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半久さんのレビュー一覧

投稿者:半久

317 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本憲法と平和を問いなおす

2005/12/19 19:53

「誰に、向いているとかいないとか」「じゃあ、読むしかないじゃないか!」

16人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

進行中の憲法「改正」論議。この問題を考える上で、参照するに値する本。ありきたりでない、憲法の入門書をお探しの方にもお勧め。
憲法学のホープと目されている長谷部氏であるが、以前の著作のエッセンスも抽出した、「長谷部憲法学」の入門・概説書としても好適。
コンパクトながら中身の濃い、お得な一冊。

あとがきでは、面白いことに、本書が「全く向いていない」人が挙げられている。
一つ目は、《憲法に反する自衛力の保持を断固糾弾し、その一日も早い完全廃棄と理想の平和国家を目指すべきだ》とする人(便宜上「左」に分類)。
二つ目は、《充分な自衛力の保持や対米協力の促進にとって邪魔になる憲法九条はさっさと「改正」して、一日も早くアメリカやイギリスのように世界各地で大立ち回りを演じることのできる「普通の国」になるべきだ》とする人(便宜上「右」に分類)。

では、《「憲法と平和」というテーマ》なのに、どういった読者層に向いているのか。《筆者としてもはなはだ心もとない》と謙遜しているが、私はそんなことはないと思う。
各種世論調査では、憲法九条「改正」に反対する人は全体の半数前後である。この中で「左」の意見を持つ人は、少数派になっていると思う。
自衛隊を何らかの理由(例えば「必要悪」あるいは「解釈による運用」など)で認めつつも、九条は維持していきたいという人が多数だと思う(中間左派に分類)。
また、「改正」賛成派も憲法九条の意義は認めつつも、「実態と合わせるために」、「改正」の必要性があるとする人が大半であると思われる(中間右派に分類)。
アメリカやイギリスと同じような国に日本を変えたいとする「右派」は、少数派だと思う。
ここでの「左右両派」が相容れることは、難しいであろう。
しかし残りの「中間両派」は、議論をしてなんらかの合意に達する余地は充分にあると思う。そのための叩き台としても、本書は役に立つ。
第三章で、広い意味での平和主義のタイプを5つ挙げているが、中でも著者が重視するのは「穏和な平和主義」というスタンスだ。詳しくはお読みいただきたいが、この立場は日本人の、恐らく多数を占める「中間両派」に対して、よりアッピールするものと思う。
「原理と準則」という法規範を用いて、九条と「穏和な平和主義」とを架橋し、他の主張と比較検討しながら「現実」と「理念」をすり合わせようとする手際は、専門家ならではのものだ。

本書が論ずるのは、平和の問題だけではない。著者はこんな疑問を持っている人が、本書に向いているとする(一部抜粋)。

《国家はなぜ存在するのか。国家権力になぜ従うべきなのか(それとも従わなくてもよいのか)。》
《人が生まれながらに「自然権」を持つというのはいかにも嘘くさい。そんな不自然な前提に立つ憲法学は信用できないのではないか。》
《多数決で物事を決めるのはなぜだろう。多数で決めたことになぜ少数派は従わなければならないのか。》
《女性の天皇を認めないのは、男女平等の原則に反するのだろうか。》

まあ、しかし、私見としては、こういった疑問が特になくとも、向いているとか向いていないとかいうことすらも越えて、広くお勧めしたい。

《立憲主義は自然な考え方ではない。それは人間の本性にもとづいてはいない。いつも、それを維持する不自然で人為的な努力をつづけなければ、もろくも崩れる。世界の国々のなかで、立憲主義を実践する政治体制は、今も少数派である。立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖である。》

なるほど。「僥倖」とまでいう経験をしているなら、それを享受している誰しもが、立憲主義の視点から憲法と平和について深く考え、問いなおしていく価値はある。
「立憲主義」そのものを問いなおすことも含めて。
その担い手は、わたしであり、あなたである。

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紙の本

「増補改訂版」について

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

【前の版の読者で、増補改訂版をまだ手にしていない方のために】

こういった一般書で増補改訂版を出してくれるというのは、いいほうに考えれば「著者と出版社の良心」といえそうだ。《こんな間違いを認めるのはイヤなことだし》と心情を隠すことなく、それでも誠実に細かいところをふくめた間違いの修正をしてくれている。

もっとも大きく書き換えたのは、第2章の始めのところ。ク・クラックス・クランに戦いを挑んだ男の話は大げさにふくらましてあることがわかったからだそうだ。

なやましいのは前の版の既購入者だろう。追加で購入してまで読む価値があるのかどうかだ。私の勝手な判断では、「もっとヤバイ話題を大増量した」という宣伝文句の信憑性が購入インセンティブを左右するのではないかと思う。その評価としては・・・

Q 既読のものより、もっとヤバイ話がのっているのですか?
A いえ、それほどではありません。インパクトの度合いはどっこいどっこいというところでしょうか。

Q 新しい、ヤバイ話題が大増量されたのですか?
A 110ページ増量とのことですが本文に関係する話や、この本自体についてのこと、軽いエッセイなどものっていますので、感覚的には10%増量されたお菓子というところでしょうか。

増量分を「オマケ」と表しているだけあって、新しい話といってもひとつひとつが短い。これらをもっと時間をかけて煮詰めて、続編という形で出したほうがよりよかったのではないかと思う。
あと出版社には、こういった増補改訂版を出すなら、既購入者には割引価格で提供するといったきめの細かいサービスをされてはどうかということを提案させていただきたい(すでにやられていたら、ごめんなさい)。

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紙の本

「そうだ、アメリカへ行こう!」

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

15年暮らした日本を離れ、著者は2007年にアメリカに移住した。大半がニューヨークでの体験で期間は短いが、本作でもその鋭い観察眼がいかんなく発揮されていて、たんなる二番煎じにはなっていない。ちょっと頑なに思えるところがあるのだけれど、さほど鼻につく感じはしない。
ほろ苦いユーモアをひとつまみ入れた、滋味あふれる紅茶のような味わいのアメリカ見聞記だと思う。

著者は、冒頭から読み手の興味を誘う。

《成人してから、ぼくはふたつの国に住んだ。いずれも母国イギリスではない。日本とアメリカだ。どちらの国に、より強い違和感を覚えるかと聞かれたら、ぼくは間違いなくアメリカと答えるだろう。》

ステレオタイプなイメージとしては「もの静かなイギリス人」(これじたい前作でくつがえされるが)と「騒がしいアメリカ人」(陽気な人は多いと思うが)というのはある。だが、マイノリティ文化は別として、アングロ・サクソン同士には根本的なところで強い同質性があると考えがちだ。では、なぜ「強い違和感を覚える」のがアメリカのほうなのか。それは経験・心理的な効果が関係している。
著者は、日本に来る前には、イギリスとはまったく違った国であると想像していた。ところがだ。

《長く住むうちに、最初はとまどった習慣も、しだいによく理解できるようになり、結局人間のすることはどこでもたいして変わらないという考えに行き着いたのである。》

いわゆる、「特殊性」から「普遍性」へと回路が開かれていくわけだ。
アメリカのばあいは、話が逆になるのだそうだ。

《ぼくは、アメリカ人はだいたいイギリス人と似ているだろう、ちょっと変わったところもあるらしいが、それは織り込み済みだと考えて、アメリカにやって来たのだが、完全に間違っていた。いろいろと見聞きし、この国について知れば知るほど、ますます、まだまだわからないところがたくさんあると思ってしまうのである。》

アングロ・サクソン同士の「普遍性」から「特殊性」への経路である。ありうることだと思う。
不幸な帰結となった、ある連想をした。それは、開発計画が降ってきた地方自治体で賛否がまっぷたつに分かれ、それまで仲のよかった住民同士が激しく反目しあうという話。「同質的」なはずの右翼や左翼が、内ゲバをくりかえすといった話だ。
「仲間なんだから理解しあえるはず」、「あいつらとは違いすぎるから理解しあえない」。どちらも、たんなる「思いこみ・幻想」でしかないことは、しばしばある。

「結局人間のすることはどこでもたいして変わらないという考えに行き着いた」のだから、コスモポリタン的な資質が身についてきているのだろう。もっと長く住んでいるうちには、わからないところも減って、この地でも日本で行き着いた境地が強くなってくるのではなかろうかと想像する。だから、10年後にまた著者のアメリカ論を読んでみたいと思った。
いや、経験を積んで円熟の域にはいりつつあるのだから、そんなにはかからないかもしれない。

まあ、肩ひじ張らずに《魅力的で奇妙な国》(たいていの国にいえることだろう)、アメリカを楽しめばよいのだとも思う。
内容のごく一部を紹介したい。

・ イギリスの「特権階級」の存在について首を横に振るアメリカ人。しかし、アメリカのビーチにある「階級」はどうなの?!
・ 《交友関係が仕事に役立つというのは、友達づき合いのあくまでも副産物でしかない。》というのが著者のポリシーだ。だけど、アメリカ流「ネットワーキング」はまったく違う。
・ とある多国籍的なシンポジウムでプログラムにない自国歌を歌いだし、それに拍手を送るアメリカ人。場所柄もわきまえず「愛国心」を誇示しがちになる傾向。
・ ニューヨーカーのことを「世界でもっとも無礼な人たち」とけなす人がいる。著者の経験ではまったく正反対。親切で礼儀正しいそうだ。でも、それでは終わらず、素敵なオチがついている。
ぜひ読んでみていただきたい。

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紙の本

「団地」を世界遺産に

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「レトロ・ブーム」といってしまうともう死語なのかもしれませんが、昭和回顧ブームは根強いものがあります。いろいろなできごとや文化・生活などにスポットライトが当てられてきました。
3~4年くらい前からでしょうか、主に昭和30年代に建てられた団地の世界にも、ついにお鉢が回ってきたようです。出版界における、いわゆる団地趣味本の嚆矢となったのがたぶん本書でしょう(以前に『再現・昭和30年代団地2DKの暮らし』も評判にはなりましたが)。

ページ数は95と薄い本ですが、コラムあり座談会あり有名人インタビューあり団地生活のおもしろエピソードありと、情報が豊富で非常に充実したMOOKです。つくり手の愛情を感じます。一部の団地ガイドでは、写真の撮影地がマップ上に番号で示されているのもうれしいですね。
けっこう長く団地に住んでいたので、とても懐かしさを感じます。

本書では、団地を褒めちぎっています。自分のことでもないのにこそばゆい気がしますが、悪い気はしません。どっぷりと「在りし日の記憶」にひたれます。

でも、ありがちなことですけど、過去というのはなぜか美化したくなる傾向があります。思いだしてみれば、部屋は狭く天井は低く暖房効率が悪く冬は底冷えがします。夏は嫌いなゴキ○○にも悩まされました。抽選倍率が高いためなかなか入居できない人も多く、「あこがれの団地生活」とかもいわれましたが、そこまでの実感は正直なかったですね。
それでも「住めば都」なのでした。間取りの広い一軒家でもくみ取り式は多かったですから、水洗トイレ標準はけっこう先進的だったのでしょう。狭い部屋とは対照的な広々とした共有空間は開放的で愛着のもてるものでありました。

どこか1~2箇所くらい、世界遺産にしてほしいと思ったりもします(むりかな~)。
本書とともに、ひとときのタイムスリップを楽しみましょう。

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紙の本

紙の本刑法入門

2009/06/15 19:32

刑法入門の新定番

12人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

法学分野のなかで、「いちばんむずかしい」との声が学生からよく聞かれるのが刑法だ。その刑法を、一般人むけの新書という器で、いかようにして「入門」してもらうか。さらには、複雑なものには図解があるにこしたことはないが、それを使わず文章オンリーでどこまでやれるか。
かなりの手腕が要求されるところだ。それに、著名な刑法学者の山口厚氏が果敢に挑んでいる。

【刑法に詳しくない一般人にとってはどうか?】

オススメしたい。専門用語を使わないわけにはいかないが、できるところは日常言語でソフトにわかりやすく語ろうとしてくれている。
テーマを、以下の4つにしぼって基礎的な解説を充実させている。
1.犯罪とはなにか。2.刑罰とはなにか。3.犯罪はどのようなばあいに成立するのか。4.犯罪はどのようなばあいに成立しないか。
できれば知っておきたい事柄だ。後半にややこしいところもでてくるが、これはやむをえないだろう。

【法学を学んでいる学生さんにはどう?】

お勧めしたい。とくに詰まっている人や刑法なんてつまらないと感じている人に。基礎から見直してみるのにちょうどよい。

【刑法を教えている立場の人、法律専門家にはどうかな。いらないでしょうね?】

いえ、お薦めしたい。実はこういう人たちにこそ「効く薬」なんじゃないだろうか。本書を参考にして「教えかた」や「論じかた」をさらに磨いてほしい。なんか、えらそうな書き方になってしまいすみません。

ところで、いくらわかりやすい説明でも、刑法は奥深い。理論的な対立点や現実の犯罪事例にどう応用していくかなどについてのむずかしさは変わらない。それらについては、先行研究を参考にしながら自分で答えを模索していくしかない。

ひとつには、刑法の解釈としての「拡張解釈」と「類推解釈」の問題がある。通説では原則的には類推解釈は許されないことになっている。
著者は、老朽化した木製の橋に、「牛馬は通行を禁止する。違反者には罰金を科す」と注意書きした立て札が設置してあるケースを例にとる。この警告の理由・趣旨は、重いものが通ると橋が落ちる恐れがあるから禁止するということだ。
拡張解釈によると、ここでの「牛馬」とは、文字どおりの牛と馬だけをさすのではなく、落橋の恐れのある体重の重い動物までをふくむと解釈する。したがって、象やカバなども通行禁止の対象になる。
類推解釈によると、「牛馬」は文字どおり牛と馬のことになる。しかし通行禁止の趣旨からは、それ以外の体重の重い動物や、さらにはそれよりも重い重機などにも当てはめようと解釈するのである。

ここから、微妙な話になる。『基礎から学ぶ刑事法 第3版』でも同じような例を使って説明している。老朽化した橋は同じだ。だが、ここの立て札に書かれているのは「馬の通行を禁止する」なのだ。著者の井田氏によると、拡張解釈によればロバなら馬と同じあつかいができる。ところが、牛は類推解釈にされてしまうのである。

さて、困った。たしかに「牛馬」なら、一般的にも「牛や馬などの重い動物」という解釈はできそうだ。「馬」単独では、拡張解釈ではせいぜいロバなどの近縁種しか認められないという考え方もありうるのかもしれない。現実に牛を通らせたが、とがめを受けたくない人はそういう抗弁をしてくるだろう。
しかし、ここでも通行禁止の趣旨は「重いものを通すと危険だから」ということなのだ。ならば、牛を拡張解釈の対象としてもいいのではないかと思えるわけである。

橋を管理する側としては、できるだけ対象を明確に規定するという対処をしたほうがいいのだろう。「牛馬などの体重の重い動物、これは通行を禁止する」というように。
しかし、未来に起こりうるトラブルなんて、予測できるのは一部にすぎない。だから法律とそれを解釈する法律家は、時にはうとまれたりしながら、これからも活躍し続けるのでしょうね。

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紙の本

紙の本入門!論理学

2007/05/17 06:58

いざ、「入門!」なのだ

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

論理学が苦手だ。だいぶ前に同じ著者の『論理学』に手を出したが、早々に投げ出してしまった。そんな私でも、この本なら何とかかんとかついていけた(それでも難しところもあるけれど)。でも、単に易しく解説しましたというだけの本でもない。

勉強というやつも苦手だ。学問は学ぶことと問うことからなるが、学ぶ=勉強とは「コレコレはこういうことだ」ということを、暗記的に覚える作業が主だ。学ぶ過程での疑問、すなわち「何でコレコレはこういうことなのか」は、ある程度棚上げしないと前に進まない。この、押しつけられたものを素直に受容するのが、ちと苦手だったりする。
しかし、基礎的な知識は詰め込んでいかないと次の「問う」という段階にも行けないとする、詰め込み教育肯定論に一理あることも理解しているつもりだ。それでも、過程における疑問というのにも、もっと配慮してくれる教師やテキストが増えてくれればいいなと願ってもいるのだ。

本書は、その意味での願望に完全ではないにしろ、かなりマッチしたテキストだと思う。それは論理学の営為そのものを哲学するという、著者の目的意識が投影されているからだ。一から論理学を積み上げていく流れに構成していて、読者と同じ土俵で一緒に頭を捻りながら考えてみようとしている。つまり、初心者が疑問を持つようなところは、極力、同じように著者も問いを立てて考えようとしてくれている。
書物とはモノローグであるから、途中どこかで引っかかっても、テキストは読者を置き去りにして流れていく宿命しかない。本書は、それを可能な限り回避しようとする作りなのである。
学ぶことと(その過程で)問うことという、学問の醍醐味をバランス良く両立させた入門書というのもそう多くはないと思う。だから、タイトルも通常と違って『入門!』なのだ。
著者の言葉を借りるとこうなる。

《この本で私は、論理学という学問が、私達が日常用いていることばに潜む論理を理論化し、体系化していく、その作業の実際の手触りを伝えようとした。だから、できあがった理論のみごとさよりも、むしろあれこれ迷いながら理論化を模索していくそのプロセスを、ぜひ味わい、楽しんでいただきたい。》

そのプロセスを経て次のような目標地点に達することで、本書は終わる。

それは、《「ではない」「そして」「または」「ならば」「すべて」「存在する」、これらのことばが作り出す演繹的推論の全体を統一的に見通すこと》だ。標準的な命題論理と述語論理の公理系が完成される。
詳しい人からすれば「たったこれだけ」とも思えることのために、250ページ近くをかけているが、以上のような意図があるゆえであり、十分費やしただけの価値はあると思う。

これを読んでも、論理学が得意になったとまではいかなかったが、論理学者の頭のなか(思考のプロセス)が覗けただけでも収穫だった。おかげで、苦手な分野に「親しみ」を感じることもできた。
頑固でこまっしゃくれた、私のような読者の凍った心を、シュウッと溶かしてくれた本書に感謝。

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紙の本

底辺からの声

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アメリカの莫大な医療費。救急車を利用すると、保険適用前ではあるが8500ドルを請求されるというのは目を疑う。
著者は腎臓結石という持病があり、これまでに3度倒れている。民間の保険会社に毎月400ドル近く払っていても、カバーしてくれるのは6割ていどだ。2005年に起きた発作のときには請求が8200ドルで、3200ドルを自力で払わねばならなかったのだそうだ。それでもまだましな方かもしれない。アメリカの貧困家庭は、健康保険を買う余裕すらない。
本書は、そんなアメリカに住む「底辺の人々」がなにを考え、なにを大統領に期待するのか。その姿と肉声に、大統領選挙戦と同時進行で迫った。

およそ一年間にわたる取材でインタビューした人たちは、以下の順になる。

ネヴァダ州のヒスパニック。
「レッドネック」とも呼ばれる、ホワイトのホームレスたちとその支援者。
ペンシルヴェニア州の元海兵隊員やイスラム教徒。
フロリダ州のプエルトリカン。ガイアナからの移民。
カリフォルニア州の退役軍人たち。コリアン・アメリカン。
「ビッグ3」が産声を上げた、今は寂れゆくデトロイトの住民。
ハリケーン、カトリーナから3年たっても、復興が遅々として進まないニューオーリンズの黒人たち。
日本のボクシング界では著名なハワイアン、マック・クリハラ。
ロスアンゼルスの、あるユダヤ人。

最後のほうでは、取材をいやがるウオール街の人々、オバマに投票した富裕層にもインタビューしている。

大統領には誰がふさわしいかという質問に対して、こういった人たちが最初からオバマ一色だったわけではない。経験不足や暗殺への危惧を口にする。医療保険改革への取りくみではヒラリーのほうがポイントが高く、前半戦ではヒラリー支持者も多い。また、共和党派がいないわけではなく、棄権派はかなりいそうだ。
心に残るのは、戦争なんかしているより「弱者」や貧しい人に目を向けてほしいという訴えだ。

彼(女)らの声ははたしてとどくか。予想されたとおり、アメリカの失業率はいぜんとして悪化傾向にある。オバマ政権の正念場はこれからだ。

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紙の本

紙の本団地が死んでいく

2009/04/08 02:33

集合住宅の孤独

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「団地が死んでいく」とは二つ意味があって、一つめは住居としての団地が老朽化していくことです。建てかえで対応という所がでてきますが、そうしたからといってうまくいくとはかぎりません。都営戸山団地がその例として登場します。高層化と現代的な遮断性の高い構造は、住民の孤立化を助長しているようなのであります。

「鉄筋コンクリートの建物の耐用年数は30年なので、その周期で建て替えるべきだ」という説が吹聴された時代がありました(私もその頃は信じてました)。築40年を越えた戸山団地の建てかえは、この説にそってなされたものでもあります。
これにまっ向から異を唱えたのが千葉県の松戸市常盤平団地の自治会でした。「ど迫力」の自治会長が率いているそうです。ここは長年の家賃値上げ反対運動の実績があり、続いて建てかえ反対運動がおこります。結果的には公団は建てかえをあきらめた形になりました。築47年(本書出版時)の常盤平団地は、入居希望者が待たされることがあるほどで、いまも元気だそうです。

しかし、元気といっても、たくさんの子どもたちが跳ねまわっていた昔の活気はさすがに薄れています。もう一つの「死へと歩んでいく団地」、つまり居住者の高齢化は常盤平団地もふくめ各所で進行しています。
かつて団地は、一戸建てやマンションなど持ち家へ移行する前の「仮の住処」としてとらえられていたふしもありました。それが経済事情の変化もあり「終の住処」にする人が増えているのでしょう。

本書の大きなテーマである「孤独死」という問題が発生してきます。これが集合住宅に顕著な問題かどうかということについては、一戸建てとの比較でまだ詳しい調査はなされていないようですが、仮説としては孤立しやすい環境であるといえそうです。
ここでも常盤平団地が行政と協力して先進的な取り組みをします。NHKでも放映されましたからご存じの方もいらっしゃるでしょう。

著者は、ほかの地域の例も引きながらコミュニティの再生を訴えています。個人主義化した社会で、プライバシーの保護と著者のいう「結の創造力」をどう両立させていくか。そういった難題もありますが、ますます高齢化社会が進むなか人ごとではない話です。対策を立てていく必要があるでしょう。

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紙の本

紙の本議論のウソ

2006/04/08 02:31

躊躇しながらも、強靱に思考するために

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルからは、これは世間に蔓延る「ウソ」を暴いてくれる本だろうと予期できるし、一応「そういうもの」に反論する形になっている。
しかし、暴かれた「ウソ」を肴に溜飲を下げたいだけの読者には、この本は向いていないかもしれない。
確かに登場する「ウソ」は根拠薄弱なものであり、直裁にウソと切り捨てて良さそうなものも含まれている。
だが、著者は第5章で《いままで議論してきた全ては、簡単に「ウソ」といってすまされない問題や、様々な結論を引き出せるかもしれない問題である。》と述べて、自分の見方を絶対視しない。私はこれを、著者の誠実さの表れであると感じた。

《(略)あることが「ウソ」であるかどうかというのは、立場なり、視点なり、価値観なりによって変わってくるのがむしろ普通であることがわかる。(中略)
個人的意見としては、スパッとわかることより、なかなかわからない方がよいと思っている。頭が良くてさっと結論をだせるよりも、なかなかパッとはわからなくて、ああでもない、こうでもないとしている方がよい。(中略)
もちろん、だからといって、全てをあいまいにしておくべきだというのではない。十分に根拠がなくても判断しなくてはならないことも少なくない。「政治的決断」は、しばしばそうしてなされる。しかし、多くの知識や事実は、しばしば複数の解答が考えられるということを忘れないでおくことも重要ではないだろうか。》

著者は、ポストモダン的な「相対主義」の洗礼を受けているなあと思う。最後の方で《ポストモダンとか脱構築という時代である今日》と書いているので、やはりそうかと思った次第。
「ポストモダンなど既に過去のもの」という人も多いが、素直には頷けない。本書がいい例だ。本書は実証的な論考を核とするが、ポストモダン的な解釈も加味して、「複数性の中の【変わりうることに自覚的な】主体的自己」の確立をも射程に入れる。それを説明する結論部がやや弱いが、本書の意図の8割方は成功していると思う。

次に、メインディッシュ(1〜4章)の紹介を簡単に。
著者が俎上にのせる言説は4つ。少ないようだが新書としてはちょうど良いボリュームだ。

第1章『統計のウソ--ある朝の少年非行のニュース評論から--』
「少年の非行は凶悪化している」といった世間受けする論調が、実態とは乖離していることを指摘。
《「統計」は、常に「ある種の意味」を前提につくられる》のであるから、その意味や隠された意図を、《少し後ろに「引いて」見つめる必要がある》と説く。

第2章『権威のウソ--『ゲーム脳の恐怖』から--』
『ゲーム脳の恐怖』の信憑性のなさと、やたらと権威を利用する議論の危うさを指摘。

第3章『時間が作るウソ--携帯電話の悪影響のうつりかわり--』
時間がたつにつれて事態が変化しているのに、その変化を問うことなしに、以前の結論に固執することから生じる虚偽を暴く。

第4章『ムード先行のウソ--「ゆとり教育批判」から--』
OECDの学力調査を鵜呑みにして、『学力低下がおこっている、これも「ゆとり教育」のせいだ』といったような、短絡的な議論の「過ち」を指摘。

最後に著者の「ウソ」(と言うほどのものではないが)に、一点もの申したい。

《現代の社会生活をおくるのに不可欠になってしまった携帯電話やインターネットやメールという道具》

これは「まず結論ありき」の論述に陥っていると思う。確かに、マス社会的には「不可欠」かもしれないが、個人レベル(上の文章はそれも包含しているはず)での事情は様々だ。私は携帯電話は持っていないが、特に不自由していない。高齢者層を中心に、インターネットの非利用者も存在する。
「不可欠」は、別の解釈・可能性・実状などを封ずる言葉でもあるから、気をつけて使う必要があると思う。

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紙の本

政界のあさってはどっちだ!?

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「選挙前に大がかりな政界再編があるのでは?」という観測が一部でささやかれていたが、少数離脱があっただけで結局はそうならなかった。たしかに、再編して対立軸をもっとはっきりさせて選挙に臨んだほうが、すっきりしてよかったのかもしれない。しかし、そうはならないのには「大人の事情」というのがいろいろあったようで・・・。

著者は、政界の人間関係に通じていて「ヒューマンファクター」ということばを使う。それが再編の軸になるそうだ。横文字にするとかっこよさそうだが、惚れた腫れた・・・じゃなかった、好き嫌いという感情的な人間関係要素がそこにはふくまれていて、ある程度は離合集散の方向性に影響しているのではと思ってしまうこのごろだ。この世界もご多分に漏れずドロドロしてますからねえ。

さて、どんな本にもあるとはいわないが、「えっ、そうなの? いったいそれはどういうことなのかしら。是非、知りたい!」と思わせるような、うたい文句があったりするものだ。本書のばあいは「まえがき」のここ。

《恐らく、2010年夏の参院選挙は衆院選挙とのダブル選挙になるはずだ。その「衆参ダブル選挙」こそが、この国の先行きを決める結節点になる。まちがいなくその日に、現在の自民党も民主党もなくなり、永田町の景色は一変する。次の衆院総選挙は、そこに至る通過点でしかない。》

うーん、自民も民主もなくなってしまうわけ? これはたいへんだ。どうしてそうなるのか知りたいと思ってしまうのが人情だ。
しかし、「前置き話」が長い。いや、そこにヒントが隠されているということなのだろうけど、近年の政界事情の話が4分の3くらいを占めている。前にも書いたが、これはこれでつまらなくはないので、「・・・長い」というのは否定的評価ではないつもり。

第5章では、すこしニュアンスが違うこともいっている。

《解散・総選挙後には、自民党も民主党も姿を変える可能性が高い。もっと言えば、解散・総選挙前のようなかたちの自民党という存在も、そして民主党という存在も消えるに等しい状態になるのでは、と筆者は予想しているのだ。》

もし民主党中心の政権ができでも、長くは続かないとのご託宣のようだ。だけど、最後まで読んでもいまひとつ「確信」めいたものはもてなかった。まあ、政界の一寸先は闇なのだから、なにがあっても不思議はないのだが、それが根拠なら私のようなボンクラでもいえる話だ。

著者は、ボンクラではなく、いくつかシナリオをあげているので予測の材料として使えばいいのだろう。ただ、そこに民主党の単独過半数シナリオがない。
というのも、執筆の時点では以下のような認識だったからだ。

《それでも、民主党が単独で過半数を制することはないだろう。これも永田町ウォッチャーたちの一致した見方でもある。そうしたなかで自民党が戦わなければならない衆院選挙の結節点は、自民・公明両党で辛うじて過半数に届くのか、それとも過半数に届かないのか、ここにある。》

水掛け論を承知でいうと、当時、民主党単独過半数の可能性が現在ほどは高くなかっただろうということは認める。しかし2008年の秋~冬に総選挙をおこなったばあいでも、永田町ウォッチャーのみなさんが見るほど低くもなかったと思う。伯仲の戦いをしただろうし激戦区をものにできれば、ぎりぎりの過半数確保もありえたと思う。永田町ウォッチャーの評価は意外だった。

どこが勝っても政権運営は波高し、再開再編の行方はどうなるか。選挙後も目が離せないのはまちがいなさそうだ。

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紙の本

紙の本世襲議員のからくり

2009/08/20 20:42

「世襲」というお仕事

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全173ページ。このところ、薄い新書には文春新書であたることが多い。まあ、たまたまなのだろう。
本書のばあい、テーマが世襲問題一本なのだし、一般向けにはこれくらいの分量でも十分なのかもしれないなと思い返した。さらっと読めていい。

世襲議員が「絶対悪」だとは思わない。だが「立候補の自由」を叫ばれても、とくに国政において私ら市井の人間の大半には「立候補の自由」なんてほとんどないようなものだ。事実上、規制されているようなものなのだ。
ただでさえハードルが高いのに、特定の人だけが有利になる「からくり」に支えられているなんて納得がいかない。だから立候補の自由は原則として確保するが、「機会の平等」を高めるための規制はおこなってもよいのではと考えてしまう。平行して政治家には、供託金の引き下げ、あるいは便宜供与が一切ないかわりに供託金なしで立候補できるしくみなども検討してもらいたい。

永田町では「世襲」と「二世」は厳密に分けているという。本書はその立場はとらない。そして以下の3つのからくりを明らかにしている。
(1)政治資金管理団体の非課税相続
(2)後援会組織の世襲
(3)看板の世襲

「三バン」の構造自体はいい古されたことではあるが、それの「継承」という視点で再構成している。
(1)については、相続税に苦しんでいる人は、だいぶ怒っているようだ。著者が週刊誌上で発表すると、議員から「悪いけどあの件について書くのなら、今後は一切取材に協力できないから」等、いわれたという。
そのほか、詳しくは読んでいただきたい。

後半は対処法だ。規制というと法制定だが、そう簡単に一筋縄ではいかないようだ。著者は、イギリスの政党を参考にしてリクルートシステムの改革を「近道」として有望視している。
また、著者は政治家の「胆力」を重視している。それが政治家に備わっているのかどうかということは、世襲であるかどうかにかかわりなく有権者が見極めたいことだろう。

世襲議員に辛すぎるところもあるけれども、耳をかたむけたい提言がつまっている。

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紙の本

なんで一人だけしか選べないの?

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主張の書だ。あ、いや、どの本だってなんらかの主張はしているのであった。制度改革についての「政治的メッセージ」を、はっきり打ちだしている書だといいなおしたい。

著者は経済学者だ。政治学や選挙制度に関しては素人だとことわったうえで、政治改革のためには選挙制度改革が欠かせないという。根本動機としては、いかにして平等選挙を実現するかというこだわりがある。

著者のベーシックな主張は、以下の3つにしぼることができる。

(1) 投票方法は、「二分型投票方式」にしましょう。
(2) 選挙制度は、大選挙区制を基本にしましょう。
(3) 早急に電子投票化を進めて、在宅投票システムへの移行をはたしましょう。

二分型投票方式とはわかりにくい呼称だが、承認投票の一形態で信任投票と呼んでもいい。『選挙のパラドクス』で紹介されていた範囲投票の簡易版である。
しくみはそう複雑なものではない。立候補者数mが3人以上いれば、有権者はm票の範囲内で何票でも好きなだけ投票ができるというものだ。ただし、同一候補者に2票以上重複して投票することはできない。たとえば、定数が5の選挙区に7人候補者がいるとして、すべて当選するに値すると考えるなら7票、二人まではいいと思うなら2票、といったような投票行動ができる。定数には左右されず、候補者数の変動にのみ可能投票数は追随する。
(なお、投票方式の理論解説にややこしいところはあるが、専門家のみならず一般読者あてにこそ書かれた本である。)

メリットは、単純多数決にくらべて民意を公平に反映させるため、多くの有権者を満足させる結果をもたらすことだ。著者の表現でいうと、「失意の投票者」を減らすことができる。ただし、シミュレーションしたところ、小選挙区制度下では劇的に減るとまではいかないようだ。
そこで(2)の大選挙区制にしましょうという主張につながっていく。さらにヴァリエーション・タイプとして定数変動型の選挙制度を提唱している。これは、「あらかじめ決定しておいた、一定以上の票を獲得した候補者」または「50%以上の得票をえた候補者」を当選とするしくみだ。

私の賛否としては、素直に比例代表制でもいいと思っているが、承認投票もそれとイーブンに近いぐらいの評価はしたい。まずは、現行の小選挙区でやってみてもいいのではないかと思う。
定数変動型については、適正な区割りによって一票の格差を是正することで、とりあえずはいいと思っている。
電子投票については、将来はその方向に行くのだろうが、いまのところアンビバレンツだ。ブラックボックス化されることに対し警戒感がある。

いずれにしろ、よい問題提起の本ではあると思う。

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紙の本

紙の本カネと暴力の系譜学

2009/04/28 07:55

コッカとヤクザ

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『国家とはなにか』の続編。
骨格となるロジックはシンプルだ。言葉は機能に徹し、ごてごてとした装飾は排している。かくして、質実剛健な書像(論文)がロールアウトされる。

ごてごてとした装飾を排したといったが、見かたによっては挿入されるドゥルーズ=ガタリやフーコーなどからの引用文が装飾的に思えるかもしれない。これらは文体からして「異物」だ。しかし、前作でもそうだったが、著者はこれらを自分の文章に取りこんで血肉にしてしまう。
それだけなら、すくなからずやっている人はいるだろうが、肝心なのは次のことだ。それは、著者自身だけにわかるような独りよがりのものではなく、読者にも通ずる形でなす、ということだ。
だから、おそらくは高校3年生ぐらいでも読みこなすことのできる思想書ではないだろうか。いや、少々背伸びしてでもいいから若い人にこそ読んでもらいたいと思う。

なぜ「金」でなくて「カネ」なのか。著者の説明はないが、想像するにある種の「いかがわしさ」を醸しだせるからではないか。また、新しい重要なアクターとして「ヤクザ組織」が登場することも関連していそうだ。
ふだん私たちは、このヤクザ組織と国家とはどこが違うのか、なんてことを考えたりはしない。「違うのはあたりまえでしょ」で思考は停まる。しかし、著者はあたりまえとは考えない。どこが違うかを追求する。わざわざそうするのは、国家とヤクザ組織にはとても似たところがあるからだ。それは、両者が存続し発展するための活動にかかわる。枝葉を落として単純化していうと、暴力によってカネを徴収するという活動のことである。
この似かよったところのある両者から「違い」を抽出することによって、国家の像がクリアカットに浮かびあがる。
著者の論理展開の手つきは、タイトでクレバーだ。

ヤクザ組織はアウトロー集団である。本書ではアウトローは「法の外」と定義している。法の外と国家は手を組むことがある。国家はアウトロー集団を利用することによって、逆説的だが統治のための秩序を維持しようとすることがある。この戦略は、秩序を維持するためにかかるコスト削減にも資するのだ。
戦争の民間委託にも似かよった点がある。それによって国家にかかる責任と負担は軽減できるのだが、いいことであるとはいえない。

著者の提示する国家像は、あくまで冷徹でシニカルだ。一瞬、アナーキストかリバタリアンにでもなりたい気分になるが、もちろんそれは気分だけだ。いったんは、つきはなして根底から考えてみるということが大切なのだろう。そのうえで、どう「国家」とつきあっていくか。

後半では国家と資本の関係において、ある大胆な仮説が語られる。ここはもっと論証を深める必要があると思ったが、それは今後に期待したい。

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紙の本

紙の本団地ノ記憶

2009/04/07 02:45

団地にふりそそぐ陽光は、5月がいちばん輝いていた

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廃墟系の写真はなく、「美しい」団地の写真のみで構成されています。美しいといっても、そこは団地なので生活感にあふれた美しさです。

厳選されたカットが、ときにノスタルジックに、またはリリカルに、そしてファンタジックに記憶のシナプスを発火させます。
じつに残念なことですが、多くの団地が解体期にあるそうです。「いま記録に残しておかなければ」という作者たちの情念が、静かに伝わってくるようです。

企画ものとしておもしろかったのは「団地巡りのモデルコース」で、公団ひばりヶ丘団地を紹介しています。この企画だけで、もう一冊本がだせそうな気がしますね。「観光地じゃないんだから!」と住人の方に怒られそうですが(汗)。

それで思いだしたのですが、団地(ここでは公団系の住宅で中規模以上のもの)は、「ミニ探検」が好きだった子どもにとって「周遊コース」としての遊び場でもありました。
対照的だったのは社宅です。中層住宅が数棟ほどで構成された社宅は、ある意味団地のミニ・ヴァージョンでした。しかし、社宅は周囲を塀で囲まれていて、関係者以外立ち入り禁止でした。気にせず入りこんで遊んでいる子どももいましたが、私は入るのに躊躇させられました。

それに比べて、公団系の団地はその多くが開放的でした。探検のしがいがあります。プレイ・ロットの遊具には、オブジェ的におもしろいものがありました。芝生に入ってもめったに怒られることもなく(地域や時代による差はありましたでしょう)、寝そべったり走ったりして遊べました。植え込みのなかは「秘密基地」となり、傾斜のある小道はローラースケートで滑ることができました。
広々とした共有地がベースになっている団地は、おおげさにいえば「公園都市」といった趣をもっていたのです。

本のほうに戻るとしましょう。残念なのは96ページしかない薄さです。もっとあってもよかったと思います。ただ、WEBサイトに行けばさらにいろいろ見られるようになっています。ありがたいことですね。
ともあれ、団地ファンなら押さえておきたい本でしょう。

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紙の本

新書は川から海へ

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うまいなあ。歴史に残るような名文とはほど遠いが、自分には一生かかってもこんな文章は書けないなと思う。
本書は137冊の新書をキーワード別に分類し、一冊につき800字前後の字数で紹介している。基本的には、『いまどきの「読むに値する」新書』をセレクトしている。
字数の制約を制約と感じさせない、テンポがよく切れ味鋭い筆鋒で読ませる。冒頭の「つかみ」となる一文、ラストのキリッとした「締め」が短文の見本のようだ。
これにはさむ具材は、対象本の概要に永江氏の体験と主張だが、この重ねかたの手際がいい。最近はコンビニのものもだいぶおいしくなってきたそうだが、いぜん、それよりワンランク上の手作りサンドイッチの味わいだ。

ときに乱暴で激辛だが、ひねりの効いたフレーズがスパイスになっている。
たとえば、『DV(ドメスティック・バイオレンス)殴らずにはいられない男たち』においては、妻を殴る夫たちをこう形容する。
《妻を殴る夫たちは、何らかの理由でそのトレーニングを積んでこられなかった。子供なのだ。子供が結婚してはいけない。》
幼い子どもを虐待する親と祖父母のことは、《(前略)幻想にとらわれ、衝動を抑えられない子供のような親たちだ。子供が子供を産んではいけない。》

未読の人に「読んでみたいな」と思わせること。ちょっとおおげさだが、それがプロ書評の役目だと思う(批判に徹するばあいは別として)。永江氏は、「読むべし」と強く推薦するわけでもなく、本そのものを激賞するわけでもない。そこはサラリとすませているのだが、未読のものは読んでみたくなり、既読のものも再読してみたくなった。
こういうところが、プロのライターならではなのだろう。

著者いわく、いまや新書は「なんでもあり」だそうだ。文庫の後塵を拝しているジャンルは小説と古典ぐらいか(「中公クラシックス」が気を吐いている)。ならば、「新書とは、新書サイズの書物のことである」という最小定義でいいつくせる日も近いかもしれない。
そんな、新書の海で溺れたい。

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