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紙の本
考えることは自由になることである。
2004/12/08 14:22
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:千田腐海 - この投稿者のレビュー一覧を見る
考えることは自由になることである、と序章で作者は書いている。
そして本書を読み進む内に、私は彼の見えない大きな温かい手によって、自由の方向へとやさしく導かれようとしていることに気づいた。
私は自分が考えていると考えるほど考えてなどいなかった。
私が自由に考えていると考えていたことは実は不自由の中で自由に考えているに過ぎなかった。
私は以前小林「よりのり」氏の著書を初めて読んだ時もこれに近い感覚を覚えたことがある。しかし小林よしのり氏の著書が与えてくれるのは、自由な考え方ではなく、既成の知識から自由になった見方である。いわば答えである。しかし答えが与えられるということは、新しい不自由に入り込むに過ぎないのだ。
小林「和之」氏のこの著書は、読者を自動的に考えさせる巧妙な作りになっている。そして読み終えた時に、確かに以前より自由になっている自分に気づかされるのである。
紙の本
優れものの「正義論」
2007/10/30 21:26
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
いきなり、面と向かって「おまえはおろかものだ」と指弾されたら、誰だって面白くはないだろう。だが、「凡愚な存在としての人類」と一般化するなら、「自分もその一人かもしれないな」と謙虚に受けとめる人もいるだろう。ここでの「凡愚」とは、全能であるかもしれない神や、悟りを開いた聖人と対比しての謂いである。
著者は、一般に「神を信じること」を否定しない。しかし、この本では神の意志が存在したとしても、それを人間が正しく理解できる保障などないとする。だから、そんなことは考えても仕方がないとする。考えるのは「人と人との間の正義」、いわゆる「規範理論としての正義」だ。
これを書名にせず、『「おろかもの」の正義論』というユニークなタイトルにしたのは、実にうまいと思う。「なんのことかな」と、手に取ってみたくなるのだ。
「正しさ」を語るうえで、規範的な正義を基軸とするのは、法哲学者らしいオーソドックスな方針だ。だが、本書は哲学的な思弁にとどまらず、具体的な問題事例に則して考えていくことに注力している。もちろん著者は、「正義論」の主流である抽象的な原理を構築することの重要性を否定はしない。
《もちろん、抽象的な原理は重要だ。「何が正しいか」を考えることを、そのときそのときの場当たり的解決に終わらせるのではなく、他の問題にも通じる普遍的な考察としての意味をもたせるためには、考察の成果を抽象的な原理にまで高めなければならない。だが、いかに抽象的に見えようとも、具体的な問題とのつながりをしっかりともっておく必要がある。具体なくして抽象はない。事実から遊離した原理はせいぜい信念でしかない。
正しさを語る人間と原理の関係にも、具体的な処理と原理の関係と同様のことがいえる。「正しさ」を定める規範が具体的な人間の行動の準則である以上、「正しさ」を論じる人間は態度決定を迫られる。具体的な問題を、自分はどうするのが「正しい」と思うのかを抜きにして考えることはできない。》
具体的な問題とは、脳死と臓器移植の問題。事実認定と裁判。科学と正しさ。不妊治療の問題。死刑制度の問題。交通事故と生命の重さ。愛国心と国家。民主主義の問題・・・その他である。
新書サイズでこれだけ多岐にわたるテーマを盛られると、私は通常なら「詰め込みすぎ」という感想もつ。しかし、本書からはそれほど感じない。それは丹念に彫琢された論理の緻密さがなせる技で、「詰め込みすぎによる、はしょり感」を大幅に低減しているからである。
ただ一点、難があるのは死刑制度の項だ。終盤になって、雑誌に発表された論文を読んでほしいと逃げてしまう。ここは不満だった。
著者の示す具体的問題に対する見解について、いくつかは私の意見とは異なる。自己の意見に対する態度としては、「絶対の正しさ」はそうはあるものではないということを前提にしている。だから、「常に変わりうる可能性を孕んだ[暫定的]な意見」の持ち主のつもりである。
ただ、脳死や死刑制度については、私もない頭で真剣に考えてきたつもりである。いまでは「変わる可能性の少ない、かなり固定化(99%ぐらいか)された意見」になっている。それでも、著者の論理に「あやうく」説得されそうになった。それだけ「力のある論理」なのである。
もっとも、著者は読者を説得するつもりはないとのことだ。されど、優れたテキストは、著者の意図がどうであれ説得力に溢れているものだ。
それは、根底にある著者の規範観がしっかりしているからこその説得力でもあって、おろかものの私でも魅せられるのである。
その特徴は、規範を「調整原理」として捉えることにある。価値にかかわりをもった人間の欲求を、交通整理するためのルールが「正義」となる。そうして出した見解を、より良き規範の候補とするのである。
おたがいの異なった「正しさ」を持ちより、きしむベッドの上で暖めあいながら、なんとか折り合える地平を見出していこうとする努力の結晶。それは半端な妥協とは違う(「熟考された妥協」とは言えるかもしれない)。強靱な思考によって掘り出された、クールでありながら慈愛すら感じる、水晶の「正義論」なのである。
紙の本
「絶対」などない世界のなかで
2005/02/16 09:33
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:さいとうゆう - この投稿者のレビュー一覧を見る
現代において、あらゆる「絶対」は存在しない。絶対的な権威も、絶対的な価値も、絶対的な規範もない。もちろん絶対的な「正義」もない。相対主義者のたわ言ではなく、これは「事実」だ。
だがそれでもなお「正義」あるいは「正しさ」なるものが立ち上げられうるとすれば、いったいどのような形で可能なのか。
《「正しさ」を決定する絶対的な存在を前提できない以上、誤り多き人間が、約束事として「正しさ」を作り上げていくしかない。》(p.43)
作り上げられる「正しさ」とは、「規範的な正しさ」だ。それは「正しさ」の根拠うんぬんとは関わりなく、人間を尺度として測られる「見なし」の態度である。例えば、胎児はまだ生まれていないのに相続権があると見なすように、生物学的・科学的事実には反していても、私たちはその基準を「正しい」ものとして扱う。凶悪犯罪の被疑者であっても、彼を「無罪」と見なさない限り裁判は機能しないし、弁護士の役割も無化されてしまう。事実は、認定されなければ「事実」でさえないからだ。筆者によれば、弁護人は、被疑者の人権を守るために闘っているわけではない。事実を確定するために、被疑者が無罪であるという可能性を追究しているのである。
絶対的な事実は存在しない。しかし、事実なしに物事は立ち行かない。ゆえに、「事実」を確定しなければならない。ニーチェを気取って「事実は存在しない」と言ってみたところで、現実はその機能を停止してしまう。
《事実とは、つまり約束事なのである。》(p.93)
これは、事実が約束事にすぎない、と言っているのではない。曖昧な事象を無理やり単純化するゆえに起こる陥穽を避け、絶対的ではない合理主義から抜け出すために必要なスキルなのだ。論点の違いを「価値観の相違」と言って投げ出すのではなく、合意形成に向けた取り組みを可能にするための基盤なのだ。
《わたしがしようとしているのは、現状を非難することなくありのままに見つめ、そこを出発点として前に進む道を探ることなのだ。居直らず、諦めず、居丈高にならず、ふて腐れず、半歩でも前に進むためにはどうすればよいかを考えることなのだ。》(p.216)
こういう著者の話には、耳を傾ける価値がある。