われたもの、そしてゆっくりと持続し循環するものの意味を見直し、住まう心と技術を私たち自身の手に取り戻すためのデザイン。それを、スローデザインと呼んでみよう」
「藤村靖之の発明起業塾」
「発明と企業の出発点、それは、いいことをしたいと好きが重なる地点だ」
「マーケティングとは、古い人が古いものを古い仕方で売ることだ。バカなものが売れるのはなぜか。それは消費者がバカだからという決めつけが商品を作る側、売る側にあるのではないか」
「優先順位についての見識の喪失。この見識を消費者とともにもう一度育てていく努力の中に、実は、新しいビジネスのチャンスが潜んでいるはずだ」
「現代文明、そしてそれを支配する科学、技術、経済とビジネスの各分野に共通して欠如しているものが三つある。第一の欠如、それは循環の思想。第二に、人の痛みがわかる感性の欠如。そして第三に、人間は完璧でないという認識の欠如」
「スウェーデンでナチュラル・ステップという環境教育プログラムが、企業にも大きな影響を与えている」
「非電化製品の製造資金だが、共同生産・共同購入方式によってこれまでの工業製品は大企業という常識をくつがえすことができる」
「時間のかかることでも、直接生産や金に結びついていないように見えるものは雑事とか雑用とか野暮用とか呼ばれる。家事全般がそうだ。」
「疲れているというそのことだけで批判される。疲れていることは恥ずべきこと。疲れを隠し、抑圧し、克服する努力を怠っていることが恥辱なのだ」
「都会人の快楽はおおむね受け身になった」
「功利主義と効率主義の文明の本質。何かのためでなければ、それは意味がないとする社会」
「日本における勤勉思想はそれほど深くない。徳川時代の二宮尊徳をはじめとした勤勉道徳は権力者によって上から押しつけられた比較的新しい、一時的な思想。怠惰の思想こそが民衆のうちで育まれ、長々と伝えられてきた」
「パパラギというすてきな本がある。20世紀はじめ、サモアのある島の曹長であるツイアビが初めて訪れたヨーロッパについて、そしてパパラギについて、島の同胞に語って聞かせた話」
「無駄だからこそ、充実している。思えば我々は誰もみな、遊ぶために生まれてきたのではなかったか。」
「休むことの喜びを知っている人は、疲れを敬う」
「時間も本来地域ごとに異なり、多様であったはず」
「ナヴァホ族の11月は、すらっと痩せた風の月」
「こんなに情報があふれている時代なのに、自分の家族が過ごした時間のことはほとんどしらないなぁ」
「頑張るという言葉は競争を前提にしている」
「地域は取り換え可能な空間にすぎくなってなっている」
「たくさんの管、電線、ガス管、電話線、水道管、下水管、それらにつながれることで生命を保つ植物人間」
「車が便利だから自然に車社会になったのではない。政策として、人為的に作られている」
「スーパーの切り身以外に魚という概念をもたない子ども」
「食べるという行為をかつてとりまいていたはずの、畏れや戦慄、それらに裏打ちされた感謝や喜びのかわりに涼しい顔だけがある」
「社会にあってそれを支えていた節度としての文化の喪失を憂う」
「物がなくても平気な人間になってはどうだろう」
「本来の意味における文化、自前で生きていることを楽しむ能力を取り戻す」
「完璧さとは、付け加えるものが何もないという状態というよりはむしろ、取り去るものが何もないという状態」
「1989年まで続いていた専制時代のルーマニアでは、国の見境ない人口増加政策の結果、施設に収容された子どもの数が30万人にものぼったといわれる。ある研究によれば、毎年収容者の3分の1ずつが死んでいったという。一応の衣食住を与えられた子どもたちの間に起っていた大量死の原因は何か。それは一言でいえば、愛の欠落だった」
「効率的に子どもを社会化する、子育てと教育における大量生産」
「ゆっくり歩けば遠くまでいける」
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賢い暮らし方ってどんなものだろうと考える
仕事をしていると、よく住み、よく食べ、よく生きることの重要性はついい見失いがちだ
slowだけで生きていくことはできない。けれどfastだけで生きていくことは更に困難だ。
slowとfastのバランス
消費するだけの暮らしから、僕らは脱却しなければならない
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日々の生活に?をくれる本。
ただ生きていることに価値がある、それに気づかせてくれる。
疲れたときに読む1冊。
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ナマケモノ倶楽部の辻信一さんが書かれたスローライフの指南書。
さまざまな書籍や人物が登場し、スローについて考える時、最初に手にとってみて欲しい一冊。
「スロービジネスなんてありえない!」そんな考えの方も世の中の見方が変わるかもしれません。
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新しい文化観の構築。
これからその発想こそが必要になってくる。
感動した。
また、読みかえさねば。
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この本をきっかけに、
自分の当たり前に疑問をもち、
もっとゆっくり歩いていきたくなりました。
こういう類いの本は、海外の研究者の書いたものが多いので、
納得いく日本語で読めるのが嬉しかったです。
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速読好きな自分がゆっくり読んでしまった。
ゆっくり生きることの価値を再考させられた。
ただ、『誰でも生きられるという当たり前のこと』というフレーズは気になった。『誰でも生きられる』というのは決して当り前のことではないと思う。
それはそうとして、なかなかいい時間を過ごさせてもらった。
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[ 内容 ]
「スロー」をキーワードに、スピードに象徴され、環境を破壊しつづける現代社会に抗するライフ・スタイルを求めて、さまざまな場所で模索し、考える人々の言葉に耳を澄ます。
人と自然とのつながり、人と人との結びつき、身体、日常生活、文化―その根拠にある“遅さ”という大切なものを再発見するユニークな試み。
[ 目次 ]
第1章 もっとゆっくり、今を
第2章 スロー・フード―食べ物を通じて自分と世界との関係を問い直す
第3章 「三匹の子豚」を超えて―スロー・ホームとスロー・デザイン
第4章 「いいこと」と「好きなこと」をつなぐ―スロー・ビジネスの可能性
第5章 テイク・タイム―「動くこと」と「留まること」
第6章 疲れ、怠け、遊び、休むことの復権
第7章 さまざまな時間
第8章 ぼくたちはなぜ頑張らなくてはいけないのか?
第9章 住み直す
第10章 スロー・ボディ、スロー・ラブ
終章 遅さとしての文化
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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エコロジカル・サスティナブルといった言葉では表現できないものも含めて、現代社会に流布する常識とは異なる別のあり方に向ける意味を込めた「スロー」。
本来のあり方をありのままに認める態度としての「ビューティフル」
この本は、自己否定や自己憎悪から自らを解き放つための まじない、処方箋、心構え、祈りだ・・・と前書きにある。
●ゆっくりやるということは、旧来の道具をフルに使いこなしながら、最新の技術に注ぎ込まれる大量のエネルギーや材料を消費せずに済ませることを意味するはず。
●マスコミや大企業のいう「スロー・ライフ」を支えるのは、あいも変わらぬ大量生産、大量消費、大量廃棄の「ファスト・エコノミー」。
●現代社会は準備社会だ。そこでは人々がいつも将来のための準備に忙しい。「今」はいつも予約でふさがっている。
●「体の時間」と「社会の時間」の間に生じた巨大なギャップにこそ、現代における危機の本質が現れている。
●身体は最後の大自然だ。・・・身体について考えていくことで、地球規模の環境破壊とそれに伴う人類生存の危機を文化の危機としてとらえうる。
●「時は命なり」大急ぎで生きることは命のムダ使いなり。
●本来私たち人間はみな答えを生きるものだ。
●どこに向うのでもない。そこにただあって、今をいき、目的なく営み続けるのみだ。