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商品説明
神、精霊、天国、洗礼(浸礼)、愛…。聖書はいかにして日本語になったか、その実験と葛藤のドラマを追う。聖書の翻訳がどのような意味で文化的な事件であったのかを具体的に描き出し、日本近代の埋もれた系譜を発掘する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
鈴木 範久
- 略歴
- 〈鈴木範久〉1935年生まれ。立教大学名誉教授。著書に「日本キリスト教史物語」「日本宗教史物語」など。
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紙の本
新しい考え方を普及させるためには必要なことは何だろうか-「目からウロコが落ちる」本
2009/12/22 14:21
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
キリスト教聖書の日本語への翻訳の歴史を、キリシタン時代からさかのぼり、とくに明治時代から最新訳聖書に使用されている日本語を徹底的に分析した本。
キリスト教の教義と思想そのものは、戦国時代末期のキリシタン時代にあっては当然のことながら、明治時代の日本人にとってもは新しいものであった。
明治時代に行われた、聖書の日本語訳で使用されたキリスト教用語が、中国で出版された漢訳聖書(漢語訳聖書)のものを多く引き継いでおり、このため明治時代の日本人にとっても受容しやすかったという指摘が興味深い。
これは、漢訳仏典をつうじて日本人が受容した大乗仏教と同様、キリスト教もまた漢訳聖書の影響を、最新訳の聖書に至るまで(!)大きく受けていることを意味しているわけだ。
江戸時代後期の国学者・平田篤胤(ひらた・あつたね)は、禁書であった漢訳聖書と漢訳キリスト教文献をひそかに入手し、影響を受けているらしい。
原典であるヘブライ語とギリシア語から、旧約聖書と新訳聖書が翻訳がされるようになったのは口語訳聖書以降であって、現在の最新訳においても、漢訳聖書で使用されたコトバが生き残っていることが、著者の研究によって示されている。
新しい思想を受容するに際しては、受容する側にその思想を理解するための回路を作らなければならないのだが、その際には従来からの思考の枠組みとコトバが多く利用されるわけである。
これは、キリスト教の布教といった狭い側面に限らず、新しい考え方を普及させるためには必要なことなのかもしれない。
「目からウロコが落ちる」、「笛吹けど踊らず」などの日本語表現が、聖書に由来することを多くの人は知らないようだ。それくらい現在では当たり前の表現になっている。
こういったことも含めて、近代日本語を豊にしてきた「聖書の日本語」について知るための必読書である。
紙の本
キリシタンから新共同訳まで
2023/03/24 23:34
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の明治以降の聖書についての記述は日本聖書協会系の翻訳が主なので「新改訳聖書を扱っていないのはおかしい!」という向きがいるらしい。それなら新改訳聖書を主体にした日本語訳聖書の歴史でも出せばいいだけの事だ。もっとも巻末の年表で出て来る新改訳聖書は昭和40年の新約聖書だけなので不満に思う人はいるだろう。
ギュツラフ訳については著者の出身地だから分かる事だ。
著者は昭和10年生まれなので田川建三と同い年だが、どうも子どもの頃から親しんだ文語訳聖書に対する愛着を感じてしまう。それが「文語訳聖書を読む」のようなモロに主題な本では前面に出てしまう。
他の本でも言える事だが、とうとう聖書協会共同訳の序文から存在を抹消されてしまった昭和53年の「新約聖書 共同訳」が不評だった理由は避けているみたいだ。固有名詞の表記がカトリックとプロテスタントでは違うので、それぞれの発音の中間を取った原音主義に従ったような表記を取り入れたり、福音派で言うところの「ノンクリ」向けの翻訳なのか、それとも「教会で使える翻訳」を目指したのかが中途半端だからではないのか。それにカトリックとプロテスタントでは同じ書名を使っていたパウロ書簡まで新しい書名を作り出す必要はあるとは思えない。観念的には「聖書を広く「異教社会」の日本で読まれてほしい」と思ったにしろ、あまりにも抽象的で現実から遊離していた結果なのではなかったのか。
著者は「カミ」という表記をするのは「神」では八百万の神々を連想するのだろうが、それでは著者の出身地から近いところの福音派の牧師が「創造主」なる新造語を作りだしたのと同じ発想だ。"God"でも"Deus"でもいいが遡っていくとゼウスにつながり、インド・ヨーロッパ祖語にたどれるような固有名詞なのだから、どうなるのだろうか。
「〔付章〕聖書と日本人」は後に日本聖書協会から「聖書を読んだ30人」として出た本と同じ連載を転載している。