紙の本
フィリップ・アレル監督映画化原作
2017/01/12 10:32
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
IT企業に皮肉な目を向けるところが著者らしい。愛を手に入れられない男と、手に入れても虚無感につつまれる男の対比がうまかった。
紙の本
内容紹介
2004/09/20 16:58
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投稿者:角川書店 - この投稿者のレビュー一覧を見る
フランス文壇の寵児ウエルベックの若き哲学が爆発する、伝説的な処女小説。
30歳のプログラマーの僕と、絶対的に女にもてない同僚ティスラン。出張先で女をナンパするも馬鹿にされ、艶々とした黒人男にかっさられ、僕はティスランに彼らを「殺せ」とけしかける…。すべては闘争の領域にあり、勝者と敗者が存在する。そして僕たちは敗者の側にいる。
ミシェル・ウエルベック
1958年フランス海外県レユニオン島生まれ。国立高等農業学校卒業。91年、詩集『生きてあり続けること』、評論『H.P.ラブクラフト』でデビュー。小説第一作『闘争領域の拡大』で一躍注目を集める。続く『素粒子』は98年フランス最大の話題作となり、既に30ヶ国語以上に翻訳されている。その後、『プラットフォーム』は再びウエルベック論争を巻き起こした。その過激な言動、活動とともに、現在フランスで最もスキャンダラスな話題に包まれた作家である。
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幸福の3つの定義を「理性の欺瞞」、「神経の鈍麻」、「感情の弛緩」とした日本人の作家にならうならば、ウェルベックの小説は、徹底的に不幸だ。現代の多くの人間が、知りながらも、必至に目を背けようとする問題を臆することなく描く。その問題とは、「性行動とは社会階級システムのひとつ」であり、その自由化は、セックスをめぐる埋めようのない絶対的格差を生みだすということ。これは、言い方を変えれば、異性の性的興味を喚起できない人間は、経済的な階級とは別の強力な支配力のある社会階級の中で、敗者としての烙印を押されるという事実だ。この闘争に対するオブセッションは、ありとあらゆる選択の潜在的動機付けとなっていると個人的には思う。しかし、この金銭とセックスをめぐる二つの階級システムの中で傷つき絶望しつつも、それでもなお、「闘争」し続けなければならないならば、この小説の主人公がいうように、現代人の精神状態は、「苦渋」の一言につきるのかもしれない。
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「性的行動はひとつの社会階級システムである。」
これがコンピュータエンジニアの「僕」が辿り着いた中心定理だ。
さらに「僕」はこう付け加えている。
「愛という概念は、存在論的には脆いが、作用という面においては絶大な力を示すあらゆる特性を持っている。あるいはつい最近まで持っていた。」
一方、「どうあれ愛は存在している。その結果が観察できるから。」という主張がある。
その愛とは「僕」の中心定理とどうかかわるのか?
「セックスの自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大している。」
容姿が不細工な男あるいは女はセックスにおいて「絶対的貧困化」に追い込まれる。
「僕」は数年前までヴェロニクがセックスパートナーだったが、精神分析医に「卑小で、自己中心的で、横柄で、モラルの観念が完全に欠落しており、愛することが慢性不能である」と「分析」されていた。
果たしてそこに愛はあったのか?
闘争領域の拡大という個の欲情と存在をかけた厳しい課題は、もがけばもがくほどに打ちのめされた敗者を生む。そう同僚のティスランにように。
そこから脱することを望む「僕」はティスランにも脱することを半ば強制する。
そしてその結果、「僕」も空虚なサラリーマン生活から抜け出し、「自分」を解放することを選ぶ。
精神状態が著しく不安定になる「僕」。
さらに「自分」の殻さえ打ち破りたくなった「僕」はどうすれば?
一時代前のフランス映画のようなふわっとして乾燥的な空気感。
エロスを哲学的に表現し、象徴的に映像化する手法。
まさにフランス的な、これぞフランス的というべき作品だったといえるのではないか。
エロ表現とともに、時おりブランドなガジェットを織り混ぜるところなどは流行作家たる所以なのか。(笑)
「自由」ということの悲劇を、いやもしかすると喜劇を、エロ面で世に突きつけたおかしなおかしな物語。
う~む。あえて言われなくても…。(-_-;)
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非モテ文学。
結婚がある程度強制されていた過去から自由に誰とでも付き合える現代になり、一部の魅力ある人間に性生活が集中するといった話。
大手コンピュータ会社に勤めている主人公が自分や他者を冷静に分析しながら話は進んでいくが終盤には鬱病になり、まぁなーと思った。
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ウェルベックの処女作。ワニの装丁がチャーミング。カバー外した状態も格好いい。フランスでの出版は1994年。物語の中ではまだミニテルを使っているが、紙の電話帳が古いという台詞があり、ミニテルのおかげでフランスでは電話帳が廃れるのがずいぶんと早かったのだろう。主人公が官公庁の仕事でコンピュータの使い方を教える恵まれた収入のエンジニア、という設定に90年代という時代を感じる。
その後のベストセラー『素粒子』と比べるとさすがにこれは稚拙な作品に見えるが、それにしても女性に不自由する男性の現代社会の生き辛さは、ウェルベックのテーマとして一貫しているんだなと思う。
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友人の勧めで読んだのだが、何故今までウェルベックを素通りしていたのか疑問に思う。
いかにしてウェルベックを回避するのか、その方法や動機は我々の実生活から紐解く事ができるだろう。
圧倒的な鬱作用、人を遠くに追いやる悪臭がこの小説にはある。つまり、人はわざわざ悪寒のする道へは動物的に足を踏み入れない能力を持っていて、その無意識能力が彼を回避するのではないか?とさえ思うのだ。
社会的な確信と相まった真理的な皮肉が文体の殆どを形成し、稀に挟まれる甘い文学体質な台詞がウェルベックの愛に対する消極的な吐露として耳に残る。
この作品が評価されるには幾多の心眼をくぐり抜けてこなければならなかったはずだ。
しかしそこにこそウェルベックの凄みを感じてしまう。似た様な作品が「二流」として蹴落とされてきた中、あたかもそれを承知した上で果敢に自らの「戦闘領域」で挑もうとする姿勢には、驚きだった。
このウェルベックの過程を、運がいい、という読者もおられるだろうが、それは違う。
ウェルベックにそんな事を言うと、彼はこう返すはずだ。
「運?そんなものは存在しない。ただ、可能性として薄かっただけだろう」と。
その薄い可能性に無断で立ち入るのがこの文学者の力量だ。
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非モテと言う名のマジョリティめ、とイライラしてしまうあたりに己の救いのなさを見る。主人公のケツを蹴飛ばしたくなる。あと3年早く読めばとりつかれたかと言われるとそうでない。なんなんだろ。
燻ってる人には火をつけそう。
今の僕は苛立ちなしにページを繰れなかった、起伏なしに希望のある物語が読みたいのだろうか?内容はともかくすすっと読めた。訳のおかげかしら。
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闘争領域、ここでいうところつまりモテ層VS非モテ層。その拡大、つまり格差の進行が止まらない。というかそもそも戦いも何も、恋愛において勝った負けたというのはもう自己というプライドのぶつかり合いのうえでしかなく惨めでしかない。
主人公でエンジニアの男は俯瞰する。ティスラン、生まれついての醜男で完全な敗者を。ティスランは闘争する。ところがことごとく駄目だ。そんなティスランに期待している主人公は彼に狂気を与える。完全な敗者はその点においても勝利することなく(といってもこの勝利はモラルの敗北)、主人公は失望する。やがて敗者が舞台を降りた時、主人公は自分を悟り崩壊していく。
おいおいテメーもおんなじくらいモテてねーじゃん!とツッコミを入れた時に気付く。読者である僕自身もまた彼らを俯瞰している。あーららまんまと闘争領域に踏み込んでいる。やられた。
資本主義社会に生きる以上、勝った負けたは常々つきまとい、それを真向から見ようが斜に構えようが惨めに戦うしかない。
興味深いのは主人公が小説という形で動物たちを語らせること。小説内小説の動物たちはウエルベックの言葉を濁すでも濾過するでもなく純度を保ち吐き出す。なぜ動物なのか。作中には文芸ジャンルとして動物小説が優れているからとだけある。戸川幸夫や椋鳩十のようなリアリズムを含んだ動物小説ではなさそうなので、動物にこだわる理由も動物だからという以外にあるのだと思うが追求するのはめんどくさくてやめた。
“セーブル=バビロン駅で、奇妙な落書きを見かけた。「神が望まれたのは不平等であって、不当ではない」とある。神の摂理にこれほど通じているこの人物はどこの誰だろうかと僕は思った。”(32ページ)
初めてのウエルベック。なかなか笑えて素敵だ。
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「心理」に還元されることのない、性と暴力のオブセッション、唐突な妄念と衝動、大衆社会に対する呪詛、断片的なテクスト構成…。
この作品の特徴をこうやって挙げてみて気づかされるのは、中原昌也の小説との近似性なわけですが、実際、読後感はかなり近いものがありました。
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明晰な知性というのは決して人を幸福にしない。クンデラやウェルベックを読んでいるとそんな目を背けたくなる事実をつくづくと思い知らされる。処女小説である本作で描くのは文明の進歩によって生まれた資本主義による自由化のイデオロギーが恋愛(セックス)に介入することで、逆説的に非文明的な万人の万人に対する闘争状態から人は逃れられなくなってしまう悲劇である。所詮愛は、文明とはフィジカルエリートに敗れた者たちの慰み物なのだろうか。ウェルベックはそうしたギリギリの所で愛を、弱さを静かに肯定する。それも哀しくもとても優しい。
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2度目の読了。
1度目よんだときはティスランの印象が強かったが2度目は主人公の方が印象に残った。
この非常に行き詰まって鬱になって自殺を選択するか否かというペシミズム。
今まさに自分の姿を映し鏡で見ているかのようで読んでてつらい気持ちになった。それ以上に目が離せなかった。
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通底に流れるムードは以下の通り。
「僕はこの世界が好きじゃない。やっぱり好きじゃない。僕は自分の生きている社会にうんざりしている。広告には反吐がでる。コンピュータには吐き気がする。」
三十歳そこそこのサラリーマンでそこそこ生きている。そこはかとない不安と、無気力に苛まれながら。
「何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。」
主人公の「僕」は勝ち組と負け組のあいだで揺れている。今のところ決定的な負けではない。しかしこの先にブレイクスルーもないのだろう。ああ、いやだいやだ。
では、闘争領域とはなにか。
「完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化に富んだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に向けて拡大している。同様に、セックスの自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大している。」
持てる者は一生栄え続け、持たざる者は永遠に何も掴めない。そして、逆転は、ない。
このように設定されたカーストに「僕」は反旗を翻すのでも抗うのでも立ち向かうのでもない。ただ、世界そのものを見つめ、流されるままに漂うのみである。まるで自然災害が過ぎ去るのを待つように。「僕」は何もしないし、何もできない。
「しかし僕になにができる? だから僕は窓の外に目を遣る。」
すべてを諦め、傍観者になろう。それしかないのだから。
不穏で不機嫌なムードが作品世界を支配する。
読んでいて不快で、反吐が出る。だが、読んでしまうのはなぜだろう。
ウエルベックの最初の代表作であり、最も毒のある一撃。
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【由来】
・この作家の「地図と領土」からamazonの関連本で。中古で¥8,000とかしてる。
【期待したもの】
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【要約】
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【ノート】
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【目次】
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露悪的で、ダメな人ばかり出てくるのに、読んでいて、そんなに嫌にならないのはどうしてだろう。
最後まで読んで、その理由がわかった。
それは、この物語が自分のことだからだ。自分であり、自分の周りの物語である。
訳者のあとがきにあった通りだ。
無意識的にも、意識的にも、あまりにリアルで、特に最後の章が。