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商品説明
政策過程における「政(まつりごと)的側面」を内包する行政活動がどのような組織と人事の仕組みの中で行われているかを明らかにするとともに、変わらなさの要因をさぐり、改革への新たな展望を示す一冊。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
大森 彌
- 略歴
- 〈大森彌〉1940年東京生まれ。東京大学大学院修了。法学博士。東京大学名誉教授。著書に「自治体行政学入門」「分権改革と地方議会」など。
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紙の本
国家公務員1種試験に合格したエリート官僚の卵の諸君!本書を買って熟読すべし!!一流大学を出て一流企業に就職した諸君も本書を買って熟読すべし!!!参考になることが多いと思う!!!!それ以外の諸君は、まあ、読まなくてもよいし、まして買う必要などない。だって関係ないもん(笑
2009/07/10 21:31
20人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
なかなか良くできた良書である。霞ヶ関若手官僚の間でも評判は上々で、購入し熟読している者も多い。行政学の専門書にもかかわらず、わずか1年で三刷もしているのは学生需要だけでは到底無理で、若手官僚が如何に本書を支持しているかの証左でもある。
本書の構成は「日本の官僚制度が、GHQによる改革圧力を如何にかわし、明治時代以来の伝統的官僚文化を維持し続けてきたか(1章)」「日本式大部屋主義とそこでの立ち居振る舞いの基本ルール(民間企業にも通じるサラリーマン処世術ノウハウと、日本式大部屋主義での期待される人間像)(2章、3章)」「官僚組織の粘性と組織保存本能の強さ(4章)」「日本型官僚組織のお仕事(新人官僚向けの研修マニュアル)」「地方分権改革委員会が、改革で如何に苦労したか。また地方6団体を山車に使って天才政治家小泉純一郎が如何に三方一両損の形を取りつつ三位一体の改革をまとめ上げていったかのドキュメント(6章)」「これからの官僚システム(終章)」という構成になっている。
本書を読むと一般の企業含むいわゆる日本型組織というものの特性が非常に良く分かる。そこでは従業員のスクリーニングは採用時に概ね実施済みで、あとは個々の能力(とりわけ突出した能力)というものは問われず、問われるのは何よりも協調性、ストレス耐性(平たく言えば人柄)であり、場の空気を読む力、周囲の気持ちを察する力(平たく言えば思いやりの能力)であることが分かる。日本の組織の力の源泉は集団組織力のパワーであり、言うならば日本では「三人よれば文殊の知恵」が何よりも重視されるのであって、自分だけ突出して周囲との協調性を欠く人物は集団の力を殺ぐ「お邪魔虫」として忌避されるのである。だから勉強と言っても「ほどほど」が良いのであって、突出して勉強しても、それは必ずしも評価はされない。日本的な大部屋主義では個々の業績判断は難しく、評価は必然的に「減点主義(何か重大なトラブルを起こしたかどうか)」にならざるを得ないという指摘も「なるほど」という感じだ。マスコミには「減点主義からの脱却」みたいな言論が満ち溢れているが、これはいわばガス抜きのための「ためにする議論」であり、本質は変わらない(変えようがない)ようだ。
あと、明治以来の伝統である「官治主義」も、ここまであからさまに書かれるとゲンナリするが、日本の政治の本質を突いている分析である。本来官僚組織とは立法府が定めた法を執行する機関であり、正しくは「行法」と書くのが正しいのではないかと著者は言う。しかし日本では伝統的に官僚組織を行政組織と呼び習わしてきた。これには理由があって、議会の信頼性が低く機能が低い中で(なぜ議会の信頼性や機能が低かったかについては本書では深くは分析されていない)、立法府に成り代わって「まつりごと(政)」を行ってきたのは「行政府(官僚組織)」だったのである。日本では、国土の上で生じる森羅万象すべてが1府10省のいずれかの守備範囲とされ、行政組織を離れた場での解決(例えば司法による問題解決)は忌避されてきた。今般「消費者庁」が新たに設置されることになったが、今まで生産者サイドに偏りすぎていたという行政に対する批判を受けて消費者の利益までもが官僚の守備範囲とされてしまった。「戦後、憲法理論は三権分立の意味を事実上、行政権優位とし、行政権が全領域を支配することを黙認してきた」なんてしゃあしゃあといわれると「なんだかなー」といいたくなる。
地方自治も長らく国の統治行為の一環と位置づけられ(戦前は全国の県知事は任命制で内務省の役人のポストのひとつに過ぎなかった)、戦後もアメリカ由来の地方自治法にもかかわらず「国の機関委任事務」という名の換骨脱胎が図られて、地方は国の出先という位置付けが長らく温存され続けてきた。この100年続いた国による地方支配の伝統が終焉を迎えたのは2000年である。
日本の官僚支配を支えてきたのは、実は日本国民自身である。「市場原理に任せていては格差は広がるばかり」との脅迫と「日本国民は全国どこに住んでいても平等あるいは同じように扱われるべきという考え方」がセットになったのが「格差是正論」「新自由主義反対論」である。しかし地の利、水の利が良い関東平野のような場所と、僻地や山間地では「格差」が生じるのは当然なのであって、「嫌ならそんなところに住むな」というのが人類の基本的発想であると思うがどうか。勝手に富士山の頂上に登っておいて「水がない、空気が薄い、このままでは高山病になる」などと喚き、「東京に住んでいる人間は富士山の頂上に住んでいる人間に比べ恵まれている。東京人の税負担で富士山の頂上に水と空気を」などと富士登山者が叫べば「へ?」というだけで終わるが、似たようなことは道路、医療、教育、空港、港湾とそれこそ森羅万象に渡って全国規模で今日も展開されているのである。その結果できたのが関西新空港であり静岡空港であり駅弁大学だ。
こうした「田舎モノのおねだりを叶えるのが行政の仕事」というアンチ格差真理教は、しかし高度成長時代の終焉と共に行き詰まりをむかえる。田舎モノのおねだりを叶える「親心の政治」が可能だったのは、日本がまだまだ欧米に遅れた後進国で、これに追いつくのが国民の共通の目標となりえた「幸せな時代」でのみ可能なものであった。これを支えたのが高度経済成長である。しかし高度経済成長が終わり日本が名実共に先進国の仲間入りを果たすと、それでも続くおねだりは限りなく我が儘そのものになって、これを叶えることは政治の力を借りた富の収奪と化してしまう。昭和の始め、都市に住む中産階級と田舎の貧農とでは天と地ほどの格差があった。川越近くの寒村に自家用車で乗りつけた中産階級は「まるで月面に降り立った宇宙飛行士のようであった」と祖父江孝男は『日本人はどう変わったか』に記している。しかし地上から全ての格差をなくすことは不可能である。これを実現しようと神をも恐れぬ壮大な実験を試みたソ連・東欧諸国や中国、ベトナム、カンボジア、キューバはいずれも悲惨な結末を向かえ、世界最貧国に転落した国も多数出て現在に至っている。「孟母三遷」といわれた昔から、教育熱心な家庭は良好な教育環境を求めて全国を渡り歩いたものなのである。国による義務教育費がわずかに減ったからと言ってピーピー騒ぐ連中がいるが、それなら適した環境に引っ越せばよいだけのことだ。自分は何もせずにじっと座って口だけ開けて「徳のある『おかみ』が各自の口に平等に飴玉を入れてくれる」のを待つという姿勢から、我々はそろそろ脱却すべきである。こうすることで初めて我々は明治以来続いた官僚支配の世界から脱却できるというものだ。
ただ私は近年に大量発生した官僚汚職を指して「本来の俗物性が表に出て、かつてあった高潔さが失われた」などとは思わない。かつて高級官僚が高潔そうに見えたのは、組織に忠誠を誓えば長期的に見て非常に儲かる生涯安心システムが「天下り」という形を通じて保障されていたからであり、それが崩壊すると同時に不祥事が頻発するという傾向もあると思っている。だから昔も今も日本人の中身は「似たりよったり」であったと私は思っている。
紙の本
官のシステムは改革されるのか、それとも自壊していくのか
2007/03/20 20:48
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:JOEL - この投稿者のレビュー一覧を見る
読後感は、踏み込みがたりないなあというものだった。「官のシステム」に問題があることは、たいていの人なら新聞やテレビ報道から知るところである。何が問題の本質であるのか、実例を挙げながら生々しくも説得力ある議論を展開してくれるものと期待したのだが、そもそも記述の仕方が違った。
本書は「行政学叢書」全12巻のひとつとして書かれているので、シリーズの性格上、学問的な体裁の書物になっている。そのため、期待したものとは違い、大学の講義のテキストのような書きぶりになっている。
もう少し、実例を交えながら、臨場感のある書きぶりにすれば、人気を博するようにも思えるのだが・・・。やや地味な本である。
とはいっても、行政の内情を古くにさかのぼって知っている著者だからこそ書ける深みがある。「行政」という言葉が表すように、日本では行政が、法律実務だけではなく、「政(まつりごと)」までしてしまっている現実は、論拠が確かで勉強になった。まさに、日本は”政低官高”の国である。
終章が充実しているのは、著者が言うとおり、行政機関の改革への提言が多く含まれているためだ。それにしても、本書を読むにつけ、改革に抵抗する官の精巧なメカニズムにはため息をつくほかはない。また、こうした「官」を「民」もまた支えているところがあるのはいかんともしがたい。
著者によれば、明治時代からの国の成り立ちが「行政」の中核にはいまだに温存されているのだが、変えるべきは「官」だけではなく、この国のシステム全体に及ぶとあっては、なかなか達成されそうにないことを直感せざるを得ず、またため息である。
とにかく学術的に行政のメカニズムを学びたい人には好適な本だろう。行政について面白みのある書物を求める人は、もっと親しみやすい他書にあたるのがよいと思われる。