紙の本
ドーキンスvs.グールド
2006/09/14 17:06
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:緑龍館 - この投稿者のレビュー一覧を見る
現代の進化論生物学を代表する二人の学者、オックスフォードのリチャード・ドーキンスとハーヴァードのスティーヴン・J・グールドの研究上の論争や立場の相違を比較分析した本です(グールドは2002年に他界していますが)。専門書ではなく、科学啓蒙家としてのドーキンスとグールドの一般読者向けに、中立的な立場から平易な俯瞰を提供したものです。ページ数も多くなく(文庫本で200ページくらい)内容も要領よくまとめてあり、ドーキンスとグールドのファンには是非お奨め。著者はニュージーランドのヴィクトリア大学の哲学教授で、専門は生物学の哲学、解説によるとこの分野ではよく知られた研究者のようです。
グールドは断続平衡説(進化は漸進的に進行するのではなく、長期の安定期の後の比較的短期 ‐数万年‐ の期間に生じる)で、ドーキンスは『利己的な遺伝子』の理論で著名な学者です。ふたりは学説における意見の相違も多いのですが、また共通した認識もかなりある(個人的には共感を抱く部分もけっこうあるが、決して仲良しではない、というような関係だったみたい)。しかし本書を読むと、細部に関する認識の相違というよりも、「進化」というもの自体に対する見方や評価、「科学」というものに対する姿勢においてかなりの隔たりがあったようだということを、改めて納得できます。「適応」や「淘汰」を一番に重視し、「科学」に対して全幅の信頼を寄せているドーキンスと、進化における「偶然」の役割を大きく評価し、歴史や社会状況の影響と制限を受けざるを得ない科学の限界に、常に警鐘を鳴らしていたドーキンス。わたしとしては、二人の業績や著作はともにすごく魅力的だけれど、人間としての魅力はやはりグールドかな。
ドーキンスの『利己的な遺伝子』や『ブラインド・ウォッチメーカー』は昔読んだことがあるのですが、『延長された表現型』はまだ未見だったので、読みたくなって検索してみたらなんと絶版ではないか。でも『日本の古本屋』を探したら結構まだ手に入る。一冊注文してしまった。
→緑龍館・読書日記
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かつて進化論を巡って行われた『利己的な遺伝子』のドーキンスとスティーブン・グールドの論争についてまとめたもの。
もう何十年も前に読んだ本なのだが、最近読んだ『理不尽な進化』でドーキンス・グールド論争が大きく取り上げられ、この本自体にも言及されていたことから再読した。
著者は、論争が続いた原因を次のようにまとめる。
「一言でいえば、ドーキンスは、科学こそ啓蒙と理性の唯一無二の旗手だと考えているが、グールドはそうは考えない、ということだ」
グールドは、E.O.ウィルソンに噛みついたこともあり、社会生物学に心理的な反発を持つようであり、ドーキンスへの拒否感もそこから来ている。そして、その点がドーキンスとグールドが決して交わらない点でもある。
「グールドは社会生物学を憎んでいる。... 社会生物学者たちには傲慢さが垣間見え、科学を本来の領域の外にまで不用意に拡大しようとする気配があるというのだ。ドーキンスはそれに同意しない。彼にとって、人間行動の進化的な基盤に関する知識は、危険なものではなっく、われわれを解放してくれる可能性を秘めたものである」
著者の結論は一応以下の通りである。
「私の手の内のカードをさらしておこう。私自身の考えは、グールドよりもドーキンスのほうにむしろ近い。とりわけ小進化、すなわち地域集団内での進化的変化に関しては、ドーキンスが正しいと考えている。しかし、大進化は小進化をスケールアップしただけのものではない。グールドの古生物学的な視点は、大量絶滅とその結果について、そしておそらくは種と種分化の本質について、真の洞察をもたらしてくれる。したがって、地域的なスケールの進化についてはドーキンスが正しく、一方、地域的スケールの事象と古生物学的に長大な時間スケール事象との関係については、おそらくグールドのほうが正しいということになるのだろう」(p.166)
どちらかというと、中立であろうとしつつドーキンス寄りであったように思う。『理不尽な進化』を読んだ後だと、少し踏み込みが浅いようにも思ったが、改めて論争の背景と事実を辿るのには短くて適切な本。そんなニーズが今あるかどうかわからないが。
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『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』(吉川浩満)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4480437398
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本のタイトルの割には、別にドーキンスさんとグールドさんは、言うほど進化論的には対立していない、むしろ科学哲学的な対立があるのと、学説の対立をあおるような周りの学者の存在が、この二人の「対立」であるのだなぁ、とこの本を読んで思いました。ていうか、この本の「解説」読めば済んでしまう気が…。
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第1部 開かれた戦端
第2部 ドーキンスの世界
第3部 ハーヴァードからの眺め
第4部 論争の現状
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-20080619
進化の神秘を自己複製子にまで徹底的に還元して説明するドーキンスと、数億年単位の歴史に天体の楕円軌道にも似た壮大なパターンを見出すグールド。対照的な二人のあいだの相違点と共通点を簡潔に整理してくれる
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ひと通り読んでみて理解しにくいなぁ,と思ったら,監訳者が「分かりやすく編集し直しました」とのこと.
そのまま,訳してもらえればもしかしたら理解しやすかったのかな?
内容的には面白かったです.
再読必須
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生物進化論の2大巨塔の戦いを書いた本です。
本質的には分かり合いながらも学説がぶつかり合う2人について説明されており、生物学者のちょっとした息抜きにはなる一冊です。
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ドーキンスは、進化生物学が解明すべき問題は生物の適応の複雑さであるとし、生物の進化は小さな変化と自然淘汰の累積であるとする外挿主義(漸進進化説)をとる。
他方グールドは、大雑把に見たときに生物のかたち(異質性)が長い歴史の中で大きく変化していないという事実や、進化の途上にある中間種の化石が発見されないという事実に注目し、生物の進化は短期間の急激な変化と長期にわたる均衡状態の連続であるとする断続平衡説をとる。
著者は中立的な視点に立ち、両陣営の主張の妥当性を検討する。両陣営とも自説の根拠を過大評価しているところがあり、また批判の応酬は微妙にすれ違っているように見えることが少なくないという。
ドーキンスとグールドのさまざまな主張を比較検討した上で、著者は最後に、進化についてはドーキンスに近い考えをもっていることを明かしつつ、一方で生物の大量絶滅や種分化に関する議論の妥当性についてはグールドに軍配を上げている。
ドーキンスとグールドの違いは、言ってしまえば、観察される事実を眺める角度の違い、どのような事実に比重を置くかの違いによるものだと言えるだろう。歴史解釈の違いによる論争にも似ている。
生成文法を学んだ身としては、ドーキンスらの外挿主義は適応の過程を合目的的(結果ありき)に捉えているように思うのでグールドの方を支持したい。
生物進化は種分化の進行の歴史ではなく、最初期に爆発的に生み出された種の異質性の収斂の歴史であるという見方も納得できる。これに対するドーキンス陣営からの批判(“多様性”と“異質性”の区別への懐疑など)も無視できるものではないが、グールドの主張を完全に退ける根拠にはならないように思う。
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生物進化の両極とみなされがちな二人だが、一言で説明できるような違いは無い。当然ながら両者が肯定する議論が大部分をしめる。しかし微妙だが決定的な世界観の違いがある、というそういう話。
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英国のリチャード・ドーキンスと、米国のスティーヴン・ジェイ・グールドは、奇しくも同じ1941年に生まれた(グールドは2002年に死去)進化生物学者で、ドーキンスは『利己的な遺伝子』、グールドは『ワンダフルライフ』などの一般向けの科学書を多数著しており、一般的な知名度の極めて高い学者である。
本書では、オーストラリアの哲学者キム・ステルレルニーが、その二人を比較し、両者の間での論争を吟味した上で、両者の間の相違点と共通点をあぶりだし、それぞれの特徴を鮮明にしている。
内容を大まかに整理すると以下である。
◆ドーキンスとグールドは、進化生物学における異なった知的・国家的伝統をそれぞれ代表している。ドーキンスの恩師は動物行動学者であり、そうした背景が、ドーキンスを適応の問題に敏感にさせ、適応的な行動が系統の中でいかに進化し、個体の中でいかに発達するかに関心を抱かせている。一方、グールドの恩師は古生物学者であり、ある動物の能力と環境の要請との一致は、もし存在したとしても、化石生物の場合には現生成物ほど明瞭ではないという事情がグールドの考え方に影響を与えている。
◆ドーキンスは、遺伝子の系統が複製されようとする競争こそ、進化の根本的な競争だと見なす。長い生命の歴史の中には、大陸分裂・火山噴火・海や氷原の拡大縮小などの地球の地質学的な現象や、小惑星の衝突・太陽の活動の変化などの地球の外部からの力により、偶発的に大量絶滅が起こったこともあるが、その間の時期には、進化は普遍的かつ強力なものとして、遺伝子の構成を変化させ、遺伝子の「乗り物」である生物に適応的な改良を生じさせてきた。
◆一方、グールドは、動物を構成する主な形は全てがほぼ同じ時期に生み出され、それ以降は新しいものは一つも生じていないという見方をしており、それは、進化が新たな適応を生み出すときにその歩みを止めたりはしないということと矛盾すると考える。グールドは、進化のメカニズムについても、過去の大量絶滅の際に生き残ったものは、適応度よりもむしろ偶然に助けられたと考えており、ドーキンスに比べると、進化の歴史を説明する上で自然淘汰にあまり重きを置かない(「断続平衡説」)。また、淘汰の働きについても、ドーキンスがいう遺伝子レベルでの淘汰という考えに懐疑的で、個々の遺伝子が生物にもたらす効果は、同じ動物内の他の遺伝子や環境の様々な特性に左右されるのであり、淘汰が働く場合は、個体に対して作用するのが通常だと考える。
◆両者は「科学」に対する評価も異なる。ドーキンスは典型的な啓蒙主義者で、科学は完全であり全てを説明しうると考えるが、グールドは、起こりうる科学的発見とは別に、人文科学、歴史、更には宗教さえもが価値の問題に省察を与えると考える。
上記のように意見の対立が強調される二人ではあるが、解説では、大衆に対しダーウィン主義的な進化を啓蒙するときには、手を携えて協調していたし、自然界の脅威に魅了される歓びや、そのような脅威こそ純粋に自然科学的な説明に値するという確信を含めて、共通するところも多かったことも付記されている。
(2018年1月了)
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20180122
遺伝子決定論のドーキンスと、断続平衡説のグールドの比較。
ドーキンスの論旨は、種は遺伝子を残すために適応していくプロセスを経て、小進化を遂げている。中でも人間はミームと呼ばれる文化的遺伝子を受け継ぐことで、種と文化の進化を遂げることができる。
一方、グールドの論旨は、種が生きる環境=ルールを変えるほどの外的要因が生き残る種とそうでない種を振り分け、分化が進んだと捉える。生物的な大きな視点で捉えると地球環境を変えるほどの大きな要因が発生したため、恐竜やカンブリア紀の生物の絶滅と多様性を生み出したのだ。
筆者は、ミクロな視点ではドーキンスの適応進化に納得した上で、マクロな視点ではグールドの説が当てはまるだろうと捉える。私もこの点に同意である。
人間が進化するにあたり、文化的な進化を遂げるという点は興味深い。遺伝子を残すために子供を育てることや、組織を円滑にするために後輩を育てることは一見利他的に見えるが、生存戦略としての利己的な行動なのである。そう考えると家族を持つことへの目的が分かってくるかもしれない。
恐竜を学んだことから、生物の進化と絶滅について学ぶために読む。
特に、遺伝子レベルで進化を促すドーキンスの理論と、偶然的進化があったとするグールドの比較は興味がある。どう結論づけるか。
ドーキンス
・自然淘汰で種が進化していった
・利己性、利他性=協力←スーパーオーガズムではなく、種を保存するという生存行動
・適応=盲目の時計職人、登れそうもない山を登る
グールド
・断続平衡説
・自然淘汰ではなく、外挿的な変化によって種に変化が生まれる。小さな要因変化
・地質年代
→生物種の構成に応じて、代、紀、世と区分
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両者の主張を要領よくまとめて比較し、著者自らの見解も述べている。ドーキンスの理論はシンプルで受け入れやすいが、グールドは古生物学の立場から重要な指摘をしているといった感想。
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ドーキンスさんはともかくグールドさんのことは全然知らずにおりました。
バージェス頁岩動物相の話は面白いです。常識がぐるんと裏返しになる感覚は、適当に手に取った本を読む醍醐味。