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紙の本
評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)
著者 小谷野 敦 (著)
物書きは儲からない。本を出したって、売れやしない。それでも「書いて生きていきたい」と言う人のために、評論の読み方、書くにあたっての基本的な事柄を示し、物書きという仕事の苦...
評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)
評論家入門
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商品説明
物書きは儲からない。本を出したって、売れやしない。それでも「書いて生きていきたい」と言う人のために、評論の読み方、書くにあたっての基本的な事柄を示し、物書きという仕事の苦しみと愉しみを説く。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
小林秀雄はヒデーオで、柄谷行人はカラブリコージ、あと丸谷才一は才能ナシ
2009/08/14 17:33
18人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
小谷野さんの評論はいつも読んでいてスカッとする。本書もその例外ではない。ちっとも面白くない文章しかかかないくせに、なぜか出版社がありがたがる「丸谷才一」をけちょんけちょんにくさしてくれてみたり。高校生の時、当時の「高校生読書案内」その他で「すごいすごい」と持ち上げられていたので読んでみたところ、断定と飛躍のオンパレードで一体こいつの文章のどこがすごいのか全く理解できず部屋の隅に投げ捨てた記憶のある「小林秀雄」もくそみそにけなしてある。「小林がよくないのは、その文章の多くが、論理的に読めないから、ということに尽きる」とは、誠に持って至言である!こいつの文章は正に「全編独り合点で、わかるやつだけ読めという態度」なので、これが私が進学校に通っていた当時、あまりにも鼻について好きになれなかった。私は文章とは福沢諭吉が言ったとおり「猿にでもわかる文章」でなければならないと思っている。小林秀雄の評論は悪文の代表例であり、知識も経験も少ない高校生なぞに読ませるべき文章ではない。そう思って桜蔭に進んだ娘が学校からもらってきた京都書房「新訂国語総覧」第四版を見ると小林秀雄が大きく取り上げられている。それとならんで、おお、あの死の間際まで「北朝鮮は悪くない」と叫びながら死んでいった国際政治音痴の丸山真男や、大金持ちの医者の家に生まれ何不自由なく育って日本の敗戦を早くから見通した「大秀才」極左の加藤周一まで載っているじゃないか!一度、小谷野先生には文部科学省審議会の諮問委員になっていただいて、この辺りの人選を根本から見直していただきたいものだ。
返す刀で小谷野先生はマルクス主義信奉者の柄谷行人も血祭りにあげている。「むろん」「もちろん」「いうまでもない」を文章の中にちりばめる柄谷の手法を「小林秀雄以来の、日本文芸評論(特有の)こけおどし」と切って捨てる小谷野さんの筆致は鮮やかである。
小谷野さんを見ていると、なんか人生を辛い方へ辛い方へと駒を進める「だめんず」みたいな香りがしてきてならない。普通、受験秀才は「将来何を専攻したら就職に有利か」「どの職業がやりがいと高い報酬にありつけそうか」を常に考えて努力するものだが、こういう俗物的な生き方と小谷野さんは無縁である。でも精神病を患い、向精神薬まで飲みながら論争するガッツを普通の人はもたない。確かに「匿名は卑怯である」かもしれない。でもそのネットでの罵詈讒謗は匿名だからこそできるものだし、それが世にもまれな「自由な言論空間を作る」ことにもつながっていると思う。だからこそbk1の書評は歯に衣着せず出来て楽しいし面白いのであって、それが故に毎週新聞に乗る「仲間ぼめ」「ヨイショ書評」とは一味も二味も違う「骨太の真実」に満ち溢れた書評がbk1にあふれるのではないか。あまり筋論に拘泥すると人生生き難くなる見本のような人が小谷野さんかもしれない。でも私は小谷野さんが好きだ。今後とも書いて書いて書きまくってもらいたいと思う。
紙の本
あなたも評論家になれる…わけではない
2004/11/21 17:13
7人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『もてない男』でブレイクした評論家の最新刊である。
今回は何と、「評論家入門」というタイトルである。平たく言えば、「あなたも評論家になれる」ということだ。ハウツー本もここまで来たか、と言いたくなるが、ちょっと待って欲しい。副題をよく読もう。「清貧でもいいから物書きになりたい人に」。この副題が曲者である。「清貧でもいいから」とあるが、清貧とはどのくらいの「貧」しさを指すのか? 一人暮らしをしていれば何とか食べていけるくらいの収入がある(しかない)ことを指すのだろうか?
小谷野敦氏はいまや有名人のひとりと言っていい。その有名人が、いったい評論家としてどの程度の収入を得ているのだろうか? 氏は正直に書いている。物書きはもうからない、と。そして収入が先細りになったらアパートを畳んで実家に帰るしかないだろう、とも。また、評論家仲間の岸本葉子氏が、この連載が終わったらどうやって暮らしていこうかと悩んだ経験を持つ、とも書かれている。
小谷野氏も岸本氏も東大卒の秀才・才媛である。秀才・才媛であるということは、物書きの必要条件である。たくさんの本を読み、様々な領域に目配りし、それを自分なりに練り上げて独自の産物としてアウトプットする。これは誰にでもできることではない。頭が良くなければ不可能な仕事なのである。特に氏が本書の中で推奨しているエッセイストという仕事は、漠然と日常茶飯事を書きつづるだけではすぐ種が尽きてしまうわけで、絶えざる勉強が欠かせない職業であるはずなのだ。
また、小谷野氏は大学時代にマスコミへの回路を比較的多く持った教授に教わっている。誰もが瞠目するほどの圧倒的な実力があるなら別だが、マスコミは基本的にコネ社会である。つまり、小谷野氏は実力とコネとをあわせ持つ恵まれた立場にあったのであって、かりに女にはモテなかった(笑)にせよ、評論家として立つには圧倒的に有利な場所にいたわけだ。
その小谷野氏にして、清貧を免れていない。したがって、この本の主張にもかかわらず、評論家を目指すのはよほど慎重にしなければ、と私は読者に老婆心から訴えたい。
では、この本は無価値なのだろうか? そうではない。これは小谷野敦氏の生活と意見を知るための書物である。評論や評論家について氏がどういう考えを持っているか、評論家として氏がどういう暮らしをしているかを読み取って、氏のさらなる発展を祈ればよいのだ。かつて岩井克人が柄谷行人に言ったように、日本ではエッセイとは有名人の日常を知るために存在する。小谷野氏のこの本も、そこをはずしていない点で、エッセイの常道に沿っているのである。
なお、「ヒエラルキー」はドイツ語とあるが(139ページ)、ドイツ語では「ヒエラルヒー」と発音される。ヒエラルキーというのは英語読みのハイアラーキーとドイツ語読みとの中間読みであり、おそらく学術用語としてのドイツ語がその地位を低下させていく中で英語との折衷読みとしてでっちあげられたものと推測される(少し古い日本語の学術書を読むと、ヒエラルヒーになっているのが分かるはず)。
また、伊藤整の名の読み方だが(216ページ)、本名では「ひとし」であるけれども、作家としては「せい」が正しいのではないだろうか。
紙の本
「採点!有名評論」
2004/12/07 20:50
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GG - この投稿者のレビュー一覧を見る
文芸批評(比較文学)と私憤エッセイのハイブリットである『もてない男』で文名をなした著者による「評論」論および「評論家」論。歯に衣着せない断定と、ときおり挟まれる法界悋気という小谷野節で、読者を楽しませてくれる。
断定の方からいこう。評論といえば、小林秀雄が代表的なスターだ。この代表的人物をとりあげた上で、小林秀雄は非論理的なので小林スタイルを真似てはいけないと強く強調している。評論は、著者のひらめき・思いつきから出発するにしても、事実に基づき論理的に組み立てられるべきもので、レトリックの力で押しきるものではないからである。小林秀雄の評論の多くは論理的に読むことができないので駄目なのである。初期作品はそうでもなかったのに何故こうなっていったのかというと…という謎解きまでついている。
さらには、「採点!有名評論」という項目まで設けられていて、有名評論がAからEまでの五段階で評価されている。井上章一『法隆寺への精神史』をA(学問でありながら評論でもある)とし、吉本隆明『共同幻想論』をE(あきらかにひどい)とする大胆さが痛快である。また、一章を設けて柄谷行人『日本近代文学の起源』を細かく読みなおしている。具体的な失点をいくつも挙げてはいるが、こちらはそれほど有効な批判になっている感じがしない。
また法界悋気といえば、著者の独擅場である。本書では第五章「評論家修行」が、それにあたる。有名ライターになるまでの苦節10年が、著者の周りの先輩学者などの実名入りで書かれていて、ゴシップとして楽しめる(まあ、あまりよい趣味とはいえないが)。本を一冊出して、雑誌「批評空間」に論文を二本出した頃に世間からまったく反応がないことに焦ったという記述がリアルである。
評論界のオールド・ファン(?)には、往年の栗本慎一郎『鉄の処女』(カッパブックス)を思い出してもらうとよいかもしれない。一種あの本の00年代版といえそうな気がする。
紙の本
本当に書きたいことを書きたければ、職業ではなく趣味にとどめるのがよい
2009/09/23 20:36
11人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
私も小説家になりたかった一人である。二十歳になる頃には、小説を書く才能があるかどうかは自分で分かる。才能はなかった。それに私の人生は平穏すぎた。それで、研究者になれたらと考えたが、なれなかった。その理由はこの本ではっきり指摘されている。移り気だからである。一つの対象を徹底して追いかけることができないのである。何かに魅せられて関係の書籍を大量に読むことは何度かあった。しかし、しばらくすると、他に大切なものあるいは面白いものがあるのではないかと目移りする。壁にぶつかると、たいした努力もせず才能がないとほうり出す、その繰り返しをやめられないのだ。
小説家にも研究者にもなれないまま年を重ね、どんな分野のことに対しても一言批評をするような人間になった。でも、評論家になれないことは、この本を読むとよく納得できる。それが不幸でないこともこの本を読むと分かる。夢の印税生活なんて、宝くじの一等三億円が当たることを夢見るようなものでしかない。そんなことを夢見ている若者へのよい警告の書となっている。
内容はと言えば、著者の恨みつらみが書き綴られている。共感するものもあれば、そうでないものもある。たとえば、小林秀雄、柄谷行人、中沢新一などに関しての評価には納得がいく。しかし、「論争の愉しみと苦しみ」で著者が書いていることは、それなりに発言権を保証されている立場だから言えることも多い。この本を読むと、社会で知識人と呼ばれている人が、いかにプライドが高く、自らの間違いを認めることを忌避しているかがよく分かる。
『それから、「チンピラ」はなるべく相手にしないほうがいい。…大学の教師でもチンピラみたいなのはいる。』(p.181)とある。本当にその通りで、私もちょっと批判的な書評を書いたら、某国立大学の教師から脅迫まがいのメールを送られたことがある。誤解に基づき、とても知的とは言い難い感情的な言葉が連ねられていて、自分の批判が正しかったのだと確信したのだが、家族を持つ身としては、安全第一を考えた。その点、妻がいると精神的な支えになるだろうという著者の考えは半分当たっているが、天涯孤独なほうが言いたいことを言える面もある。
『bk1の書評などひどいもので』(p.181)と一括りで非難しているが、一括りで語るのは論理的ではない。私の書評がひどくないと言うつもりはないが、少なくともbk1の誰々の書評は言及すべきである。
ともかく、評論が儲かるものではないこと。学界がどんな社会か。評論を書く時に心掛けるべきことなどが、実感を込めて書かれているので、学者や評論家志望の若者にお薦めである。
紙の本
書名に騙された
2021/07/28 12:22
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:.ばっは - この投稿者のレビュー一覧を見る
誰の本だったか、本書が出てきてメモしていたから手に取ってみたが、これはハウツー本ではない。そして、ここでいう評論とはほとんど文藝評論のこと。著者に興味がある人以外は読む価値なし。私は書名に騙された。
様々な文藝評論を評価しているが元の文章を読んでいないので何とも言えないし特段の興味もないから該当部飛ばし。文藝評論やるならこの程度は読んで当然ということか。
ただ、小林秀雄批判には大いに賛同する。音楽評論を覗いたことがあるけど私にとっては何の役にも立たなかった。
著者の実体験から予想以上に文筆業で食っていくのは難しいと。道楽で書いていくのがよいのだろうな。